心の治癒と魂の覚醒

        

聖人・覚者の抱える苦しみ

 私のウツの調子は、少しずつですが、快方に向かっているような気がします。今までは何もする気がなく、ただ横になってぐったりとしているだけでしたが、今では本やインターネットを読むことができるようになりました。といっても長時間はまだ無理で、すぐに疲れてしまい、その後は気分が落ち込みます。夕方から夜にかけては、「ウツは治ったのではないか」と思えるくらい調子がよかったりするときもあるのですが、朝起きたときからお昼過ぎまでの気分が最悪です。
 辛さに耐えるということは、いわば押してくる壁に対して必死でそれを押し返しているような感じで、とてもエネルギーがいります。何もせずじっと寝ているというだけでも、内面の苦しみに耐えるということには膨大なエネルギーが必要になるのです。
 私は正直、そんな状態を毎日毎日かれこれ3年くらい続けてきました。さすがに最近はもう疲れてきてしまいました。最初、その疲れはからだと心(脳)の疲れのような感じでしたが、最近の疲れは、何かずごく深い疲労感、いうなれば「魂の疲労感」といった感覚で、非常に根深く、生きることそのものが疲れてしまっている・・・といった感じになっています。たぶんこれは、脳の疲れというより、私が今までため込んできたトラウマ的なものが湧き上がっているような気がいたします。普通の人ならそれほど気にならない事柄であっても、私はそれに対して過敏に反応し、強い不安感や寂しさの気持ちが湧いてきていたたまれなくなります。これはおそらく、何らかの出来事によって過去の心のトラウマが連想され、それがよみがえってくるからではないかと思われます。
 たとえば今日も、奇妙な夢を見ました。私が中学生時代、初恋の女の子とバスの中で会う夢です。彼女とは同じ歳ですから、もう相当なおばさんになっているはずですが、夢に見た彼女は当時の少女のまま、可愛くて優しく、微笑んでくれました。私はとても幸せな気持ちになりましたが、その直後に目が覚めました。すると、彼女との苦い記憶がよみがえってきました。というのは、私は彼女のことが大好きだったのですが、勇気がないために「好きだ」と告白できず、そのまま卒業して別れてしまったのです。私はそのことが哀しく、残念で、その思いを数年くらい引きずりました(もっとも「好きだ」と告白したとしてもふられて結果的には哀しい思いはしていたでしょうが)。今までそんな40年も前のことなど思い出すこともなく過ごしてきたのに、今日の夢でその当時の苦しみがよみがえったのです。
 これだけでなく、ウツになると、ちょっとしたことでも悲観的になり、不安になり、悲しみと寂しさに襲われます。無意識的にそれと似たような過去のトラウマの経験が浮上してくるからであるように思われます。こうしたウツは治りにくいようです。
 他にも私は、「この人はすばらしい人に違いない」という人とたくさんの出会いを経験しましたが、しばらくすると、その人の裏の顔が見えて、つまり醜いところが見えて、その偽善性に失望するといったトラウマをずいぶん詰め込んできました。こういうことも、今の私のウツの原因なんだなあと考えています。そんなことがあるたびに、私は「人間嫌い」というより、「地上世界嫌い」になっていきました。人間は恨んではいません。なぜなら、人間は完全ではないし、欠点もあるし、間違いも犯すし、その点で私も人のことを責める資格はないからです。ただ、そのような不条理な「地上世界」を創造した「神」については、ちょっと文句を言ってやりたくなる気持ちは持っています(笑)。

 ところで、このような苦しみをなぜ味わわなければならないのか、以前はよく考えました。カルマの法則によれば、これだけ苦しい思いをするからには、過去によほどひどいことをしたに違いありません。しかし、少なくとも現世ではそんなにひどいことはしていないつもりなので、たぶん、過去生でひどいことをしたのかもしれません。しかし、過去生での記憶はないので、仮にひどいことをしたとしても、いったい何をどのように反省すればいいのかわかりません。そんなところが、「カルマの法則」で説明する限界というか、欠陥なのではないかと思っています。
 最近は、なぜこんなに苦しまなければならないのかという原因を探ることはやめました。いくら考えてもわかるものでもないし、そんなことを考えるエネルギーがなくなってしまったからです。今はただ、与えられた苦しみをじっと静かに受け入れるという、その姿勢で毎日を過ごしています。ある種の「無抵抗主義」です。

