心の治癒と魂の覚醒

        

 傲慢さと心の穢れ


「心の穢れ(けがれ)」という言葉がありますが、具体的に心の穢れとは、どのようなことを言うのでしょうか。仏教では、貪欲や怒りや愚かさといった煩悩をさしていると思いますが、その他にも、いろいろあると思います。
 しかし、心の穢れといったとき、その最たるものは、「傲慢さ」ではないでしょうか。すなわち、自分は偉いと思い上がり、他を見下す心です。
 この傲慢さは、自分とは無縁だと思う人がいるかもしれません。確かに、漫画や映画に出てくるような、「俺は偉大だ! おまえらはバカだ!」などと叫んで哄笑するほど露骨で、誰が見ても傲慢だとわかるような人はいないと思います。仮にそこまでやる人がいたら、逆に漫才を見ているようで楽しいです(笑)。
 しかし、自分も他人も気づかない微妙なレベルで、傲慢さというものが心に潜んでいることが多いのです。それが実際には陰湿でやっかいなのです。
 たとえば、今まで係長だった人が課長になったとします。そのこと自体は、単に役割が異なっただけに過ぎないのですが、このとき自分が偉くなったような気持ちを感じたり、人間として高級であるという感じ、優越感のような気持ちが少しでも起こったら、それは傲慢さなのです。
 あるいは、何らかの肩書きや学歴、資格のようなものを取得したときも、そのような気持ちが出たら、傲慢さという心の穢れがあるということです。また、いわゆる社会的に偉いといわれているような職業に就いている場合も同じです。
 こうした傲慢さに知性の低さ(ここでいう知性とは勉強や仕事ができるといった意味ではありません)が加わると、非常にたちの悪い醜悪さが出てきます。会社で上の地位にあるというだけなのに、社会でも上の地位にあると錯覚して、たとえばタクシーの運転手や喫茶店のウエイトレスに対して威張ったり暴言を吐いたりするわけです。
 あるいは、クルマが欲しいとしましょう。そのクルマのデザインや性能が気に入って買うのならいいのですが、「このクルマに乗ったら周りの人から羨望の目で見られるだろう」といった動機があるとしたら、それも傲慢さです。自分という人間までが偉くなったような錯覚を起こし、優越感に浸って、安物のクルマに乗っている人を見ると侮蔑の気持ちが出てきたりします。ブランドのバッグや服、家なども同じです。お金のあるなしで人を見下す態度も同じです。
さらに微妙な傲慢さは、他者に対する怨恨、悪口、批判です。憎しみを抱いてゆるさないことです。なぜなら、程度の差はありますが、私たちは必ず誰かに迷惑をかけて生きているからです。自分だけが迷惑をかけられているということはありえません。お互い様なのです。それなのに、自分だけが正しい、自分だけが被害者であるかのように人を恨み続けるということは、その根底には傲慢さが潜んでいることが多いのです。

 傲慢の反対は謙虚さですが、謙虚さは演技をして「謙虚であるように」見せかけることができたりしますので、あまり当てにはなりません。それより、誠実かどうかを見た方が確実です。傲慢な人は決して誠実ではありません。見下している人に対しては不誠実な対応を平気でします。不誠実な人が必ずしも傲慢とは言えませんが、傲慢な人はまず間違いなく不誠実です。相手しだいで対応が変わり、約束など守らず、言葉と行動にギャップがあります。しかし誠実は人は、誰に対しても態度が変わることはありません。相手が社長であろうと上司であろうと、あるいは部下であろうとタクシーの運転手やウエイトレスであろうと、人間として誠意ある対応をするでしょう。それが真の謙虚さということです。
 もちろん、たとえそういう人でも、ふと傲慢さが顔を出すこともあるでしょうが、最小限に抑えられるはずです。誠実さは、傲慢という病に対する最高のワクチンです。
 いずれにしろ、覚醒にとって、傲慢さという心の穢れは致命的であるように思います。そのために魂は、傲慢さをはぎとるような人生の計画を立てて地上に生まれてくる場合が多いように思います。すなわち、高い地位などから転落したり挫折したり、人々が見下すような仕事をしなければならないなど、いわゆるプライドと呼ばれるものを徹底的につぶされる運命を経験したりするわけです。
 しかし人間は、そのような厳しい経験をすると、文字通り「心が洗われた」ような感覚を覚えるものです。「洗う」というのは、「汚れ」を落とす行為のことですが、まさに心の中の汚れ(穢れ)が落ちて、きれいになった感覚を覚えるのです。このような経験こそが、人生でもっとも「幸運な」経験なのです。傲慢であることがゆるされるような人は、一見すると幸せで恵まれているように見えるかもしれませんが、とんでもない誤解です。人類の霊的進化のプロセスによって、彼らが後にその代償として受けなければならない苦しみを思うと、実に不幸で哀れむべき人であるのです。傲慢であればあるほど、高い場所に登っていることを意味しており、やがてそこから突き落とされることになるわけです。高い場所ほど、落ちたときのショックが大きいわけです。

 傲慢さほど「汚らしい!」と感じるものはありません。汚い服は恥ずかしくて人前で着ることはできませんが、傲慢な人はそれと同じことをしているのです。いかに汚くて恥ずかしい姿をしているか、自分で気づかないのです。
 私たちは、服にほんのわずかなシミがついても、それを着ることをためらってしまうでしょう。同じように、常に心を注意深く見つめ、ほんのわずかでも傲慢さを見つけたら、服や身体に汚物がついたのだと思って、すぐに消すように努力していこうではありませんか。

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コメント

精神世界について勉強していると、このような世界と全く縁のない人たちをどこかで見下すような気持ちが起こってくることがあり愕然とします。自分の勉強していることは何なのかと、これではいくら本を読んだり考えたりしても意味がないのではないかと思い、全部忘れてしまいたいと思うことさえあります。
謙虚さを持てないのは厳しい経験が足りないということなのでしょうか。
2012-09-06 Thu 21:14 | URL | clematisilica [ 編集 ]
斉藤啓一です。 clematisilicaさん、コメントありがとうございます。
謙虚さを持てないのは厳しい経験が足りないからだと単純に言うことはできないと思います。厳しい経験は謙虚さを養う可能性のひとつにすぎません。厳しい経験をしても逆に傲慢になる人もいると思います。
大切なことは、自分の傲慢さに気づいている、ということではないでしょうか。親鸞が「善人なおもて往生をとぐ。いわんや悪人をや」と言ったように、自分は傲慢なところがあるのだと気づいていることが大切で、その気づきがある限り、少しずつ謙虚な人間になる道を歩んでいるのだと思います。あせらず、ゆうゆうと努力していこうではありませんか。
2012-09-06 Thu 21:30 | URL | [ 編集 ]

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