心の治癒と魂の覚醒

        

 成長を心がけて生きる


 今回もまた、自戒を込めて書かせていただきます。
 生命というものは、結局のところ、「進化(成長)していくことが目的である」と思います。これが私の考え方のベースにあります。私たちが地上世界に生まれてきたのも、成長するためなのです。ラクをして、のほほんと面白おかしく生きるためではありません。なぜなら、そのような生き方では、あまり成長しないからです。もっとも、一時的にそういう生き方をすることも、広い視野でみれば成長のためのひとつの経験ともいえますので、それはそれでよろしいと思いますが。
 人生のどんなことも、成長のための経験なのです。成長することが人生における意味であり価値です。いかに恵まれた人生を送ったとしても、その人生に成長がなかったならば、あまり価値があるとはいえません。逆に、社会的にはさえない人生を送り、不遇であったとしても、人格的に大きな成長を遂げたならば、それは大変に意味のある人生を送ったことになり、大成功の人生であり、真の意味での「勝ち組」なのです。
 覚醒とは、まさに成長すること、成長の延長線上にあるものです。ですから、覚醒をめざす修行者であれば、人生のいかなることも、自分を成長させ覚醒に導くために訪れてきてくれた、ありがたいものとして受け入れる心境が大切だと思うのです。私たちは楽しいことや幸運があると、有難いと感じて神に感謝することができますが、私たちを本当に成長させるものは、むしろ辛さや苦しみである方が多いので、辛いことや苦しいことがあったときこそ、有難いと感じて神に感謝するべきなのです。
 また、「失敗」ということも、成長にとっては大変に重要な要素となります。なぜなら、私たちはたいてい、失敗を通して真に学ぶからです。失敗なくして学んだことは、がいして浅いものです。頭の表層レベルでしかない場合があります。そのため、人格の血肉となったり、生き方に反映するといったことがあまりありません。
 しかし、失敗を通して学んだときには、その学びは意識の深い部分にまで刻まれ、本当に自分自身の一部となり、生き方に反映されます。
 ですから、失敗もまた有難いのであり、ある意味では、必要なものなのです。もちろん、最初から失敗しようとすることは適切ではありません。どんなことも、失敗しないように最善を尽くすべきです。
 しかし、それでもなお失敗してしまったら、それは喜ぶべきなのです。本当に学びを得たことになるからです。また、後に幸せとなって開花する種子を得たようなものだからです。極論かもしれませんが、立派な人格というものは、数多くの失敗や挫折の積み重ねによって練り上げられていくものだと思います。ノミと金槌でがんがん削られることで美しい彫刻ができあがるように、人格の美しさや高貴さといったものもまた、多くの失敗や挫折によってがんがん削られることによって完成されてくるわけです。
 地上というものは、人格を鍛える「トレーニングジム」であるということは、これまで何回か申し上げてきたことですが、別の見方をすれば、美しい人格者を創造するための「アトリエ」だということもできるかもしれません。
 人生はなるべくラクに、面白おかしく、人よりも恵まれて生きるべきだという価値観を持つならば、この人生は不条理、無常、悲しみ、嫌なことだらけとなるでしょう。
 しかし、人生は成長するためにあるのだと理解するならば、人生で起こるすべてのことは、どれも有難い恩恵となります。「失敗」というものも、事実上、存在しなくなります。
 人生において生じるすべてのことは、私たちを成長させるためにやってくるのです。少なくとも、成長させるために利用することができるのです。成長ということを第一に心がけて生きることこそが、真の意味で「生きる」ということではないでしょうか。成長なく、ただ単に生きているだけであるならば、それは死んでいるのも同然です。
 生きるとは成長することなのです。
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