 では、聖人や覚者と呼ばれるような人は、苦しむことはないのでしょうか?
 彼らほど高い霊性を持っているならば、カルマ的な因果関係を超えているはずです。けれども、過去の聖人・覚者を調べると、覚醒したはずの彼らも、それなりに苦しみを背負って生きていたことが多いことがわかります。
 たとえば、古代ギリシアの哲人プロティノスは、彼の著述から覚醒したか、少なくとも覚醒に近い境地に達していたと思われますが、晩年は原因不明の奇病に襲われて苦しみながら死んでいきました。
 マザーテレサについては、このブログでも過去に取り上げたように、内面の暗黒と神への不信に苦しみ続けました。私はそれなりの個人的な理由を述べさせていただきましたが、それでも彼女ほど人類に献身している人に、そんな苦しみを与えなくてもいいではないかという気持ちは残ります。
 クリシュナムルティも覚者として知られていますが、彼は「プロセス」と呼ばれる苦しみをずっと味わい続けました。ほとんど毎日のように、ある時間がくると、1時間くらいだったかと思いますが、非常な苦しみが襲ってくるのです。彼の側近だった人は、クリシュナムルティの自室から苦しみのうめき声が響いてくるのを何回も聴いています(一節によれば、この苦しみはクンダリニーが上昇して不浄なものを浄化していることによるものといわれています)。
 釈迦でさえも、解脱を果たした後は順風満帆だったわけではありません。解脱をしたということは、カルマの温床を完全に根絶やしにしたことになります。ということは、過去の悪しきカルマが原因による悪い運命は起きないことになります。しかし、彼のことを嫉妬する僧侶の団体から嫌がらせを受けたり、言い伝えによれば、そのために軽い怪我もしていたようです。そして死ぬときは、毒キノコが入った料理を食べて(肉体的には)苦しんで死んでいきました。そのような原因はどこから来たのでしょうか? 何しろ覚者(仏陀)というのは過去のカルマの温床を完全に断ちきった人であるのですから。
 イエス・キリストに至っては、今更いうまでもありませんが、「自分も救えないくせに人類を救うなんて笑わせるな!」といった暴言を吐かれながら、十字架を背負って屈辱と苦痛に耐えてゴルゴダの丘に登り、ついには十字架にはりつけにされてしまいました。この点を「カルマの法則」から解釈したならば、これほどの苦しみを味わうということは、イエスは過去に相当悪いことをしたことになってしまいます。しかし、どうもそのようには考えられません(ちなみに、後のキリスト教会は、イエスは人類の罪を自ら引き受けて十字架にはりつけにされたと解釈するようになりました。だからイエスを信じる者だけが罪から解放されて天国に行けるという教義が生まれたのですが、私はその考えには異論があります。イエス自身もそんなことは言っていません。ただこの問題を論じると長くなるので、いつか別の機会でお話したいと思っています)。
 一方、日本人でまだ比較的若く、本も出していて「覚者」と見なされていた人がいました。しかしその人は結局、ガス自殺をしてしまいました。動機はわかりませんが、小さいときから地上で生きることに嫌悪感を抱いていたようです。覚者(もし本当に彼が覚者だとしたならばの話ですが)も自殺をするのでしょうか? スピリチュアルな考え方によれば、自殺した人は長い間暗い世界に幽閉されて苦しむと言われていますが、覚者もそうなるのでしょうか? それとも、覚者は別なのでしょうか? また、これは余談かもしれませんが、「ガス自殺」という、一歩間違えれば大爆発を起こして他の人を負傷させる危ない死に方を選択したという点も、私は気になります。覚者になってしまえば、そうしたことはどうでもよくなってしまうのでしょうか?

