心の治癒と魂の覚醒

        

 自分を捨てるということ


 宗教の世界では、しばしば「自分を捨てなさい」という教えが聞かれます。この場合の「自分」とは、いうまでもなく本当の自分ではなく、エゴ(自我)という偽りの自分のことをさしているわけですが、エゴを本当の自分だと思っている私たちには、この「自分を捨てる」ということが、生易しいことではないわけです。というより、自分を本当に捨てることができたら、そのときは覚醒したときではないかと思います。
 いずれにしろ、「自分を捨てる」生き方は真実の生き方であると思いますし、自分を捨てることによって覚醒していくことは確かでしょう。
 問題は、いかにして自分を捨てるか、です。
 そもそも、「自分を捨てる」ということは、具体的にどのようなことを言うのでしょうか?
 しばしば誤解されているように思うのですが、「自分を捨てる」とは、「自分を犠牲にする」こととは違うでしょう。言い換えれば、何でも人の言うなりのまま従うといったことではないはずです。また、宗教や特定の教えを妄信することとも違うはずです。
 ひとことで述べるならば、自分を捨てるとは、「神の視点で生きる」ことではないかと思います。すなわち、「神ならどうするだろうか?」と考えながら生きるのです。究極的には考えることもせず、その言葉や行いがそのまま神の理念と合致していること、これが「自分を捨てる」ことではないかと思います。
 エゴで生きている私たちは、「自分はどう思うか、自分は何をしたいか」という視点で生きています。そうして、「自分」の思いや欲求に反する経験をすると感情的に気分を害するわけです。要するに、「自分に関係することになると感情が揺さぶられる」のが、エゴの特徴といってもよいでしょう。自分の視点からのみ、物事を考えているのです。
 たとえば、自分が悪口を言われれば気分を害しますが、人が悪口を言われているのを目の当たりにしても、ほとんどの場合、自分が悪口を言われるほどには気分を害することはないでしょう。ですから、もし自分が悪口を言われたら、他人が悪口を言われているかのように思うとよいかもしれません。そうすれば、それほど腹も立たないかもしれません。
 ただ、なかなかそうは思えないのが、私たち人間です。自分を他者のように客観的に距離をおいて見ることが苦手なのです。しかし、そこのところが、私たちが克服していかなければならない課題であるように思われるのです。
 自分が悪口を言われた場合、他者の視点から自分を見るよりも、もっと広い「神の視野」から自分を見た方がよいと思います。というのは、その「他者」が、家族や親友など身近な人であれば、どうしても思いが入って感情的に乱されてしまうでしょうし、逆にまったくの赤の他人であれば、必要以上に冷たく無関心になってしまうおそれがあるからです。つまり、本当に公平で正しい見方ができない可能性があるわけです。
 しかし、神の視野から見るならば、神は公平で正義ですから、より公平で正義に基づいた見方ができるようになると思います。
 すなわち、「自分は悪口を言われた。私は今、どのような態度でいることを、神は望んでいるだろうか?」と考えるのです。
 そのほか、どのような場合でも、何をするにしても、「私がどう行動することを神は望んでいるだろうか?」と考えるようにするのです。そうして、自分が考えた「神の望む行動」を行うようにしていくのです。
 もちろん、それが本当に神が望む行動かどうかはわかりません。しかし大切なことは、常にそうした視点で行動するように努力をすることです。なぜなら、その努力そのものが、「自分(エゴ)」本位に行動するという姿勢から抜け出していく方向性を持っているからです。
 それが、「自分を捨てる」ということではないかと思うのです。要するに、自分の望みではなく、神の望みで生きること、それを徹底して生きることではないでしょうか。
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コメント

 
「自分は悪口を言われた」と思い込むことも、慎みたい。
「改善すべき点を指摘してくれた」と解釈することによって、淀む心が流れる。
誰かの悪口を言ってるように見えるブログでも、よく読み込んで審議してみると、改善すべき点を指摘しているものもある。このあたりを識別するには、感情に支配されず、論理に固執しないことが重要ながら…。
斉藤先生の前著「真実の旅」を読んでいるの人には、わりと簡単に見抜くことが出来ると思いますが、世の中には井伏鱒二の山椒魚のような人が多いと感じます。流れの穏やかな岩屋にこもり続けて、肥大した自我が出口に引っかかって外の世界に出られない人が。
2012-06-24 Sun 11:35 | URL | 根越 [ 編集 ]
根越さん、コメントありがとうございました。
確かに、「悪口を言われた」と思いこむことも慎むようにできればベストですね。そのような機会もエゴの消滅に利用するというのは大切だと思います。
貴重なご指摘、ありがとうございました。
2012-06-24 Sun 18:40 | URL | [ 編集 ]
おひさしぶりです、斎藤先生。たいへん興味ある回ですね。

神様ならぬ我々は、推測するしかないわけです。すると、当然、主観が入ります。各人のイメージしたところの「神様ならこう考えるだろう」という主観に偏らざるをえません。

答えはありません。創造主が人格的な小さい存在でない以上、こちら側に来ることはありません。ただ、ヒントはあります。各人の「良心」でしょう。根源の存在の限りない分裂が我々だとすれば、神様の記憶のようなものも当然、分割して持っているわけです。

良いことをしよう、悪いことをしないようにしよう、という感覚が鈍っていなければ、覚醒していなくても、そこそこ正しい視点、視野をもてると思います。

先生の著書や、このブログで書かれているような、自己観察をくりかえし、自分の望みを神の望みと取り違えていないか、よく検証しないといけません。「映画でも観賞するかのような」客観視の例もありましたが、結論や、解釈を入れない「ありのまま」、眺める感じでしょうね。

私も、「自己犠牲」「我慢」が自分を捨てることではないと思います。他人を傷つけることに増長したものが、正しい道に戻れるように、適宜に「反撃」したり、「諭したり」する道もあります。そのときでも、感情のとりこになっていなければよいと思います。
2012-06-27 Wed 20:30 | URL | ワタナベ [ 編集 ]
斉藤啓一です。ワタナベさん、コメントありがとうございました。
確かに、神の意志は「良心」という形で現れているのだと思います。もちろん、良心が100パーセント神の意志によるものではなく、後天的かつ社会的に培われた部分も混入しているとは思いますが。
それゆえ、同時に客観的な自己観察などを通して自分をよく査定していくことが必要になるわけですね。
貴重なご指摘ありがとうございました。
2012-06-27 Wed 21:45 | URL | [ 編集 ]

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