真の宗教とスピリチュアル2012-11-02 Fri 10:53
地上人生の目的は、魂を成長させること、そのための学びであり、別の表現をすれば、魂の汚れを落として、魂が持つ輝きを発揮させるためにあるのです。そして、このような人生の目的を達成させるために、宗教があり、スピリチュアルな教えが存在しているのです。 ところが、宗教やスピリチュアルな教えの中には、現世利益を説いていて、魂の成長や浄化などは、おまけ程度にしか説いていないものがあります。 しかしこれが、一般大衆の本音なのでしょう。毎年年末年始ともなれば、大勢の人々が神社仏閣に押し寄せてきます。そのうちどれだけの人たちが、魂の成長や浄化のためにやってきているでしょうか? ほとんどの人は、お金が入りますようにとか、健康でありますようにとか、受験が合格しますようにとか、結婚相手が見つかりますようにといった、物質的な欲望を叶えることばかりを目的にして訪れ、そのために、賽銭箱にお金を投げ入れるのではないでしょうか? 要するに、物質的な欲望を叶えてくれるものであれば、相手は神であろうと仏であろうとかまわないのです。お賽銭箱というのは、お金を入れれば願望を叶えてくれる「自動販売機」になっているのです。 ニューエイジなどのスピリチュアルな世界では、一見すると魂の成長や浄化については説かれていますが、それでも巧妙に現世利益を煽るようなことが書かれてある本が売れたりするわけです。それは露骨に「お金が儲かる」といったものではありません。 たとえば、「これだけのお金を払えば、聖者のエネルギーを受けられて修行しなくても覚醒できる」などとうたっている教団などは、形を変えた物質主義にすぎません。「お金」が「覚醒」に変えられただけです。「楽をしてお金が儲かる」などといって勧誘する投資詐欺や悪徳商法と本質的には変わりません。そのような形で覚醒を求める人たちは、覚醒というものを誤解しているのです。覚醒をすれば、何らかのエゴが満たされると思っているので、手っ取り早く、そのような教団の宣伝文句にだまされてしまうのです。 しかし、真の宗教やスピリチュアルというものは、そうした現世利益への欲望を断ち切り、ただ魂の成長と浄化のために生きることなのです。そのために、神仏は力を貸してくれるでしょうが、基本的には自力的な努力が必要です。自分は何もせず、のほほんとして、お金を払って「聖者」の近くにいて覚醒をしようなどという、ある種の「乞食根性」のようなものを抱いていて、どうして魂が成長するでしょうか? どうして魂が浄化するでしょうか? 魂を成長させ浄化させるものは、苦しみと(真実の)愛だけです。ただ残念なことに、真実の愛というものは、なかなか得難いのです。たとえ真実の愛に出会えたとしても、ある程度苦しみによって魂が浄化されていなければ、それを真実の愛であるとわからないのです。そればかりか、偽りの愛を真実の愛だと勘違いするようになってしまいます。「お金を払えば会う」ような「聖者」が、真実の愛を持っていないことは明白です。それらしい衣装をまとい、それらしい笑顔を振りまけば、その雰囲気にだまされて慈愛深い真の愛があるかのような妄想を抱いてしまうかもしれませんが、それは冷静に考えればインチキだとすぐわかるのに、その場の雰囲気や言葉によって本当に儲かると確信させてしまう悪徳商法と本質的には同じです。 愛を別にすれば、苦しみこそが私たちにとって真のグルなのです。私たちのエゴというものは、相当に頑固なので、高いレベルの守護霊や指導霊ほど、厳しい苦しみを与えます。 私が個人的に知っている女性の霊能者がいました。その人はお金を受け取ることなく霊視しており、驚くほど的確なアドバイスをしていました。その霊能者は修行時代、家族と離れたところで修行していたとき、「子供が病気で死にそうだからすぐに家に帰ってこい」という電報をもらったそうです。それで、家に帰ってよいかと守護霊に伺いを立てたところ「ダメだ」という返事がかえってきました。結局、その霊能者は、子供の死に目にあえなかったのです。これは、子供に対する執着を断ち切らせようとしたのだと思いますが、それにしても、あまりにも過酷です。 けれども、これが高級な守護霊(指導霊)がすることなのです。もちろん、耐えられないほどの苦しみが与えられることはないでしょう。その人の器の大きさというか、強さというものがあるからです。しかし、かなりぎりぎりの苦しみが与えられることはあります。それに耐えきれず、つぶれてしまうことも現実にはあるでしょう。それはある意味では守護霊の誤算だったと言えなくもありませんが、可能性としては耐えられるはずのものだったのです。 いずれにしろ、私たちはそのようにして、魂を成長させ、魂の汚れを落として修行をしていく存在なのです。このことを知れば、世の中に蔓延している多くの「宗教」、「スピリチュアル」、そして教団というものが、いかにデタラメであるかが、すぐにわかるはずです。現世的な物欲から離れるように導くのが宗教やスピリチュアルの使命なのに、それとは逆に、物欲を煽るようなことをしていたりするのです。 その物欲のなかには「覚醒」も含まれます。逆説的ですが、「覚醒したい」という欲望(執着)もまた、姿を変えた物欲なのです。もちろん、覚醒したいと思わなければ修行も始まらないので、最初の動機としては必要なのですが、覚醒したいという欲望をなくして、いっさいの報酬も目的もなく、「ただ修行生活をする」というレベルにまでもっていかなければならないのです。 スポンサーサイト
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コメント
初めまして、いろいろ読ませていただきました。
これからもお伺いさせていただきたく思います。
斉藤啓一です。竹林乃方丈庵さん、こちらこそ、よろしくお願い致します。
2012-11-06 Tue 16:00 | URL | [ 編集 ]
オクです。全く斉藤先生のおっしゃる通りだと思います。
宗教にしてもニューエイジにしても「本来の修行者」とは全く別のものだと思っています。 この都会で仙人のように生きるのは、基本的には苦行だと私は思います。
斉藤啓一です。オクさん、コメントありがとうございました。「都会で仙人のように生きるのは苦行」、まさにその通りですね。
2012-11-07 Wed 07:18 | URL | [ 編集 ]
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