 いずれにしろ、聖人や覚者と呼ばれるような人でも、この地上に生きている間は、それぞれに苦しみがつきまとっていることがわかります。もちろん、言うまでもないことですが、私は聖人でも覚者でもないので、決して彼らと比較する意味で紹介したわけではありません。ただ私が言いたいのは、聖人であろうと覚者であろうと、まして凡人であろうと、カルマの法則とかそのようなことに関係なく、苦しみが訪れるときは訪れる、ということを言いたかったのです。実際、最初の方で紹介したプロティノスは、「苦しみは人間には知り得ない理由により、どんな人にも訪れる。たとえいくら偉い人であろうとそうでなかろうと関係なく」といった意味のことを言っています。釈迦はもっと単刀直入に「人生は苦なり」と言いました。
 ユダヤ教はこうした問題についてはかなり深く論議されていて、しかも正直です。ある賢者が天使を見かけたとき、その賢者は天使に向かってこう叫んだというエピソードが残されています。「君たち天国にいる者はいいよな(天使は地上で生きた経験を持っていない霊的存在とされている)。俺たち地上で生きる者の苦しみなんて、君たちには決してわからないだろうよ!」

 人間の本性は苦しいときに現れる。どんなに苦しくても人間らしく生きられるか、どんなに苦しくても他者への愛を忘れることはないか、周囲がいかに不条理で腐っていても、自分だけは正義を貫き、まっとうな生き方ができるかどうか、苦しみから霊性を高めていけるか、死後、霊的世界で大きな仕事ができる人間であるかどうか・・・、こういったことが試されているに違いない。
 その試され方は、しばしば生半可ではない。極限までしごかれることもある。それだけ、霊界を含めたこの世界というものは甘くはないということだ。希望を失わず、自分を信じ神を信じ、何度くじけようと最後まで粘り強くあきらめなかった人が、テストに合格し、道を開いていく。全力を尽くすことなく、くだらないことで人生という貴重で限られた時間を無駄に過ごし、自分を成長させることに真剣に向き合わなかった人、人生を本気で真剣に生きなかった人は、死後、人生は失敗だったことがわかり後悔する。
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コメント

真実かどうかわかりませんが、
かの件は、個人的には、自殺ではないかのように思えます。

なんとなしですが、
苦悶からの脱出のためにそうしたとは、
どうも思えません。。謎のようですし。

それにしても、不思議な夢でもありますね。

カルマの法則って見方によって色々あるのかもしれませんね。

よい、因果の結び方があるという風に捉えられもするんじゃないでしょうか?

たとえば、その人に気持ちを伝える分岐点があって、
伝えるっていう原因も創れた。

いいわるいじゃなしにですね

軽やかな意味でのカルマの捉え方があるとすると。
楽しいカルマのつみ方っていうものがあるとすれば、
それは、楽しいを創る原因を創ることでもあるかもしれません。
それで、楽しいを得る結果を体験する

その場合、
楽しいを結ぶ未来をつくろう!という考えになるかもしれません

そのほうが、恩恵もたらすことが
できることもあるかもしれません。

そういった意味で色々とらえてみると

たとえば、ある見方からは、
苦しいを経験するときは
自分を追い詰める原因があったかもしれません。
そうでもないかもしれません

でも、自分を解放する原因という見方もできるかもしれませんし、

楽しいを創る原因から遠ざかった何かを振り返る時間という
ただそれだけかもしれません

あるいは、目覚めに向かうために
必要だと信じている、
いつかの自分から願った経験かもしれません


キング牧師は、有名な演説で、
苦しみはあがないである

という言葉を伝えていました。
たとえば、目覚めに向かう道として使うことが出来ると解釈もできます
必要以上に、自分を責める考えから
解き放っていたんだとおもいます

迫害されている=過去に悪いことした

そういった流れから、出そうとされていたのかもしれません

真実は、わからないもので、
実際、だれも知らないんじゃないでしょうか?

苦しさが確かにある世の中なら、
苦しさを倍増させるような考え方は辛いと思います

個人を大切にするほうが
よい感じがします

楽になる考え方とのバランスが必要なのかもしれません

個人の幸せ を一人つくれば、
広がっていく来もしますし

たとえば、
カルマの考えを使うのなら、

自分の欠点を振り返ること
楽しい結果を受け入れるように正直であること
に使ったほうがよいのかもと思いますが

それも一つの考えですし、
人それぞれかもしれません

覚者については、いろんな思想がつけられて、
脚色も多々あると思われます

彼らが、
ただ、総て をもし経験するとしたら

もしかしたら、総て にとっての利益を
自然と体現する自己として

世界に存在し続けるのかなとも思ってます
わかりませんが

苦しみをみんなが経験しているというのなら
その苦しみから何を学べるかを選べるかなと感じました

世界にある苦しみを共感し涙を流すことで
なんらかの発展があるでしょうか?


