心の治癒と魂の覚醒

        

 禅僧としての親鸞


 皆さんご存知のように、親鸞という禅僧がいました。そういうと、首をかしげる人がいるかもしれません。「親鸞は浄土真宗の僧侶であって、禅僧ではなかったはずだ」と。
 確かに、宗教学的な分類ではその通りです。彼は、「南無阿弥陀仏」と唱えれば救われると説いた浄土宗の開祖法然の弟子であり、禅僧ではありません。
 けれども、彼の教えの真髄は、禅の発想に極めて近いのです。
 禅というのは、座禅や瞑想のことではなく、目的と手段を一致させた意識状態のことです。座禅は「悟りを開く目的で行う修行法」という捉え方はしません。「座禅そのものが悟りの表現である」という姿勢です。中国における禅の開祖のひとり慧能(えのう)などは、「座禅なんてしたって悟りは開けない。座禅などをするのは病気だ」といった意味の言葉を残しています。これはすごい言葉だと思います。禅の高僧が座禅を否定しているわけです。
 しかし、この場合の座禅というのは、「悟りを開くための手段」として行う座禅のことであり、そのような座禅を「病気だ」と言ったわけです。座禅そのものを否定したのではありません。
 要するに、「悟りを開くために修行をする」という発想そのものが、悟りを妨げているということなのです。「何かのために何かをする」という、目的を得るために手段に訴えるという発想は、方法論と呼ばれます。これは物質的な世界では常識です。何かを得るためには、その手段として何かをしなければなりません。医者や弁護士になろうとするならば一生懸命に勉強しなければなりません。当たり前のことです。
 ところが、悟り(覚醒)の世界では、この常識が通用しないのです。というより、その常識を超えなければならないのです。方法論ではダメなのです。目的と手段という分離があってはダメなのです。
 方法論といえば聞こえはいいのですが、悪くいえば、「交換条件」であり「打算」です。
「私は一生懸命に座禅をします。南無阿弥陀仏と唱えます。その報酬として悟りを与えて下さい。救って下さい」という発想は、打算的な発想です。
 打算がある限り、愛はありません。愛とは、打算を超えた自他一体感のことだからです。つまり、愛がなければ、悟り(覚醒)を得ることはできないのです。愛のない心でいくら座禅をしようと、南無阿弥陀仏を唱えようと、瞑想しようと、神に祈ろうと、その他、いかなる修行をしようと、何にもならないのです。
 そして大切なことは、愛というものは、「頭」に宿るものではないということです。愛についての理屈をいくら知っていても意味がありません。それは「絵に描いた餅」にすぎません。愛というものは、胸(ハート)に宿るのです。それは考えるものではなく、感じるものです。理屈を超えたものです。ですから、悟り(覚醒)というものは、頭で得るものではなく、最終的にはハートで得るものなのです。
 親鸞は、救いを得るために、法然のもとで念仏を唱えました。しかし、いくら唱えても、救われたという実感が得られませんでした。それは方法論に基づく念仏だったからです。つまり、「念仏を唱えるという行為の報酬として救いを与えて下さい」という方法論であり、交換条件であり、打算だったわけです。しかし、そこには愛はありません。
 絶望した親鸞は、結局、どうなったかというと、「たとえ念仏を唱えても救われず、それどころか地獄に落ちてもよい。法然師匠にだまされてもいい」と思うようになりました。 それほど、法然に対する強い思慕(愛)があったわけです。この愛が、「念仏を唱えて救われなくてよい」という発想に導いたと思われます。
 この発想は、方法論を超えています。
 では、何のために念仏を唱えるのか? 念仏を唱えても救われないかもしれないとしたら、念仏を唱える意味はないことになります。
 こうした疑問は当然ですが、それは「頭」が起こす疑問なのです。
 親鸞は、「念仏など唱えても唱えなくてもいい」と言いました。仏様は、念仏を唱えても唱えなくても、私たちを救って下さるのだとしたのです。しかし、そのように無条件で打算を超えた仏様の慈悲(愛)を受けたならば、人間としては当然、「ありがたい」という感謝の気持ちが湧いてくるはずです。その感謝の気持ちの表明として念仏を唱えるのだと言ったのです。いわば、念仏とは「仏様、ありがとうございます」ということになります。
 このような発想は、頭では理解できません。頭はどうしても方法論(打算)から抜け出すことができないからです。ただハートだけが、理解できるのです。
 換言すれば、愛の心だけが、親鸞のこうした発想を理解できるのです。そうして、何が起ころうと、ただ「ありがたい、ありがたい」という感謝と愛の気持ちで生きていくことになるのです。
 そのように、すべてのものが「ありがたい」と思えるようになったならば、それが悟りであり覚醒ということになります。悟りや覚醒というと、何やら超人のようになることだと勘違いされているふしがありますが、そうではありません。いたって単純なことです。何があっても「ありがたい」と思い、すべてのことを愛をもって受け入れることができたなら、それが悟りを開いたということであり、覚醒したということなのです。
 以上のように、親鸞は方法論を超えました。それが禅の発想であるがゆえに、私は彼を「禅僧」と呼んだのです。彼が行ったのは「座禅」ではなく「念仏禅」だったのです。
 もちろん、親鸞が禅僧であったとかなかったという話などは、どうでもいいことです。大切なことは、打算を超えて「ハートで修行すること」、いえ、「修行」というより、ハートで「生きること」、ではないかと思われるのです。すなわち、愛をもって生きるということです。それがおそらく覚醒に至る道です。
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コメント

