心の浄化への最高の道2010-06-16 Wed 22:09
覚醒のために、これまで基本的な瞑想法と肉体の改造法を紹介してきましたが、しかし何よりも大切なことは、心の浄化です。心の浄化は、心の治癒とほぼ同義語です。心の浄化が十分ではないのに、瞑想法やその他のテクニックばかり熱中すると、ほぼ百パーセント失敗します。精神に障害が生じたり、反社会的な性格となったりして、結局は自他を不幸にさせてしまいます。
では、心を浄化するには、どうすればいいのでしょうか? そもそも、心を浄化するとは、いったいどういうことなのでしょうか? 心を浄化するというからには、心に汚いものがある、ということが前提になっています。その汚れを洗い清める、これが浄化という意味です。 では、心の汚れとは、具体的にどのようなものなのでしょうか? もちろん、「汚れ」といっても、心は物質ではありませんから、悪臭がしたり黴菌がいるような、いわゆる「汚物」があるわけではありません。 ただ、そのような「汚物」を連想させるような、つまり「汚い」という印象を感じさせる、何らかの性格上の欠点のことをいっているのです。そういう欠点をなくすことを、心の浄化と呼んでいるわけです。 では、どのような心の欠点を「汚い」と感じるでしょうか? それは多少、個人差はあるかもしれませんが、たとえば「臆病である」というのはどうでしょうか? これは性格上の欠点ではありますが、それほど「汚い」という感じはしないのではないでしょうか? では、妬みや利己主義、弱い者いじめ、裏切り、偽善、嘘つき……などはどうでしょうか。これらはたぶん、「汚い」という感じがするのはないかと思います。このような、自分が汚いと感じるものを、心から消していく、これが心の浄化です。 もちろん、それは簡単なことではありません。忍耐強く努力していかなければなりません。しかし、ポイントがあります。 それは、「人を悪く思わない」ということです。 人を悪く思わないということは、当然、「人のことを悪く言わない」ということにもなります。 人を悪く思わないとは、悪意をもって人の欠点や悪いところを指摘したり、嘲笑したり、皮肉をいったり、「悪い人だ、ずるい人だ、だらしない人だ」と決めつけたり、妬んだり、不幸になることを望んだり、呪ったり、悪口をいったりしないということです。 たいていの場合、人を悪く思うのは、自分のなかに、その人と同じ悪いもの(汚いもの)があるからです。自分に同じものがあるから、相手の悪い面と共振して、敏感に察知してしまうわけです。 あるいは単に、嫉妬をして相手が憎らしくなり、悪意を向けたりするわけです。たとえば、同僚が自分より先に出世したような場合、そのことが悔しくて仕方がないが、悔しいとはいえないので、「あいつが出世した理由は、うまく仕事を手抜きしたからだ」などと、もっともらしい理屈をつけて、悪くいったりするわけです。 こういう気持ちは、もっとも汚いと感じる心の欠点ではないでしょうか。したがって、まずは人を悪く思わない、悪くいわない、ということから始めるのです。これさえクリアできれば、その他の心の汚さは、自然と消えていくものです。 もちろん、誤解しないでいただきたいのですが、だからといって、人の悪い行為や悪い面を見て見ぬふりをするとか、不正から目を背けるという意味ではありません。 あるいは、世の中には悪い人など存在せず、すべて善い人なのだと思いなさいといっているのでもありません。現実として、世の中にはどうしようもない悪い人間、悪意と意地悪に満ちた人間、腐敗した人間、最低の人間がいるのも事実です。 そういう場合は、こう考えてください。 仮に、本当にその人が悪意を向けられても当然なほど悪い人間だとしても、そうしたところで、なにか自分にとってプラスになるだろうかと。 決してプラスにはならないはずです。一時的にはスーッとするかもしれませんが、結局は、人を悪く思う心が習慣となったり、心は穏やかではなくなり、ストレスを感じ、不愉快な、まさにどろどろした汚い気持ちになっていくのがオチです。 そんなくだらない人間に心を乱されていること自体、馬鹿らしいことではないでしょうか。 したがって、もし本当に悪い人間から不愉快な思いをさせられたら、それを知的に理解し、感情的な反応をしないように努力してみてください。すなわち、「彼はどうしようもない最低の人間であると考えることは妥当である」といったように、まるでロボットが判断しているように、感情を伴わないで、客観的に認識するのです。その相手に悪意や攻撃欲求などを向けず、クールに見るのです。 これはもちろん、簡単なことではありません。あまりにも怒りでどうしようもなかったら、我慢するとよくないので、感情を爆発させても仕方がありませんが、しかし感情をコントロールすること自体、非常に価値のある覚醒修行であることを思い出してください。そして少しずつでいいので、以上のような境地になれるよう、修行を積んでいくのです。もちろん、これは私自身に対する自戒も込めていっております。 いずれにしろ、これだけはいえます。 たとえ、あなたの怒りや悪意が、客観的に判断して正当なものであったとしても、人を悪く思う心がある限り、覚醒の修行が成就することはありません。そのような心を抱えたまま、瞑想やクンダリニーを上昇させるようなことをすることは、ダイナマイトを抱えたまま焚き火に当たるようなものです。 非常に難しいことですが、人を悪く思うこと、人を悪く言うことは、いっさいやめようではありませんか。どんな人に対しても例外なくです。 さらにもし可能ならば、どんな人も魂のレベルではすばらしいのですから、相手を魂と見て、本当はすばらしい人なのだと思うようにしたいものです。 これこそが、心の浄化への最高の道なのです。心が浄化されると、驚くほど覚醒の意識に近づいていきます。 楽な修行などありません。人を悪く思わないというのは、ひとつの苦行といっていいかもしれません。 しかしその努力は、必ずすばらしい報いとなって返ってくるはずです。 スポンサーサイト
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