心の治癒と魂の覚醒

        

神の不在の世界をどう生きていくか?

 母がまた入院した。ふだんは車椅子の生活なのに、(認知症のせいもあるのか)自分は歩けると思ったらしく、勝手に一人で廊下を歩き出して、結局 転倒。最初は顔面の青あざだけですんだと思ったが、施設の人がどうもおかしいというので医師に診せたら、大腿骨の付け根の部分が骨折していることがわかり、急遽、入院ということになった。
 医師の話では、手術して一ヶ月ほどで退院できるらしいが、とにかく母は、しばらく安定した状態のまま施設に過ごすということがない。次々に状態が悪化したり何かが起こったりして、結局施設を離れて病院に入退院を繰り返すパターンだ。そのたびに私の方は時間と労力とお金を費やすことになる。こうした点については以前にも書いたので、これ以上同じことを書くことは単なる愚痴になってしまうので書かないことにする。わざ とそうしているわけではないし、恨みや憎しみといった感情は母にはない。むしろ、母を見ていると、人間というものの哀れさに胸が痛くなる。なぜ苦労して歳を重ねてきて、そのうえ人生の最期になって、「これでもか」といわんばかりの苦しみを味わわなければならないのだろうと。
 母は、夫(私から見れば父)に5年ほど前に死別し、3年ほど一人暮らしをして孤独な生活を味わい、元気でどこにでもよく歩いていったのに、1年くらい前から急に歩けなくなり、車椅子生活になってしまった。そうして、親切な職員に恵まれてはいるとはいえ、しょせんは自分の家ではなく他人と暮らす孤独な生活になってしまった。自分ではもうできないので下の世話を人にやってもらうことになり、体の自由がきかなくなり、ちょっとしたことで体調を崩してぐったりとしてしまう。認知症となり、妄想やら、わけのわからないことを言ったりするようになった。入院すれば点滴を打たれたり手術をされたりといった苦痛に満ちたことをされるなど、要するに高齢者によくある状態を目の当たりにしてきて、自分もいつかこうなってしまうのかと思うと、気が滅入ってしまい、また、高齢となり力もなく弱弱しくなっているのに、こうした辛い経験をしなければならないようにできているこの地上世界、また、そんな地上世界を創造したとされる神に対して、疑問というか、正直なところ、嫌気のようなものさえさしてきているということが、私の今の本音である。

 年末や年始ともなれば、毎年大勢の人が神社仏閣に行って幸せを祈願する。その内容のほとんどは、現世的な幸せであろう。「お金が入りますよう に」「健康で過ごせますように」「結婚できますように」など、そういったお願いを神仏にしているであろう。私自身は、そのようなお願いをしにお参りに行っても、効果はないと思ってきていたので、ほとんど神社仏閣参りのようなことはしたことはない。しても個人的な願いではなく「世界が平和でありますように」といったことを祈るだけである。とはいえ、本当に苦しいときには、神はきっとその声を聞いてくださり、助けてくれるのではないかという思いが払拭されきってしまったわけではなく、やはり心のどこかではそのような思いがあった。
 けれども、今回、母のことをきっかけにして、この世の現実をあらためて見てみれば、祈れば救ってくれる神などいないことは、一目瞭然ではないかと思うことになった。2万人以上が死んだ東北大震災の人々が、誰一人として神に助けてくださいと祈らなかったはずはない。だが無常にも、神はそのような願いを聞き入れることはなかった。他にも私は個人的に心理カウンセラーを通して、本当に気の毒で悲惨な患者さんたちを少なからず見てきた。当時はそのような話を聞いてもそれほど深く心に響いていたつもりはなかったのだが、最近になってそうした患者さんのことが思い出されることが多くなり、やはり実際には心の底に響いていたのかもしれないと思う。ボクシングにたとえるなら、ボディーブローを何回も受けてきて、それがじわじわと今になって応えはじめてきた、といった具合だろうか。

