心の治癒と魂の覚醒

        

8.全託 その1


 全託とは、宗教的な用語であり、神(高い霊的存在の導き)にすべてを任せる境地のことです。何が起ころうと「これでいいのだ。神のご意志にゆだねます」と感謝して受け入れること、自分の将来の成り行き、生死に至るまで、「すべて神がいいように導いてくださるのだ」と深く信じる境地のことです。いわば、信仰の奥義とでも言うべきもので、高い霊的境地を開拓した人が持つ美徳です。
 言うまでもありませんが、「神にすべてを任せる」といっても、自分は何も努力せず怠惰に過ごすという意味ではありません。自分としては一生懸命に努力はしても、自力や我力で行っているのではなく、そうした努力さえも、自分ではなく神がやってくださっているのだと思う境地です。
 そして、どのような結果になろうとも、すべてはこれでよいのだと全面的に肯定し、何の不安もなく安心していること、いっさい力むことなく、ありのままに、自然法爾の境地で生きることです。浄土真宗の親鸞などが、この境地に達したことはよく知られていますが、宗教の違いや国の東西を問わず、信仰を究めた人、すなわち、霊的に高い境地に達した人は、みなこの「全託の美徳」を身につけています。
 あるロシアのキリスト教系神秘家は次のように言っています。
「私たちはこのことがあのようにではなく、このようになぜ起こったのかを捜し出そうとしてはならない。むしろ子供のように従順に私たちの天の父の聖なる意志に身をゆだね、私たちの魂の底から、“み旨の行われますように”と言いなさい。ただこう言いなさい。そうすれば気分は喜びに満ちるでしょう」(『ロシアの神秘家たち』セルゲーイ・ボルシャコーフ著 古谷功訳 あかし書房より)
 魂は、こうした「全託の美徳」を養うために地上にやって来て「負荷」をかけるのです。しかし、全託の美徳は、もっとも高い霊的な境地であるため、そのための負荷、すなわち体験は、それなりに厳しい傾向があるようです。
 たとえば、自分の力ではどうにもならないような大きな困難や障害に見舞われ、自力や我力でどうにかしようとする自我(エゴ)を徹底的にうち砕かれるのです。それは経済的な問題であったり、家庭的な問題、健康問題などざまざまですが、いずれにしても、自力であがくことを断念し、観念しなければならないような体験です。ときにはまったくの絶望のどん底と思われるものです。人間は、そこまで追いつめられてはじめて、すべてを神にゆだねる心境になるものなのかもしれません。
 ですから、絶体絶命の、自分の力ではどうにもならないほどの困難に見舞われたら、それは「全託の美徳」を養う目的で訪れたのだととらえ、全託の境地を確立できるよう努力するべきなのです。ところが不思議なことに、そのような心境になると、不思議なことに、何らかの仕方によって思わぬ方向から道が開かれることが多いのです。
 ロシアのキリスト教系神秘家であるパルフェーニィは次のように言っています。
「信頼を必ず保ちなさい。そうすれば神は人に飢え死にすることや、何かに困ることを決してお許しにならない。けれども人がどんなにわずかでも疑い始めたり、もしくは人間的な助けを求めたり、自分自身を頼ろうとし始めるなら、神の摂理は人を見捨てる」
(『ロシアの神秘家たち』セルゲーイ・ボルシャコーフ著 古谷功訳 あかし書房より)
 ただし、最初からこうした救いを期待していては全託にはなりませんので、どのような結果も受け入れる覚悟でなければなりません。
 いずれにしても、全託の美徳は、あらゆる美徳のなかでも最高に高い美徳ではないかと思われます。
 それゆえに、この全託の美徳を身につけることは、何と難しいことかと思うのです。続きは次回お話させていただきたいと思います。

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