オクです。

物質的な世界で常識として存在する方法論を手放すことでしか、深い覚醒の道を進むことはできない。

全く斉藤先生のおっしゃる通りかと思います。

しかしそもそも法然と親鸞の信頼関係の基盤になったものというのは何なのでしょう?そのハートの理解に至るまでには徹底して(禅問答のような抽象論も含めて)ある意味「理屈」を極めたとは考えられないでしょうか。これは非常に難しいことですが、ハート重視というと頭で考えることを放棄しがちだと思います。

また問題を知ることが出来れば問題の半分は解決したようなものだ、というような言葉も聞いたことがあります。

余談ですが斉藤先生が若い頃、科学者になりたかったというのもわかる気がしますね(笑)

2012-11-23 Fri 10:06 | URL | oku [ 編集 ]
斉藤啓一です。オクさん、コメントありがとうございました。
法然と親鸞との間に禅問答のような理屈を交わしたかどうかはわかりませんが、そうして「頭」の理屈から解放しようとするのが、臨済宗の禅問答ですね。
つまり、逆説的ですが、頭で考えるのやめるために、徹底的に頭で考えてみるわけです。
そのようなアプローチがあってもよいと思います。
2012-11-23 Fri 17:39 | URL | [ 編集 ]
オクです。

斉藤先生、はたして方法論と因果律は同じことと言えるのでしょうか。

以前カルマの法則だけでは説明のつかないことも多いというような問題提起もあったかと思います。

しかしながら私の読んだシュタイナーの「超感覚的世界の認識をいかにして獲得するか」の中で、修行者の発達階梯として眼前に「鏡称としての世界が立ち現れるとき」という段階の説明があったのを記憶しています。

鏡としての世界に気づくことは、原因があって結果があるという因果律に気づく修行の段階ではありませんか?

私個人としては、そのことさえ自分自身に完璧に刷り込まれていたなら、方法論も頭も手放しても(笑)いいのかなと思っております。

2012-11-23 Fri 21:45 | URL | oku [ 編集 ]
斉藤啓一です。オクさんのご意見というか、ご質問は、ちょっと私にはわかりません。シュタイナーの真意もわかりませんし、答えようがありません。すみません。
2012-11-23 Fri 22:10 | URL | [ 編集 ]
すいません、、、原因があって結果があるというのは宗教も科学も同じかな?という疑問が自分の中に湧いたのです。いえたぶん同じだと思います。
2012-11-25 Sun 16:50 | URL | oku [ 編集 ]
たびたびこちらのブログを読ませて頂いています。

今日も大事な気付きをありがとうございます。

覚醒、悟り、真我・・・求めてもどこか漠然としている

言葉の意味を教えて頂きました。
2012-11-26 Mon 16:18 | URL | シビラ [ 編集 ]
斉藤啓一です。シビラさん、コメントありがとうございました。これからも、よろしくお願い致します。
2012-11-26 Mon 19:12 | URL | [ 編集 ]
親鸞について検索する中でたまたまこの記事に出会いました。理解の深い方が書かれた素晴らしい、透明感のある記事だと思いました。
2016-11-18 Fri 08:37 | URL | 坐禅好き [ 編集 ]
斉藤啓一です。座禅好きさん、コメントありがとうございました。お褒め頂いて光栄です。
2016-11-18 Fri 15:16 | URL | [ 編集 ]

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