 こうなると、結論は2つしかない。ひとつは、神は存在しないということ。もうひとつは、存在はするが、私たちを救ってくれることは必ずしもないこと(救ってくれることもあるかもしれないが)。また、救いたくてもそれだけの力がないという場合も考えられる。
 この世界という「結果」が存在している限り、その結果を生んだ「原因」はあると考えるのが普通であろう。いわば、この世界を創造したものであ る。その存在を「神」というならば、確かに神は存在するといえるだろう。
 だが、世界を創造したような広大無辺な神は、私たち人間にとってはあまりにも高い存在であり、いちいち私たちの(神から見れば小さい)苦しみなど、相手にしてはいないのではないだろうか。
 神とは違うが、守護霊だとか、心霊的な存在はどうもいるようである。だが、彼らは万能ではない。世間のニュースを見ていると、子供の目の前で 母親が変質者に殺されるとか、そのような事件がときどき報道されている。それを見ると、いったい「守護霊」は何をしていたんだと言いたくなる。いったい何が「守護」霊なのであると。
 今の私は、神は存在するかどうかと問われるならば、こう応えることにしている。「神は存在するが、私たちの期待するような神ではない」と。
 私たちの期待するような神ではないとしたら、神は存在しないも同然ではないだろうか? なぜなら私たちの大半は、神は困ったときの救 世主であると考えているからだ。祈れば救われると考えているからだ。
 しかし、現実は違う。祈っても救ってくれはしない。起こるべきことは起こる。そう思うとき、私は単純に「神なんて存在しない」と言うときもあ る。これは正しくはないかもしれないが、間違いでもない回答であろう。

 だが、人間というものは、神のいないこの世界において、生きていけるものだろうか? 大部分の人は(私から言わせれば)「神はいる」という「妄想」を支えにして生きている。だが、現実をありのままに見て神はいないと悟ったとき、人は神なしで、今後、どのように生きていったらよいのだろうか?・・・・

 以上のようなテーマについて、今度セミナーを開きます。

演題「悟りを開くためのヒント」
日時:8月3日(日) 場所:アルカノンセミナーズ(東京渋谷)
詳細&お申し込み
→アルカノンセミナーズ

 このように、今回は哲学的なテーマについて、私の個人的な見解をご紹介する内容となると思います。かつて行っていたような「悟りを開くための」具体的な瞑想法や修行法という点については、あまり言及しないと思います。テキストも配布する予定はありません。そのおつもりでご来場いただければ幸いに思います。よろしくお願い申し上げます。
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コメント

この物質世界の荒波を経てお母様は、ゆっくりと魂の故郷に戻る準備をされています。神はその門出を既に祝福されています。しるしとしてもうわがままいっぱいでも生きていけるよう配慮されました。
物質世界から見るお母様の姿はもしかしたら醜いと映るのかもしれませんが、お母様が織りなしてきた喜び悲しみの魂の織物の美しさが、老いた姿を通して御覧になれないでしょうか?
後は斉藤さんが、お母様を許し祝福し、美しさを見いだすのを神は辛抱強く待たれています。
2014-07-18 Fri 11:11 | URL | 伝言人 [ 編集 ]
このコメントは管理人のみ閲覧できます
2014-07-22 Tue 21:25 | | [ 編集 ]
本当に三食昼寝付きの安全な危険の一切ない檻の中で神に飼育されたいというのが望みなのですか?
危険・苦労含めて野生(世間)で生きていたいと、檻の扉を開けないですか?
仕事辞めます。檻だから。
野生でライオンに食い殺されてもいい、大草原でわたしは生きたいです。
檻に入った人しかわからないことです。
2014-07-28 Mon 22:16 | URL | リゼ [ 編集 ]
辞めるのではなく、首でした。
お金の為、檻の中でも生きなくてはならなくて。でも首でほかをあたります。
でも、わたしは神を恨みはしませんよ。
そういう不幸が立て続けに起こるのが
わたしであり、日常的であり、
幸せなど垣間見たことさえありませんので、
ですが、ヘレンケラーなどを考えると、
目が見えて、耳が聴こえるのだけでも、
かなりラッキーだと感じますよ。
2014-07-28 Mon 22:25 | URL | リゼ [ 編集 ]
リゼさんへ。斉藤啓一です。コメント、ありがとうございました。この世界そのものが巨大な「檻」なんですよ。どこに行こうと、たとえ自分では檻から出たつもりでも、依然として檻のなかにいることを、いつか気づくでしょう。
2014-07-28 Mon 22:37 | URL | [ 編集 ]
お返事有難うございます。
えぇ、宇宙は巨大な檻かもしれません。
ですが、それがあまりにも巨大すぎる。

