心の治癒と魂の覚醒

        

6.超然


 8つの美徳の6番目は、超然(ちょうぜん)です。超然とは、地上世界のいかなる事物に対しても心を乱されないこと、また行為に対する結果にこだわらないことです。
 これは、欲望や感情に心を乱されないようにする「自制の美徳」や「平静の美徳」をさらに徹底させたものと言えるでしょう。どのような不都合な出来事に遭遇しても、心を悩ますことなく、悠々と、あるいは飄々としていることです。人から悪口を言われようと、誤解されて悪い評判が広まろうと、まるで他人事のように淡々とやりすごすことができる心境です。とりわけ、一生懸命に努力したのに、その結果が期待通りにいかなかった場合でも、失望したり悔しがったりしないことです。
 このような超然の美徳を養うことは、地上世界にいながら地上世界から離脱することと同じです。そのため、霊的な価値に目覚めた魂は、地上にやって来て、自らの進歩のために、あえて超然とはしていられない状況に身を置こうとするのです。そういう状況でも超然としていられるよう鍛えるためです。その典型的な状況は、無常、不公平、不条理です。なかでも不条理の経験をすることが多いようです。そのような状況に遭遇しても、超然とできるように魂を鍛えていくことが覚醒の道です。
 ここで、超然という美徳をよく示している例として、禅僧の白隠にまつわるエピソードをご紹介いたしましょう。あるとき、赤ん坊を抱いたひとりの男がすごい剣幕で白隠のもとにやってきました。男がいうには、結婚していない自分の娘が妊娠したというので、相手は誰かと尋ねたら白隠だという。その責任をとって、娘が生んだこの赤ん坊を育てろと怒鳴りつけ、赤ん坊を差し出したのです。話を黙って聞いていた白隠は、ただひとこと「あ、そう」というと、赤ん坊を引き取り、赤ん坊の世話をしました。ところがその後、娘は父親に、相手は白隠ではなく別の男であること、本当のことがいえず苦し紛れに白隠の名前を出してしまったことを打ち明けました。男は白隠のもとに行き、ひれ伏して詫びながら、どうか赤ん坊を返して下さいと頼みました。話を黙って聞いていた白隠は、ただひとこと「あ、そう」というと、その赤ん坊を男に渡したというのです。
 白隠は、なぜ最初に家に来たとき、自分には身に覚えがないといわなかったのでしょうか? 怒り狂った相手に何をいっても無駄だと思ったからでしょうか? だとしても、何もいわなければ、相手も世間も、自分の非を認めたと思うでしょう。
 しかし、聖人の伝記などを読みますと、これと似たようなエピソードがけっこう見られるのです。いっさい、言い訳をしないのです。
 悟りを開いたから、そのような心境でいられるとも言えるでしょうが、悟りを開くために(覚醒するために)、そのように超然としているべきであるとも言えると思います。しかしこれも他の美徳と同様、何と難しいことでしょうか。それでも、その難しさにあえて挑んでいかなければならないのかもしれません。超然であること、これが地上的な束縛から逃れるためには、どうしても養っていかなければならない美徳であるように思われるのです。

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