心の治癒と魂の覚醒

        

ウツの状態でもよいことがある

 精神安定剤の薬は少しずつ減らしている。1錠服用すると2時間弱くらい楽になるが、その後は息苦しいような、何ともいえな禁断症状の苦しみに襲われる。そのため、夕方まで3、4錠くらい服用する。夕方になると、不思議に苦しみはなくなり、そのまま就寝まで比較的穏やかな状態でいられる。しかし、毎晩必ず深夜か明け方に苦しくて目が覚めてしまい、そのとき薬を服用するが、6時に起床するまであまりよく眠れない。そのため、慢性的な寝不足状態がずっと続いている。安眠ができないのは辛いものである。
 もはや、私の苦しみはもともとあったウツの苦しみなのか、それとも薬が切れたことによる禁断症状なのか、わからなくなってしまった。とにかく私はもうけっこう長い間、苦しみに耐え続ける日々を送っている。いつまでそれに耐えられるかわからない。死ねば楽になるだろうということは常に考えている。だが実際に自殺しようとは思わない。そうしたら、家族を最低のどん底に突き落としてしまうことになる。それでも正直な気持ち、私はもうこの世に生きていたいとは思わない。
 そんな状態のなかでは、人は自然に哲学者になる。この人生の本質について、また、神は存在するのかしないのかなどについて、さまざまなことを考える。私は神にもう何千回も救いを求めたが、助けは得られていない。神は存在しないのかと思う。だが、この苦しみを受け入れることで、神は何か意図されているのかもしれないとも思う。
 ウツになると、あらゆることを悲観的に考えてしまう傾向が出てくることは知られているが、私もこの世のあらゆることが混沌として意味がないように感じられる。毎日毎日職場に行き、単調な事務作業だとか、頭を下げて靴底を減らして歩き回る営業の仕事だとか、世の中のほとんどの仕事は「世のため人のため」といった崇高な理念のようなものはほとんどなく、ただ奴隷のように無味乾燥な仕事をしているだけのように感じられる。このように感じられるのは、おかしいのだろうか? おかしいのかもしれない。どんな仕事だってそこにはすばらしい意義や目的があるのだろう。しかし今の私の頭では、この世界を正しく認知することができない。
 自分のこれまでの人生を振り返るときもそうだ。楽しいこともあったけれども、おおまかに言えば、私の人生の大半は苦闘の連続であった。挫折と失敗と屈辱が大半を占めている。それでも今までは若かったから「いつか見てやれ」という気持ちでがんばってこれたけれども、そろそろ社会的な引退が視野に入る歳になってしまっては、未来に対する可能性は無に等しくなり、何よりも致命傷は、何もかもやる気がしないという意欲喪失のウツになり(おまけに薬害に苦しむ)ようになってしまったことだ。これでは絶望的だ。その絶望感が私をさらに苦しめる。たとえ年齢が高くても、ウツにさえならず意欲が高ければ、60歳を過ぎて引退してからも起業したりなど盛んに活動して元気に過ごしている人も少なくないが、人間はウツになったらおしまいだ。意欲そのものが失われてしまうからだ。今まで好きだった趣味も娯楽も興味がなくなり、人と接するのがとてもめんどうになる。これでは起業なんてできるわけがない。歳をとってウツになったら、もう死んでしまったも同然のような気がする。
 それでも生きるために毎日会社に行き、ストレスと闘いながら働かなければならない。なるべくロボットのように感情を無にして、ただ黙々と働くようにしている。それは拷問に等しい辛さだ。
 しかし、このように苦しい状況を生きていることにも、一筋のよいことがある。
 それは、人に対してやさしくなれるということだ。ウツになると、自分のことだけでなく、あらゆる人々の抱える苦しみが、まるで自分のことのように感じられるような気がする。だから、苦しむどんな人も理解でき、その苦しみに対してやさしく接することができる人間になっていく。私自身も、以前と比較すればだが、そのような人間に少しはなれたような気がする。また、人はやさしくなると、自然と謙虚にもなるものだ。誰に対しても差別なくやさしくしてあげられる思いやりと謙虚な人になれるような気がする。
 とはいえ、ウツの苦しみの代価として、やさしい人間になることに、どれほど価値があるのだろう? ウツはあまりにも辛い。世の中を見渡せば、ウツとは無縁な冷たい意地悪な人が社会的にいいめを見ている事実がたくさんある。やさしくて謙虚な人は、この社会では軽く見られたり馬鹿にされたり、いじめられたりすることが多い。私はそのようなよい人たちが虐げられるような、この世の中がゆるせない。だから、万が一ウツが治り社会的に高い地位にもしついたとしたら、今まで私に屈辱を与えてきた連中に仕返しをしてやりたいという欲求が脳裏をかすめる。おおいに威張り腐って、傲慢になって、私を馬鹿にした連中を馬鹿にしてやりたいと思う。けれども、そのような思いが浮かんだら、すぐに消すようにしている。そんなことをして、いったい何の意味があるというのだろう。仮にそんなことができたとしても、残るのはただ虚しい気持ちでしかないであろう。私はそのような醜い事柄に関係したくはない。
 ウツになること自体は、別に恥ずかしいことではない。自分でいうのも何だが、この社会では、繊細な心をもった人は大なり小なりウツになるのではないかと思う。厚かましい人はならないだろう(だからといってウツにならない人はみんな厚かましいと言っているわけではない)。ただ、人は傷つくことが重なると、ウツになりやすいであろう。
 地上人生の目的のひとつが、やさしい人になること、謙虚な人になること、いわば、愛ある人になるためであるとしたならば、私には挫折とウツの経験が必要だったのかもしれない。
 それが真実かどうかは、死んだときにわかるに違いない。私の苦しみが天国の門をくぐり抜けるためのパスポートだとしたら、この苦しみはまさに「恩恵」ということになるだろう。
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コメント

