心の治癒と魂の覚醒

        

神を愛するとは?


 インド系の宗教では、解脱に導いてくださるよう守護神に祈るとか、グルを敬愛せよとは説かれていますが、「神を愛せ」とは説かれていないようです。インド系の宗教では、神というものは非人格的な宇宙法則のようなものと考えられているからかもしれません。
 一方、ユダヤ・キリスト教では、「神を愛せ」ということが非常に強調されています。神を愛することが信仰や修行の中核にあるといってもよいでしょう。
 では、実際のところ、私たちが覚醒(悟り、解脱、救い)を得るためには、神を愛することは必要なのでしょうか?
 この場合、そもそも「神とはいかなる存在か?」ということをまず明確にしなければ、この問いには答えられないかもしれません。しかし、その問題を扱うときりがないので、とりあえずここでは、「私たちを助けようとしてくれる高い霊的次元の人格的な存在」と定義しておきたいと思います。
 さて、覚醒するために、そのような神を愛することは必要なのでしょうか?
 しかし、このように問いかけたとき、さらにもうひとつ明確にしなければならない問題が生じてくるのです。
 それは、「愛とは何か? 愛するとはどういうことか?」です。
 いうまでもなく、(真実の)愛は、単純に「好き」という気持ちではないでしょう。「神を愛する」とは「神のことを好きになる」という程度の意味ではないわけです。
 ならば、神を愛するとは、具体的にどのようなことをさしているのでしょうか?
 神を愛するとは、究極的な意味では、「神とひとつになる」ことではないかと思います。
 もともと、私たちの本質は神に由来しているのです。私たちは神の子なのです。人間の子が人間であるように、神の子である私たちは神なのです。
 ところが、私たちはまったく神らしくありません。ほんの少数の聖人と呼ばれる人を除いて、私たちはあまりにも不完全であり、低俗な欲望にまみれ、憎しみ、罪を犯し、くだらないことに埋没しています。神が持っているであろう高貴なる性質がめったに発揮されていないのです。
 こんな状態では、当然のことながら、「神とひとつである」などと言えません。
 したがって、神とひとつになる、つまり、神を愛するとは、「神の性質を発揮して生きる」ということになるのではないでしょうか。
 神は、愛、寛容、忍耐、たくましさ、勇気、叡智、明るさといった、あらゆる美徳を備えているはずです。そのような美徳を自分の美徳とし、その美徳を発揮したとき、実質的に「神と一体になる」のだと思います。
 神は、人間が自分と同じように、そうした美徳(神性)を発揮して生きることを望んでいるはずです。誰かを愛するとは、相手が望むことを無条件でしてあげることだとも言えるでしょう。ですから、神を愛するとは、神が望むことを無条件ですること、つまり、自分自身が神のようになることです。
 ここで大切なことは、「無条件で」ということです。「神が望むことをするから、そのかわり覚醒させてください、救ってください」というのは、打算であり、無条件ではありません。これでは、本当に神を愛したことにはなりません。単なるエゴを満たす行為にすぎないわけです。そして、エゴがある限り覚醒はできません。本当の愛は無条件であり、いかなる報酬も求めない純粋なものです。
 つまり、愛することと、覚醒することは、同義語だといってよいと思われます。
 もちろん、神に対して「覚醒に向けて導いてください、助けてください」と祈ることは間違ってはいません。それは純粋な願いです。しかし「○○するかわりに導いてください、助けてください」ということが間違いなのです。「覚醒に導いてください、助けてください。でも、それとは関係なく、私はあなたを愛します。すなわち、あなたが望んでいる生き方をします」という気持ち、これこそが、正しい信仰のあり方ではないかと思うのです。
 以上のように考えると、私は覚醒するためには「神を愛する」ことは必要ではないかと思います。
 いえ、「必要だから神を愛する」というのは、間違っているわけです。「覚醒するために神を愛することは必要か?」という問いそのものが、そもそも間違っていました。
 覚醒しようとしまいと、無条件に神を愛することが大切なのです。このことは同時に、すべての人を無条件に愛するということを意味します。なぜなら、すでに述べたように、私たちはすべて神だからです。「私たちは神である」という自覚をもって人を愛するとき、神を愛することになるのだと思います。
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コメント

よくきくのが何かをしてあげたら、お返しを期待するのは(見返り)間違っていると言う人がいます。でも、人間の愛とは加減乗除の完成した形であって、
やってもらったらやってあげるという形が人間の愛であって、期待することはけしてまちがいではなく、やってあげ続けると関係は壊れます。
しかし、神に対して人間がやってあげれることはありません。ですから、神の愛は無償の愛という形が完全だと思います。やってあげるだけ、それはけして、愛ではなく、加減乗除の按配が崩れます、愛ではありません。お返しをするからこそ、愛がいい形に形成されるのが人間の愛であると思います。
2012-12-16 Sun 01:25 | URL | mamiko [ 編集 ]
斉藤啓一です。mamikoさん、コメントありがとうございました。
2012-12-16 Sun 11:56 | URL | [ 編集 ]

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