心の治癒と魂の覚醒

        

 人生の苦難と心の平安


 人生には苦難や不運や苦しみがつきものであり、そういうときは、不安や恐怖に襲われ、苦悩し、心を乱してしまいます。けれども、辛いときほど、心を平安にしていなければならないのです。というのは、神の救いというものは、心が平安であるときにもたらされるといわれているからです。
 シルバーバーチの霊訓だとか、過去の聖人たち、その他、さまざまな霊的な教えが、不安や恐怖や取り越し苦労をしないように戒めています。そういう気持ちは、せっかくの高い霊的存在からの導きをかき乱し、遮断してしまうそうなのです。ですから、救いを得るためには、私たちは辛く苦しいときほど、心を穏やかに、平安にしていなければならないのです。そうすると、その心に神(のエネルギー)が宿り、宿ったその神が、悩み苦しみを解決してくれるというのです。
 しかしながら、そうはいっても、これはなかなか難しいことです。ちょっとした苦しみならともかく、壮絶な苦しみや悩み、絶望に見舞われたようなとき、どうして心穏やかでいられるでしょうか。不安や悲しみや苦悶で心がいっぱいになり、嘆き、あるいは怒りや憤りが湧いてきて、どうしようもなくなってしまうのではないでしょうか。
 そんなとき、心穏やかでいることは、何と難しいことでしょう。心穏やかでいられるなら、もともとその苦しみはたいしたことではないのだと、そのようにも言いたくなります。心穏やかになれず、動揺激しく悶絶しているときにこそ、私たちは神の救いを必要としているのではないかと思うのですが、「心穏やかでなければ救いたくても救ってあげられない」と言われると、人間というものは、何と絶望的で悲劇的な存在なのであろうかと思ってしまうこともあります。
 しかし、この場合も、私は例によって「じりじり主義」を主張したいと思います。すなわち、最初から完璧になろうとするのではなく、「少しでもよい状態になるために」、努力を傾けるのです。すなわち、ほんの少しでもいいから、心が穏やかに、平安になるように努力してみるのです。そうすれば、実際、少しは心を平安にすることはできるはずです。そして、少し心が平安にできたら、さらにじりじりと努力を続けて、もう少し平安になるようにがんばってみるのです。それを忍耐強く繰り返していくなら、いつのまにか、かなり心の平安が得られるのではないかと思います。そして、それに比例して、神の救いが得られるようになり、神の救いが得られるようになると、そのために心も平安になり、心が平安になるとさらに神の救いが得られる・・・といったように、しだいに相互作用が生じてきて、心の平安が加速されてくるのではないかと思います。
 皆さん、努めて心の平安を心がけましょう。それが自己の内部で神がもっとも働きやすい環境なのです。忍耐強く、じりじり主義で進んでいきましょう。不安を捨て、何ものも恐れず、悩まず、あとは神がうまくやってくれるという全託の信念をもって、耐え忍んでいきましょう。それが、人生の苦難に対するもっとも適切な対処の仕方であると思われます。
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