考えるということ2012-06-18 Mon 17:29
先日、ノートパソコンを買いました。文章を書くだけの目的なので必要最低限の機能がついているものを選びました。ノートパソコンは高いというイメージがあったのですが、いつのまにか安く入手できるようになり、驚いています。余談ですが、私は日本で初めての家庭向けパソコンをもっていました。1980年のことです。当時は「パソコン」ではなく、「マイコン(マイ・コンピューター)」と呼ばれていました。日立の「ベーシックマスタージュニア」という名前で、もちろん、ハードディスクなどはなく、データの保存はカセットテープレコーダーを使っていました。記憶容量は、なんとたったの32キロバイトです(32キロバイトの情報をカセットに記録するのに15分もかかりました!)。ウインドウズなどというOSもマウスもなく、「ベーシック」というコンピューター言語を入力して単純な作業をさせるだけでした。それで、「インベーダーゲーム」のようなものをプログラムして作って夢中になって遊んでいました。当時のことを思いますと、本当に技術の進歩は凄いものがあると思います。 それはともかく、今回、私が買ったのは「Think Pad」という名前のノートパソコンで、立ち上げると壁紙に「Think」という文字が浮かんできます。 このThink、すなわち「考えなさい」という言葉は、最近亡くなったアップル社の創設者であるスティーブ・ジョブズのモットーらしく、私も彼を見習ってこの言葉を自分のモットーのひとつにしているのです。 単純といえば単純すぎるほどのモットーですが、けっこう奥が深いと思うのです。というのは、私たちは案外、物事を考えているようで考えていないことが多いように思われるからです。 学校の勉強などは別として、私たちが考えるときというのは、たいてい何か問題や悩みが生じたときではないでしょうか。すなわち、「どうすればよいのだろうか?」、「どうすれば、この悩みを解決することができるだろうか?」といったように考えるわけです。 そして、傾向としては、問題や悩みが深刻なほど、あるいは、問題や悩みに大きな意味や価値があるほど、深く考えるようになります。たいした問題や悩みでもなく、意味も価値もなければ、それほど深く考え込んだりはしないでしょう。 ですから、子供のときから何でも親がしてやったり、何不自由ない環境で育てたりすると、その子自身が特別な意欲を持って打ち込んでいこうとするものがなければ、その子は自分で考えることをあまりしない(できない)大人になってしまうかもしれません。自分で考えてどうにかしなくても、誰かが代わりに考えてどうにかしてくれるという習慣のようなものが形成されているからです。そのため、問題や困難に遭遇すると、誰かが解決してくれることを願って依存的になったり、困難を前にして意気消沈し、途方にくれてしまうような人間になってしまうかもしれません。 人間は問題や困難があるからこそ、「どうすればよいのだろう?」と常に考え、賢くなっていくのだと思います。あからさまに表現するなら、問題や悩みがないと、人間はバカになってしまうのです。 ただ、どこまで考え抜くかという点では、個人差が大きいように思われます。ある人は、ちょっと考えて「もうダメだ、わからない」と結論を出してあきらめてしまいます。しかしある人は、問題や悩みが解決されるまで、執念深くどこまでも考え抜きます。 この「どこまでも考え抜く」という姿勢が、人生においては非常に大切なことであると思うのです。人生におけるたいていのことは、あきらめずに考え続けていけば、いつか何らかの名案を得て、解決されてくるものです。たとえ完全ではなくても、現状よりずっと改善させていくことは十分に可能です。しかしそれも「どこまでも考え抜く」という姿勢を貫けばこそです。途中で考えることをやめてしまったら、そこでおしまいです。「どうすればよいのか? どうすればよいのか? どうすればよいのか?」と、ひたすら考え続けている限り、人生に希望はあると思います。しかし考えることをやめてしまったら、もう絶望的ではないでしょうか。 ところが、(自戒をこめて言うのですが)私たちはなぜか「考え抜く」ことをしません。ちょっと考えて無理だと感じると、もうそこで自動的に思考停止状態になってしまう傾向があるのです。まるで催眠術にかかったかのように、すぐに「無理だ、不可能だ、自分にはできない」と結論を下してしまうのです。そのように思う習慣のようなものが形勢されてしまっているのです。しかし、それを打ち破らなければなりません。「考え抜く」ということは、考えて無理だと思っても、「無理なら、無理でないようにするにはどうすればよいか?」と、さらに考えていくことなのです。しつこく、執念深く、決してあきらめずに、考えて考えて考え続けることなのです。 卑俗な例で恐縮ですが、むかしイギリスでアパートを借りて短期間ですが住んでいたことがあります。そのとき、アイロンが必要になったのですが、あまりお金がなかったので買うことができませんでした。そのとき「どうすればいいか?」と考えることがなければ、そのままあきらめて、私はしわくちゃのシャツを着ていたことでしょう。しかし、しわくちゃのシャツを着るのは嫌だったので、「どうすればいいか?」と考えました。そこで、フライパンを熱して、それをアイロン代わりにすることを思いつきました(うまくいきました)。お金があったらそんなことに頭を使うこともなかったでしょう。おかげで少しは賢くなったかもしれません。お金が十分にないということは、必ずしも不幸なことではなく、人を賢くするというよい面もあるのではないかと思ったりもします。 あきらめずに、考え続けましょう。問題や悩みを放置したり我慢したりせず、「どうすればよいか?」と考え続けましょう。すぐには解決方法は思い浮かばないかもしれません。しかし人間の脳(意識)というものは、「どうすればよいか?」と考え続ける限り、その解決のために、寝ても覚めてもフルに働き続けます。そうして、思いもかけないような方法や手段が思いついて、ついには解決してしまうことが多いのです。たとえ百点満点の解決でなくても、90点や80点くらいまで解決してしまうことは珍しいことではありません。 繰り返しますが、考え続ける限り希望はあります。考えなくなったら希望はありません。希望とは考え続けることなのです。 皆さんも「Think」という言葉を、人生のモットーにしてみてはいかがでしょうか。 スポンサーサイト
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コメント
こんにちは、斉藤先生♪
希望に向けて、考えを進みるのは僕も大切だと 思いました。 人類も歴史上何回も転んで、傷ついて、 ロケットを作ったり、思想や占いを発展させてきたのが、確たる証拠のようです。 「いつかユートピアのようなものが できればなぁ」 と、僕も考えています。 今がだめでも次の世代に託したいですね^^
斉藤啓一です。ローキックさん、コメントありがとうございました。
そうですね。人間と動物の大きな違いは、考える能力が格段に大きいことだと思います。考えることにより、知的遺産を次世代に残しながら、ユートピアをめざしていきましょう。 2012-06-21 Thu 15:46 | URL | [ 編集 ]
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