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心の治癒と魂の覚醒

        

 自分で自分を支える

 
 釈迦は「この世のいかなる物事にも執着してはならない」と説きました。これは真実であると思います。地上的な事物は、しょせんは高い次元の霊的真実の影のようなものであり、その影に執着している限り、霊的な真実に至ることはないからです。
 霊的成長、すなわち覚醒を志し、その道を歩むようになると、自らの魂の志向や霊的な存在からの導きを受けて、この世のいかなるものにも執着しないような運命になっていくように思われます。それはたいてい、地上的な物事に対する失望という、辛く苦しい経験という形で現れてくるようです。
 たとえば、自分がもっとも愛し求めているもの(人)が手に入らなかったり、失われていくといった経験です。それは非常に辛いものですが、そうして地上的な事物への執着を断ち切るように導かれているようです。この世的には不幸や災難、苦しみということになりますが、霊的に見れば、それが正しい道を歩んでいることになるわけです。
 しかし、そのような辛く険しい道は、よほど精神的にタフでない限り、心の支えや慰めがなければ、とても歩み続けていけるものではないでしょう。私がこのブログに「求道者の慰め」という項目を入れたのも、その理由からです。
 ところが、その慰めを得ることが、また難しいように思われます。普通に世間で生きる人たちは、辛いことがあると、地上的な物事によって慰めを得たりして、それを支えにしたり慰めにして生きています。たとえば、家族との交流だとか、娯楽だとか、美食や酒といったことで慰めを得ているわけです。
 しかし、そうしたことは「地上的な事物への執着」ですから、霊的覚醒の道を歩む修行者にとっては、道の妨げになるわけです。したがって、そのようなものに慰めを得ることができないようにさせられていることが多いわけです。
 たとえそうした地上的な慰めを得ることができる状況にあったとしても、霊的覚醒の道をある程度歩んでしまうと、真に慰められることはないでしょう。いくら家族とのあたたかい交流があっても、娯楽に時間を費やしても、美食をしたり酒を飲んでも、せいぜい一時的に憂さを忘れることができるだけで、慰められることはないと思います。魂の痛みといいますか、魂の孤独のようなものは、地上的な事物では決して癒すことはできないのです。
 しかも、この魂の痛みや孤独といったものは、世間一般の人からはまず理解されません。そんなことを訴えようものなら変人扱いされかねません。外国語を話しているみたいに、通じ合えることがないのです。なかには幸運にして、同じ道を歩む人が身近にいれば、通じ合えるかもしれませんが、そのような人がいる人は少ないと思います。
 ですから、結局、覚醒の道を歩む人は、慰めも心の支えも得られず、孤独になってしまうことが多いのです。そのため、自分で自分を支え、慰めていくしかありません。
 高い霊的存在(守護霊など)は、修行者のそうした辛さを理解してくれて、さりげない手段で励ましや慰めを与えてくれると聞いたことがあります。たとえば、励ましや慰めを与えてくれる本に偶然に(実は必然に)出会うといったようにです。
 こうした高い霊的存在からの配慮は非常にありがたいものではあるのですが、生身の肉体を持って生きている私たちは、霊的な導きは抽象的というか、五感に触れることがないので、どうしても空気のようになりがちで、物足りないものを感じることも確かです。仏陀やキリストが肉眼で見える姿で目の前に現れて慰めてくれれば別ですが、そのようなことはありません。
 ですから、長く険しく孤独な霊的覚醒の道を歩むには、自分で自分を励まし、支え、慰める術を身に着けていく必要があるのだと思います。人や地上的な物事を当てにせず、自立的に歩んでいかなければならないのです。
 ここが、霊的覚醒の道を歩む上での辛く厳しいところです。
 けれども、そうした辛さは、いつか必ず、何倍にも補って余りあるほどの喜びによって報われることは間違いないことなのです。救いとは、平坦かもしれませんが暗闇に通じる道を歩むことではなく、たとえ険しくても光明に通じる道を歩むことだと思います。
 私たちは救われの道を歩んでいるのです。どんなに辛くても、そのことを心の支えにして歩んでいこうではありませんか。
  
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