心の治癒と魂の覚醒

        

読者からのコメントと私の基本的な考え方

 「管理者だけがコメントを見れる」という入り口から次のような内容のコメントをいただきましたので、この場を借りて私の弁明と、私の基本的なスタンスについて話したいと思います。
 送られてきたコメントを一言でまとめると次のようです。
「斉藤さんからは、聖人に対するひがみの拡大解釈に基づく執拗なまでの聖人への怒りと嫉妬のような妄想がある」とあり、最後は「正直も過ぎれば災いのもとになることを、気づかれますように」と結んでいます。

 私の文章の書き方に問題があったのかもしれませんが、この方は私の書いた文章を完全に誤解しています。よく読んでいただければわかると思いますが、私は聖人・覚者の悪口を言いたかったのではなく、彼らほど人間的に完成された人がなぜ苦しみを味わうのかという、その疑問をぶつけただけです。実際、たとえばマザーテレサについても、過去のブログを読んでいただければわかるように、私は彼女の苦しみについて肯定的な意味づけをしていますし、今回もプロティノスに対しても、彼の苦しみは彼自身が悪いわけではなく、「人間には知りようもない理由によって苦しみが訪れる」といって弁明しています。イエスについてもそうです。

 私の文章を読んで、この方のように感じた人が、たとえば百人のうち半数以上いたとしたら、私の文章の書き方に問題があったか、あるいは私自身も気づいていないところで、実際に私は聖人を憎んでいるのかもしれません。そのことを確かめるために、統計をとってみたいくらいです。

 私は聖人・覚者に怒りや嫉妬などは持っていません。少なくとも、持っていないつもりです。なぜなら、私が心から尊敬する聖人や覚者はたくさんいるからです。
 ただ、世の中には自称「覚者」と称して、人をだましたりしている人がけっこういるようなので、安易に信じないよう注意しています。ただみんなが「聖人・覚者だ」と言っているからといって、また本や講演などですばらしいことを説いているからといって(言葉などいくらでも立派なことは書けます)、その人を聖人や覚者だとは認めません。あくまでもその人の行動を見ます。覚者なら、他の人を巻き添えにして迷惑をかけるガス自殺のようなことをするでしょうか? 私は正直にそう思います。しかしその「覚者」の弟子たちは、常識では誰もがそう思うような彼の行動について否定していないのです。それは「覚者のやることに間違いはない」と洗脳されているからだと思います。
 たとえ聖人だろうと覚者だろうと、「おかしいものはおかしい!」と言える勇気が大切なのです。この点では、戦後GHQによる意図的に行われた「日本人であることを卑下し権威に対して従順的にさせる。自分で考えることはさせないようにする」という影響のせいもあるかと思います(このテーマについては興味深いので、いつか取り上げたいと思います)。

 私はそのような、ある特定の人物を盲信して、明らかに地上的におかしいと思うようなことから目を背けることはしません。相手が聖人と呼ばれようと覚者と呼ばれようと、常に地上に足をつけた常識的な(仏陀の言葉を借りれば「中道」)の考え方をするようにしています。いくら聖人だろうと覚者と呼ばれていようと、おかしいと思ったらおかしいと思うとはっきりいいます(もちろん、私の考えがおかしいという可能性も自覚した上での発言です)。もちろん、すばらしいと思ったらすばらしいと言います。しかし、すばらしいと思ったからといって、その人が完全無欠であると信奉するようなことはしません。

 このような私の姿勢は、聖人や覚者といった人を狂信している人から見れば、私の考えを否定したくなるでしょう。「それはひがみだとか、妬みだとか、怒りだ」とか、いろいろ理屈をつけて責めてくるでしょう。

 私もこれまで多くの本を書いてきて、そして感想をいただきました。そこで気づいたことは、本の内容を自分の都合のいいように解釈して理解している人がけっこう多いということです。たとえば、S学会の信者さんが、私のある本について「私の信仰している内容と同じことを言っているすばらしい本だ」と言いました。私は驚きました。よく読んでいただければ、その内容は逆にS学会のような団体を否定していることがわかっていただけるはずだからです。結局、どんなことも、人は自分の心の鏡を相手に投影して理解していることが多いのです。

 今回のコメントにしても、私はむしろこのコメントのなかにこそ、書いた人の「怒りや嫉妬」を感じました。たとえば「正直も過ぎれば災いのもとになることを、気づかれますように」という、一見穏やかに書かれていますが、見方によっては「脅し」とも感じられる文章、また、私に対する読者の方からの励ましのコメントについても「斉藤先生の聖人ヘの不信感をさらにエスカレートさせることをひそかに楽しんでいるかのような、怪しげな妖気が行間に感じられます」と書いておられます。「ひそかに楽しんでいる」、「怪しげな妖気」といった言葉は、まず普通に考えるなら、「そんなことは感じるかなあ」と疑問に思います。そこに悪意や否定、攻撃的な気持ちが入っていなければ、たぶん使うことはないと私は考えます。

 さらにいえば「気づかれますように・・・」という言葉には、「自分は真実を知っている。あなたは知っていない。哀れな人だ。だから気遣ってあげているんだ」というような、言葉にしてしまえばそのような考えが見え隠れします。要するに「上から目線」でものを言っている傲慢さを感じます。