ただ、非常に深い経験をされているのかもしれません

世の中の悟りや、覚者としての万能性というイメージと
苦しみの実際と感じているこの世界の実際のこと

その両方もっている存在がいるとすれば、
その人は、どれくらい世界にやさしいでしょうか?

もしかすれば、そういった意味で
意味のある経験とすることもできるのかもしれません

コンタクトのように、
重なっているとソレを認識できなくなるように

苦しみとも本当の意味でわかちあい
友達になったとき

世界と友達になるのかもしれません
わかりませんが
2015-11-17 Tue 07:38 | URL | 山 [ 編集 ]
斎藤先生
ブログの更新、嬉しく読ませていただきました。ウツは、風邪や虫垂炎のように、すっきり治るものではないので、苦しみがだらだらと続くと本当に嫌になってくるものですね。(経験者は語る)。ウツを経験した人、現在経験している人はみな同じ気持ちだと思います。しかし、ウツだろうと他の苦しみであろうと、全てが過去の悪しきカルマのせいではないであろうと私も思います。例えば、3年前にインドで若い女性がバスの中でひどい性暴力を受け、亡くなるという事件がありました。裕福ではない家庭に育ち、バイトしながら医大を出て、試験に合格し、お母さんに「私は医師になれる。これでうちの家族も安心よ」と喜んでいた矢先に事件に巻き込まれ、最後には病院で「お母さん、面倒なことに巻き込んで本当にごめんね」と言って亡くなったそうです。この被害者について、被害にあったのは過去生の行いのせいです、と言う人はマトモな神経ではないでしょう。
キリストについては、「人々の罪をあがなうために死なれた」というキリスト教の考え方は、私も納得がいきません。キリストが殺されなければならなかったことも、究極的には神の計画の一部だったに違いないでしょうが、直接的には人々が無知で残酷だったから殺してしまったので、そのことに対して上記のような理由づけをするのは、あまりに虫が良すぎる気がします。(「イエスさまが、あなたの罪のために死んでくださったと信じさえすれば、救われる」という考え方は、教会に人を集めるには効果的だったでしょうが。)
クリシュナムルティの「プロセス」に関しては、てんかんの発作ではないかという説がありますが、本当のところはわからないですね。
2015-11-17 Tue 13:30 | URL | りっくん [ 編集 ]
斉藤啓一です。山さん、そしてりっくんさん、コメントありがとうございました。いろいろな考え方があり、拝読させていただいている私も、思索が深くなってきます。今後も、いろいろなお考えをお聞かせください。よろしくお願い致します。
2015-11-17 Tue 15:25 | URL | 斉藤啓一 [ 編集 ]
このコメントは管理人のみ閲覧できます
2015-11-19 Thu 05:10 | | [ 編集 ]
斉藤さま

今回の記事は、斉藤さまらしい記事ですね。

一つの結果に対しての受け取り方は様々ですが、今、自分の置かれた立場から見えたものが、それぞれの真実なのかもしれませんね。

イエスの話も、カルマの法則からみれば矛盾もあるのかもしれません。
でも、肉体を持つ人としてみれば、自然のことのようにも感じます。

善意も悪意も、楽も苦も、自分に起こるすべてを差別することなく、否定することなく、すべてを受け入れることができたならば、誰もがイエスと同じ行動をするのではないでしょうか。

想像することさえ困難な大きな寛容さですが、そこに恐れは微塵も無いように思います。

聖人や覚者と呼ばれる人が、特殊な能力を持つ人を表す言葉であるなら、それを追いかける必要はないと思っています。
小さな人間だけれど、本当は誰もが秘めている、宇宙を飲み込むほどの寛容さ。
そこに辿りついた人が、本当の聖人であり覚者なのではないでしょうか。

斉藤さまの中で、否定したい出来事が溢れるほどに湧き上がってきていると感じますが、それを自分なりに受け止めようとしている姿が浮かびます。

頭では理解に及ばずとも、心ではしっかり理解されているように見えます。

ありがとうございます。
またひとつ、答えに近づきました。
2015-11-19 Thu 09:54 | URL | 黒いネコ [ 編集 ]

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