心の治癒と魂の覚醒

        

損得で物事を考える

 心を浄化するには、人を悪く思わないことだといいました。
 これは、とても難しいことです。しかし、過去の覚者たちが弟子を厳しく鍛えるときには、あえて「不愉快な人間関係」のなかに弟子を追いやり、そこで人を悪く思わないように訓練させるといったことを、盛んに行っていたようです。
 私たちには、そのような状況に追いやってくれる師匠がいません。したがって、私たちは自らそういう状況に自分を追い込むくらいの意気込みと熱意で、「人を悪く思わない」という、厳しい試練を乗り越えていかなければならないと思うのです。この試練を乗り越えることができたら、覚醒の修行はおそらく、格段に進むはずです。

 とはいっても、世の中には本当に不愉快で腹が立ち、思わず呪ってやりたくなるような人がいるのも事実で、そういう人を悪く思わないようにがんばると、ストレスばかりたまっていくような気もしないではありません。
 そこで、これについては、次のような姿勢で臨んだらどうかと思うのです。
 それは、物事を感情で受け止めるのではなく、「損得で受け止める」という姿勢です。つまり、「これは好きだから、これは嫌いだから」という基準で物事に接したり行動するのではなく、「これは得だから、これは損だから」という発想に切り替えるのです。
 いわば、打算的に考える、ということです。「打算的」というと少し聞こえが悪いのですが、これはもちろん、「自分さえよければいい」という意味での「打算」ではありません。換言すれば、「無駄なことはしない」という発想であり、「無駄なこと、損なことには執着せず、きれいさっぱり捨て去る」心境のことです。

 たとえば、誰かが影で自分の悪口をいっていたとしましょう。その場合、その悪口が事実と異なるのであれば、はっきりとそれは主張しなければなりません。誤解は解くべきです。しかしそれでも、自分の悪口をいっていた人に対して、怒りや恨みの気持ちが残ると思います。復讐したくなるかもしれません。
 そのとき「怒りや恨みの気持ちを抱いていて、なにか得になるだろうか?」と、自分を他人のように突き放し、第三者の立場で知的に考えてみるのです。
 そうすれば、怒りや恨みの気持ちを抱いていても、何の得にもならない、それどころか、心を乱して、そのために貴重なエネルギーや時間を無駄にしているということがわかります。復讐などもそうです。復讐した直後は、気分がスーッとして爽快になるかもしれませんが、せいぜいそれだけです。たいていその後にやってくるのは、空しい気持ちであり、「こんなことで復讐するほど、自分は器の小さな、つまらない人間だったのか」という自己嫌悪や苦い思いです。場合によっては、復讐したことで一生、罪の意識にさいなまれてしまうかもしれません。せっかくカルマを解消できたのに、復讐をしたために、再び相手とのネガティブなカルマの束縛にはまってしまうことになるのです。その結果、いつかまた同じようなことが繰り返されてしまうわけです。
 第一、復讐に費やした心的エネルギー、行動エネルギー、時間などを、もっと建設的なことに向けていたら、もっとすばらしいことが待っていたことでしょう。
 このように、一時は激情にかられて怒りや復讐の念にとらわれても(それはある種の執着です)、冷静に考えれば、まったくの損であることがわかります。
 したがって、「損なことはしない」と、決めるのです。損だと思ったこと、無駄だと思ったことには、いつまでも執着せず、さっぱりと捨てて、次から次へと忘れていくことです。

