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心の治癒と魂の覚醒

        

 恥ずかしくない生き方

 

 越後の禅僧、良寛は、死ぬ前に次のような言葉(歌)を残しました。
「裏を見せ、表を見せて散るもみじ」
 すなわち、表を飾ったり、体裁や見栄を張ることもなく、自分の長所も短所も、すべてをさらけ出して死んでいく・・・と、詠ったのです。
 実際、良寛という人は、そのように生きた人でした。純朴で、子供のように素直にありのままに生き、こっけいともいえるエピソードをたくさん残しています。しかし、その人格と霊格の高さにおいては、比類なき名僧でした。私がもっとも敬愛する聖人の一人です。
 それはともかく、私たちも良寛の歌のように、表も裏も見せられるようにして、死んでいきたいものです。
 ところが、あまりにもひどい短所だとか、醜いところがあったら、とても恥ずかしくて、「裏」を見せて死んでいくことはできません。
 私たちは、人前では善いところ、きれいなところを見せようと意識的に努力します。とりわけ外の社会では、ある種の「演技」をして、そのように見せようとします。けれども、家庭のなかでは、人が変わったようにひどくなることがあります。
 あるいはまた、誰かが見ていれば「善い人」でいるが、誰も見ていないときには醜悪さをさらけ出すということもあります。「バレなければいい」などと、影で悪いことをする人もいます。「どこの誰だか知られない」のをいいことに、インターネットでひどい書き込みをする人もいます。
 表では謙虚であったり、親切で上品なのに、家庭のなかや誰も見ていないとき(つまり「裏」)では、傲慢だったり、冷酷だったり、下品で乱暴な口をきいたりするといったことがあるわけです。
 けれども、これでは人間として本物とはいえません。もちろん、覚者としてはなおさらです。本物の人間になるほど、覚者に近づくほど、表と裏のギャップはなくなっていくと思います。表だろうと裏だろうと、変わらぬ美しさ、変わらぬ誠実さ、変わらぬ優しさといったものを常に発揮させているに違いありません。
 宗教やカルトの教祖などは、信者の前に姿を現すときだけ、それらしく立派にふるまって「演技」をすれば、いくらでも信者をだますことができるでしょう。しかし、私的な生活においてどのようにふるまっているのか、それを見れば、正体がわかるのです。
 簡単なことでは決してありませんが、できる限り私たちは、社会でも家庭のなかでも、人が周囲にいてもいなくても、つまり、いついかなる状況にあっても、人から見られて恥ずかしくない生き方を目指していこうではありませんか。24時間、カメラで録画されているようなつもりで、自分のふるまいを御していこうではありませんか。自分の表も裏も撮影した映画が作られ、死後に公開されたとしても、観客に不愉快な思いを与えないような、それどころか、すばらしい感動を与えるような、そんな生き方をしていこうではありませんか。

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