心の治癒と魂の覚醒

        

 不条理に対して心を守る


 人生というものは、少なくとも表面的に見る限り、不条理に満ちています。
 たとえば、人を苦しめるようなことをしていながら、やること為すことうまくいって幸運な人がいる一方で、まじめに一生懸命に努力しているのに、不運に見舞われて報われないとか、善い人なのに次々と辛い出来事が訪れるといったこともあるわけで、このような現象を見ますと、世の中や人生は不条理であると思ってしまうわけです。
 一生懸命に誠実に努力しているのに、ちっとも報われず、それどころか不運や災難ばかりやってくるといった場合、生まれ変わりや因果応報を心から信じることができる人であれば、「この苦労もいつかは報われる。今生でダメなら来世で報われる」と思い、いかなる不遇にも負けずに、そのまま誠実な努力を続けていけるかもしれません。しかし、それには相当の厚い信仰心が必要ではないかと思います。
 多くの人は、一生懸命に誠実に努力を続けているのに、ちっとも報われず、それどころか不運や災難ばかりに見舞われたら、「この世に神も仏もあるものか!」と腐ってしまい、投げやりになって悪の道に走ったり、努力をやめていい加減な生活をしたり、いっさいの希望を失って腑抜けのようになってしまうかもしれません。心は暗くなり、その暗い心が、ますます暗い運命を招きよせるといったことにもなるでしょう。しかし、こうなってしまっても、人情として無理もないことではないかと思います。
 一方、人を苦しめるようなことを多少していても、やること為すことうまくいっている人は、「やはりこの世には神も仏もいるんだ」と思って信仰心が厚くなり、心が明るくなって、その心の明るさが、ますます明るい運命を招きよせるということになるかもしれません。
 仮にそうだとすると、不運な人はどこまでも不運であり、幸運な人はどこまでも幸運であることになります。一生懸命に誠実に努力などするよりも、多少悪いことをしたり人を苦しめても、楽しく、心が明るくなるような生活をした方が幸運である、ということになってしまいそうです。このようなことを考えますと、ますます人生というところは不条理であり、馬鹿馬鹿しく、ナンセンスで、くだらないところだなと思われてしまうのです。
 しかし、いかに不遇で努力が報われないとしても、心が腐ってしまうことほど残念なことはなく、致命的ではないかと思います。来世で報われるかどうかは別として、心が腐ってしまったら、それこそ二重の意味で苦しみを味わうことになります。つまり、不運という外的な苦しみと、心が腐るという内的な苦しみです。しかも、心が腐ってしまったら、外的な運命も、悪くなることはあってもよくなることはないでしょう。まさに、踏んだり蹴ったりの状態ではないでしょうか。
 だまされたり、正直者がバカを見たり、わがままな上司から不当にこき使われたり、陰で悪いことをしている人が幸運に恵まれるのを見ても、心だけは守りましょう。たとえ世の中や周囲がいかにデタラメで不正であり、腐っていても、自分だけは純粋性と誠実さと真心を貫くようにしようではありませんか。
 それで何も得をすることはないかもしれません。それどころか、損をすることさえあるかもしれません。
 しかし、人が死に際に立たされたとき、心さえ腐っていなければ、自分で自分を受け入れることができます。少しおおげさにいえば、自分を愛することができます。「自分はいかなる状況でも人間としてまっとうに生きた。何も恥じることはない」という思いを持つことができます。その思いが、心を安らかにしてくれるはずです。
 それだけでも、大きな「報われ」ではないかと思うのです。いえ、それこそが、大きな報われではないでしょうか。不条理に対して心を守りぬいた、かけがえのない勝利の王冠ではないでしょうか。
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