斉藤さま

大変辛く苦しんでおられるようですね。
うつ病は、周りの理解が一番必要な病気であり、周りの理解が一番得にくい病気と言われます。
これまで見てきたうつの方は皆苦しんでおられました。
でも、元気に健康になられた方も何人も見てきています。
そういう方の傍らには、必ず良き理解者がいたように思います。
良き理解者の存在が、徐々にうつを消していくかのようでした。

ひとりで戦うのはとても辛いと思います。
だから、辛いときはどこかで声を上げることも必要ではないでしょうか。

斉藤さまが、ご自分のことをこうして包み隠さずに言葉に出来ているのは、今の自分自身をしっかり受け入れているからだと感じます。
そしてその言葉に反応して、ささやかではあるけれど、その苦悩を共に分かち合おうとする人がいます。
素晴らしいことですね。

知恵も足りない、体力も足りない、愛や勇気が足りなくても、少しでも誰かの支えになれば……そういう想いは誰の胸の中にでもあるものだと思います。

地べたを這いつくばる姿をかっこ悪いと感じる人もいるかもしれません。
でも私は、どんなに不格好でも懸命に生きる姿は、何にも代え難く、尊いものに感じます。

一歩一歩の歩みは重く、時には投げ出したくなることもあろうかと思います。
でも確実に未来に近づいています。

大丈夫です。


余談ですが、植物性のプロテインは良いですよ。
アミノ酸スコア100 の植物性のプロテインがお勧めです。
傷ついた脳の機能を修復するのには、吸収の良い良タンパク質が効果的なようです。
私もずっと愛用しています。
2015-04-01 Wed 09:51 | URL | 黒いネコ [ 編集 ]
私も重度の慢性うつ病ですが、人の苦悩に対する共感力が増しました。
私は縁があって個人的にイエス・キリストと五井昌久先生を信愛しております。
現象的にみるとイエス様も五井先生も悲惨な最期ですね。
でも、この2人の聖者は肉体的苦痛や肉体的死を問題にしておりません。
悲惨な人生でしたが、後世の人々の魂を救っておられます。
大変な天命を全うされたのです。
私にとって、イエス様や五井先生は希望の光です。
その信頼できる聖者がよりどころとしていたのが神様です。
神様はいるいないの問題ではなく、大いなる命、大いなる愛そのものです。
ですから、私は「神様聖者幸福平和」と唱えて救われています。
さらに神様は本当の自分そのものなので「神様真我幸福平和」と唱えて悟りつつあります。
ありがたいことです。
私には「神様真我幸福平和・神様聖者幸福平和」という真言が根本療法になっています。
副次的な方法として、五井昌久先生による世界平和の祈りの統一CDをお勧めします。
精神霊的な疲労がかなり癒されます。
あと、波動的にはカリンニコフやヨハン・クリスティアン・バッハの音楽が癒しと覚醒の力を持っています。
生きているのが辛く苦しいときに、これらのCDは偉大な力を発揮することは体験済みです。
何かのご参考になれば、同じうつ病患者として幸いです。

世界人類が平和でありますように
神様イエス様五井先生ありがとうございます
神様真我幸福平和・神様聖者幸福平和
2015-04-01 Wed 18:15 | URL | たきざわ みちたか [ 編集 ]
斉藤啓一です。黒いネコさま、感動的なお言葉をいただきありがとうございます。滝沢さんもありがとうございます。
2015-04-01 Wed 22:32 | URL | [ 編集 ]
斎藤先生
私も、若いころにウツになりました。先生の今回の記事を読ませていただいて、ふと思いあたったことは、20代とかでウツになると、患者である自分も、また周囲の人や医師なども、「ウツは苦しい状態で、しかも普通の状態ではないから、治しましょう」という考え方だったよな~ということです。もちろん周囲の人たちは同情的で悪気も何もありませんでした。でも、今考えると、自分も含めて「あまりにも苦しいウツを治療することはもちろん必要だが、だからといってウツ=普通じゃないという考え方は、ちょっと浅はかだったのではないか」と思います。もちろん、現世的に考えれば、心身共に苦しい思いをするのはつらいし、日々の生活にも影響するので、そういう状態を軽減することは大事だと思います。だからといって、ウツになることや、ウツを経験する人が、ネガティブな意味で「普通ではない」と短絡的に考えることは、無知で傲慢なことではないでしょうか?私もそうでしたが、「こんなつらいウツになることは、悪いことだ」と短絡的に考えることが、ウツのつらさをさらに倍増させていた気がします。歴史上の偉大な人格者でウツを経験したり、本当に心身ともにつらい目にあって死んだ人は少なからず存在しますし。でも、もちろん、だからといって斎藤先生はじめ、心ある方々が皆、苦しみだらけの人生をおくるべきだ、などとは全く考えていませんが。ただ、一見明るくて幸せそうに見える人たちでも、見えないところでいろいろな問題を抱えている、また将来的には苦労が待っているというのはかなり本当で、そういうことが人生経験を重ねるにつれてだんだんわかってくると、ウツに対する考え方も変わってきました。慰めにもならないかもしれませんが、きっと先生も心が軽くなるときが遠からず来ると信じております。
2015-04-05 Sun 01:12 | URL | りっくん [ 編集 ]
斉藤啓一です。りっくんさん、励ましのコメントありがとうございます。ウツは悪いことだと考えないようにします。
2015-04-05 Sun 23:13 | URL | [ 編集 ]

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