人の能力や規模からすると、それは
草原だと言っても過言ではないと感じます。

わたしはかつて、ダイビングをした時、
急浮上の練習で、インストラクターから
海底で息を吸い切った時点で、背中の空気を
おくる弁?を閉じると言われたのですが、
息を全部吐ききった時点で何を勘違いされたのか、その時点で弁を閉じられてしまいました。
息をすべて吐ききったまま、浮上をしたとき、死の恐怖を感じました。
ですが、その後、わたしは呼吸がほとんど止まり、逆に言えば、酸素から逃れ自由になり檻ではなくなったと言えるかもしれないけど、だけど、生きている感触を失い、
生きている実感はそういう、死や生の制約の中から発見されるのかと実感できるのかと感じられました。人は完全自由の中からは、堕落あるのみで、ある程度の制約があるからこそ、自由の意味も知れるのかと感じます。
2014-07-28 Mon 23:33 | URL | リゼ [ 編集 ]
ですが、わたしはそういった生と死の輪廻から脱出することになんら反対はしていません。

ただ、入口があれば、それは必ず生と死の狭間にあると感じます。

輪廻も生と死の行き来であり、その狭間を見つけるのが悟りであり、死人禅なども生と死のはざまのなんらかだと感じます。
2014-07-29 Tue 00:02 | URL | リゼ [ 編集 ]
本当ならば苦境ではなく、狭い宇宙ステーションの中で長期間任務にあたり、地球を恋しく思い、地球のありがたさや、大地の美しさを感じ取るというのが、一番素晴らしいことかもしれません。
ですが、誰しもが宇宙飛行士になれるわけではなく、苦境という中で幸せとの対比により感じ取るという手段しか持っておらず、これが不公平感かも知れませんが、
しかし、わたしは自分が不幸が立て続けにあったとしても、神を恨まないのは、
能力は自分で開発していくものだと感じているからです。勿論信仰も持ちながら、自ら努力をしていけば、宇宙飛行士にもなれる。
なれないのは、自分の努力が足りないからと思うほうです。職業選択の自由があるし。知能での不公平は確かにあります。
ですが、覚えられない何かを何千回もノートに書いたものはいつか、必ずどこかで役に立ち、繋がっていくと思います。繋がったら公平な感じに均されていくと経験上思います。
きっとわたしは立ち直ってみせる。
こんな辛い時期はわたしも耐えがたいですが、きっと今の辛さは、何処かとリンクし役に立つ日がくる。そういうことが多かったです。あの時の辛さはこの為だったのかと、後から気づいたり、どこかで海(苦労)は繋がり、
同じ景色(公平な感じに)に均されていくと感じられます。
いつの日かきっと、神はすべて見ておられる。すべてを。
2014-07-29 Tue 00:31 | URL | リゼ [ 編集 ]
斎藤先生、触らぬ神に祟りなしという言葉もありますね。それはやはり神とは対峙したり対話したりするものではなく、ただひたすら仰ぎたて祀る存在なのかもしれません。むしろ「世の中に埋没する」ことで神は見えてくるかもしれないなどと最近の私は思っています。
2014-08-01 Fri 00:29 | URL | oku [ 編集 ]
斉藤啓一です。okuさん、コメントありがとうございました。確かに、そういう見方もできるかもしれませんね。
2014-08-01 Fri 22:34 | URL | [ 編集 ]
私も、父と共に認知症の母の介護をしておりますので、斎藤先生のお気持ちお察しいたします。ただ、私の母は、正直あまり性格も良くなく、好き勝手やった人生の最期で病気になりました。こういう母の世話をするのも修行なのでしょうが、私は人間ができておりませんので、なんとも馬鹿馬鹿しく感じてしまうことが多々あります。この世の感覚しか持ち合わせていないので、この試練を乗り越えれば霊的な進歩を遂げるのだろう、と頭でわかっていても実感が伴わないのです。自分が試練を与えられてラッキーだと思えるにはどうしたらいいのかな、と思いますが、じりじり亀のように進んでいくしかないのかも…先生もどうぞご自愛下さい。
2014-08-12 Tue 23:12 | URL | りっくん [ 編集 ]
斉藤啓一です。りっくんさん、コメントありがとうございました。ばかばかしくなるお気持ち、よくわかります。あまり先のことを考えると落ち込んでくるので、おっしゃるように、カメのように今日やるべきことだけを淡々とやるようにしています。これも修行なのでしょうね。この修行の結果、どのような成長があるのかはわからないのですが・・・。ともかく、りっくんさんもお体に気をつけてがんばってください。
2014-08-13 Wed 23:02 | URL | [ 編集 ]
斉藤先生、私は介護福祉士であり僧侶です。先生のご著書を長年拝読し、様々な修行をしてきました!

