心の治癒と魂の覚醒

        

 不幸な人生を大逆転させて幸運な人生に変える

 少なくても表面的な出来事を見る限りでは、世の中や人生はなんと不公平なのだろうと思う。まじめに努力しても報われないこともあり、正直で善意に生きていても、辛い仕打ちにあったり、不運に苦しめられることもある。生まれつき不遇な環境に生まれ育つこともあれば、人生の不条理によってひどく傷つけられることもある。
 また、ガンになりやすい人は「責任感が強く、完璧主義で仕事をまじめにやり、他者を思いやる気持ちが強く、周囲に気を使う」人だというが、こういう人はいい人ではないだろうか。いったいなぜ、いい人がガンになって苦しまなければならないのだろう? それなのに、いい加減で無責任、傍若無人でわがままな人は、ストレスもたまらないだろうし、ガンにもならない。こういう人は逆に、周囲の人にストレスを与えて、周囲の人をガンにさせる人だ。なぜ、人をガンにさせる人が苦しむことなく、意気揚々と幅をきかせているのだろう?
 こうした点について、スピリチュアルな視点から説明すれば、いろいろと理屈はつけられるのかもしれないが、そんなことを詮索しても、あまり意味はないようにも思われる。それよりも、「人生の本質は苦しみだ」と言い放った釈迦の言葉の方が、なんだかさっぱりしたものが感じられる。

 しかしながら、こうした人生の幸福と不幸のありかたは、覚醒をめざすかどうかによって、まるでオセロ・ゲームのように白黒が反転する。
 もし、人生が幸せに満ちていたら、たとえば、健康で、裕福で、仕事には生き甲斐を感じ、理想的な恋人や配偶者に恵まれ、愛情豊かな親の元に育ち、健康で頭のいい子供に恵まれ、環境のいい場所に住んで……といった人生を送っていたら(実際にそんな人生を送っている人がどれだけいるかは別として)、覚醒などに関心を持ち、修行などしようとは思わないだろう。覚醒の修行は必ずしも禁欲主義ではないが、しかし今日の平均的なライフスタイルから見れば、はやり禁欲的といわざるを得ないだろう。いったいどうして、そんな禁欲的な修行など、しようと思うだろうか?
 ところが、人生が不遇や苦しみ、悲しみや寂しさで染まっていれば、そんな苦しみから根本的に解放されたいという気持ちが芽生え、その(おそらくは唯一の)解決策である覚醒の道を歩むようになるだろう。人生が苦しければ、人生に未練はなくなっていき、欲望に心が奪われることも少なくなってきて、覚醒の道からそれることはなくなるだろう。
 その意味で、この世的な幸せに恵まれない人は、実は幸運であるといえるだろう。
 覚醒をめざす求道者にとって、苦しみや不幸は(そのためにますます覚醒したいと思うようになり、修行に打ち込むようになるという点で)幸運なことであり、いわゆる幸運は(この世的な快楽に心を奪われ、覚醒の道からそらせてしまいがちなために)不運だということになるのではないだろうか。
 もちろん、だからといって、わざわざ不幸や苦しみを求めるべきではない。しかし、意図せずに訪れた不幸や苦しみを嘆いているのだったら、ただ覚醒をめざすという方向転換だけで、すべて不幸は幸運となり、人生は大逆転するのだということを、心にとどめておくべきではないだろうか。
 苦しみはありがたい。悲しみはありがたい。寂しさはありがたい。彼らが背中を押してくれるからこそ、覚醒という、真の幸せに向けて歩むことができるのだから。

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