 このように、物事を損得で考えるように、習慣づけてみてください。これは、人を悪く思わない、というだけでなく、すべてのことに通じると思います。
 たとえば、いつまでも泣いたり、嘆いたり、悲しんだりすることも、無駄なことではないでしょうか。もちろん、悲しいときは思い切り泣いた方がいいです。悲しみが緩和されるからです。しかし、いつまでもくよくよと泣いていて、現状が少しでもよくなるでしょうか? たぶん、ならないと思います。無駄なことなのです。無駄だと思ったら、もう執着を捨てて、悲しみを心から捨て去るのです。
 こういう姿勢は、ややニヒリスティックな感じを受けるかもしれませんが、釈迦などはこのような教えを弟子に説きました。少なくても初期の仏教徒は、このようなニヒリスティックな感じが漂っていたことは確かです。たとえば、肉親の死に接しても、悲しむのは無駄なことだから(死者に執着するな)という理由で、泣いたりはしませんでした。
 しかし、これはあくまでも執着(煩悩)に対するニヒリズムであり、人への愛や思いやりに対するニヒリズムではありません。人を助けたり思いやることには、損得を持ち出すべきではないでしょう。人を助けたり思いやることは、人間の本質であり、仏教でいう仏性なのですから、考えずに自然にそうできるようにならなければいけないと思います。自然に人を愛し、思いやることができるようになることが、覚醒だと思うのです。
 しかしそれ以外のことは、いい意味で「打算的」に考えて行動するべきだと思うのです。そうすれば、しだいに自分へのとらわれから自由になることができます。つまり、それだけ覚醒に近づくことができる、ということなのです。
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コメント

今、アジナーチャクラの瞑想を3分しました。
何の光も見えませんが、最初はそうでしょう。
偉大なる修行を踏みだしたのですね。
毎日、寝る前に瞑想します。

神様の支援もきっとあるでしょう。
2010-06-19 Sat 02:25 | URL | 両さん [ 編集 ]
斉藤啓一です。
コメント、ありがとうございました。
偉大なる一歩を踏み出されたと思います。
アジナー・チャクラの光は見えなくても、一回でも瞑想すれば、必ずそこには霊的な変容があるはずです。
それが現象化するまでは時間が必要かもしれませんが、とにかく、一回でも瞑想すれは、それだけ霊的な変容が行われているのだと確信して、どうぞ、忍耐強く修行を続けていかれてください。
2010-06-19 Sat 06:47 | URL | 斉藤啓一 [ 編集 ]
アジナーチャクラの瞑想ということでしたが、経験から太陽をイメージするといいですよ。
かといって太陽を直接見ると危険ですので、部屋の電気が額に当たるようにして、最初は薄目で光を取りこむと便利です
2010-06-19 Sat 13:18 | URL | 蜻蛉切り [ 編集 ]
斉藤啓一です。
アジナー・チャクラ瞑想についてのアイデア、どうもありがとうございました。このように、「こうしたらもっといいですよ」的なご意見やアドバイス、大歓迎です。こうして情報を共有しあい、智恵を出し合いながら、みんなで覚醒していきましょう。
2010-06-19 Sat 19:41 | URL | 斉藤啓一 [ 編集 ]
人への怒りの処理は難しいですね。昨日も相手の言葉に傷つけられたと感じて止める間もなく怒りが頭に上りました。損得で考えて自分に損であり無駄で無益でと一生懸命怒りを変容させようと試みましたがなかなかおさまりませんでした。相手の言葉は本質ではなくエゴのふるまいであり私に向けられたものではないと、寛容で透明な愛に変えようと、力を貸してもらえるよう魂に祈りましたが難しかったです。復讐ではなく気持ちをわかってもらって二度と同じことをしてもらいたくないという思いが強かったのですが、それを愛の表現で伝えるにはどうすればよいでしょうか?
2010-06-21 Mon 00:10 | URL | WakayamaKajimoto [ 編集 ]
斉藤啓一です。コメントありがとうございました。
感情を支配することはもっとも難しいことのひとつであり、これが簡単にできればみんな覚醒していると思いますので、まずは、気長に取り組むという姿勢が大切であると思います。
そして、このような心を乱されたことを、修行の機会が与えられたと考えて、前向きに受け入れることも大切ではないかと思うのです。
愛の表現で伝えるにはどうすればいいかと、このように考え、苦心してそれを求めていく姿勢そのものに、大きな価値と意義があり、それを通してさまざまなものを学んでいく原動力になると思います。
愛の表現で伝えるためのひとつの方法は、すぐに伝えようとせず、気持ちが十分に穏やかになるまで時間をおいてから(場合によっては何日でも、何週間でも)、伝えたらいかがでしょうか。
2010-06-21 Mon 06:59 | URL | 斉藤啓一 [ 編集 ]
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2010-06-21 Mon 11:41 | | [ 編集 ]

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