結果的に世俗以上の修行の場はないと感じております。釈迦に説法ですが、三次元
現実の強い重力に自己の本体が光であることを見失わずに、解脱いたしましょう。合掌



2014-08-30 Sat 20:00 | URL | 真宗オショー [ 編集 ]
斉藤 さま

はじめまして。
親や子が、日に日に弱っていく姿を観るのは、とても辛いことだと思います。

私はすでに両親を亡くしていますが、いつ枯れるのだろうと思うほど泣きました。
後悔することばかりでした。

でも、そのおかげでいろんなことに気づかされました。

これまでは、他人よりも不幸の多い人生でした。
家族を守るために必死に生きてきました。
とても長い間、暗い闇に居たような気がします。

でも今は、神……大きなエネルギーの存在を感じています。
大きな存在は、いつも、誰でも、認めてくれています。
善意も、悪意も、同じなのです。

不幸を恨めば、自分を不幸にします。

自分の子供を殺されたのなら、ほとんどの人が気が狂うほど泣き叫ぶでしょう。
私も同じです。

大きな存在は、それでいいと言っています。
怒りを爆発させるなら、それでいいのです。
それが人間です。

ただ、すべての感情を出し切り、感じ切ったなら、それに引きずられることのないように……ということでした。

その子供は、親に怒りを植え付ける為に、この世に生まれてきたわけではないのですから。
最後には、その子供に【ありがとう】です。
いろんな幸せを与えてくれた、感謝の心があるはずです。

今は、お母様の姿を見て、辛い時期だと思います。
この世に救いは無いのかと、思うのも当然です。
でも、お母様の子供に生まれてきたことは、幸せだったと思います。

大きな存在は、いつも待っています。
善も悪も関係なく、すべてを受け入れて、ずっと待っています。

いつか、みんなそこに帰ります。
2014-12-19 Fri 15:00 | URL | 黒いネコ [ 編集 ]
斉藤啓一です。皆さん、真剣かつあたたかいコメントの数々、私はとても嬉しく励みになっており、こころからありがたく思っています。こころから感謝です。私はすばらしい読者に恵まれて幸せ者です。
2014-12-19 Fri 21:37 | URL | [ 編集 ]

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