 結局、自分の心にあるものを、私に投影して自分自身の心を見たにすぎないのではないでしょうか。
 もちろん、彼の言っていることが事実である可能性もあります。私はそういう可能性もあるのだと自分に言い聞かせて、決して「自分だけが正しい」とは考えないようにしています。そう考えたら、それこそがまさに「妄想」でしょう。

 もしかしたら、私が否定した(とその人が誤解した)聖人や覚者の中に、その人が信奉している人がいたのかもしれません。そのために、怒りを覚え、その怒りを正当化するために、その原因を私に投影したのかもしれません。これはよくあることです。

 ただ、いずれにしろ、このブログは宗教団体の場ではなく、特定の価値や教義を教えることを目的としているのでもなく、あくまでも探求の場としてありますので、今回のような批判的なコメントも大歓迎です。それによって、私が間違っていたと気づくこともあるからです。私は自分が間違っていたと思ったら素直に認めます。しかしそう思わないときは、私も反論します。この場ではすべての人が平等です。私は権威者ではありません。私の言うことは信じないでください。あくまでも、自分の頭で考えるための「ヒント」や「参考」程度にしてください。それがこのブログの目的です。
 それから、批判や反論はけっこうですが、その場合、「管理者だけがコメントを見れる」ではなく、誰もが閲覧できる場所にコメントをください。そうすれば、そのコメントに対する賛否両論の意見も出てくるでしょう。そうしてますます私たちは思索を深めていくことができるでしょう。

 くどいようですが、日本人は自分の頭で考え、自分の信念を確立して自分らしく生きるということにおいて、海外の国々から見れば、はるかに遅れています。周囲に追随しようとし、誰かに依存しようとします。とりわけ宗教やスピリチュアル的に自立していない人が多く、そのために「楽をして悟りを開ける」的な本やセミナーやカルト集団にだまされてしまうのです。
 テレビなどのマスコミも、「日本人を馬鹿にする計画」の支配下におかれています。有益なテレビ番組もあることはありますが、ほとんどの番組は有害です。あんなものを見ていれば日本人はますます馬鹿になっていき、独創性を失い、自分で考えることをしなくなります。そして、自分の考えと合わないものに出会ったら、自分自身を反省するのではなく、相手に投影して相手のせいにします。その方が自分が傷つかなくてすむからです。

 しかし、人は傷つくことなくして成長することはできません。真の求道者は、失敗や傷つくことを怖れず、むしろ自らそれを糧にして成長していくものです。
 自慢ではありませんが、私がこのブログで自分の恥ずかしい状態を正直に書いているのも、いかなる批判をも受け入れるのも、そのためです。
 しかしほとんどの人、自称聖人や覚者も含めて、自分の都合の悪いことは隠そうとします。そしてその表の顔だけを見て、すぐに「聖人」や「覚者」に頼って狂信的になったり、甘い言葉でお金を巻き上げようとする本や情報商材やセミナーや、その他悪徳商法や詐欺に簡単にだまされてしまうのです。
 表面的なことにだまされてはいけません。この地上世界には常に表と裏があります。表だけでなく、裏を見ることから目を背けてはいけないのです。

 私の「恥ずかしい面」を見てがっかりし、このブログから去っていった人も少なくないと思います(実際、それが原因かどうかはわかりませんが「拍手」の数が少なくなっています)。でも、私は気にしません。そういう人は「表」だけしか見ることができないからです。「表」だけを見ることしかできない人は、イエスに対して「自分も救えないのに人を救うなんて馬鹿なことを!」と暴言を吐いた人と共通しています(もちろん苦しみの原因についてはイエスと私の場合はまったく事情は異なりますが)。

 また、自分より優れている、強いと思った人には称賛し媚びを売ったりしますが、自分より劣っている、弱いと思った人には威張ったり馬鹿にしたり、なめたりする人がいます。残念ながら、世の中にはそういう人が少なくありません。私はそういう経験を嫌というほど味わってきました。しかし、そのような人間は、私から言わせれば、「スピリチュアル」どころか、そもそも人間として最低であると思っています。そんな人はこのブログを読んで欲しくありませんし、また読まないでしょう。

 私がウツであることを隠し、いかにも立派な言葉だけをブログで書いているだけであれば、読者も増え、私に批判的なコメントを書く人も少なくなるでしょう。聖人や覚者として称賛され、名声もお金もたくさん集まってくるでしょう。
 しかし、イエスはなぜあのような屈辱と苦痛に満ちた姿を世の中にさらしたのでしょうか? 彼ほどの聖者であれば、そのようなことは避けられたはずです。しかしあえてイエスはその道を選んだのです。いったいそれはなぜでしょうか?
 それは、彼が表も裏もすべてさらけだした真の聖人であり、つまりはそれだけ「正直」だったわけであり、自らの生き様を通して救われる道を示した真の教師だったからです。

 イエスは十字架にかけられたとき、「ああ、神よ、なぜ私を見捨てたのですか?」と嘆いています。これだけを見ると、多くのキリスト信者はがっかりすると思います。しかしイエスは最後にこう言っています。
「すべてを神の御心にゆだねます」
 ここがもっとも重要なところなのです。「すべてを神の御心にゆだねる」ということが、救いの最終地点だからです。
 表現は悪いですが、「ああ、神よ、なぜ私を見捨てたのですか?」と言ったのは、ある種の「芝居」だったのです。本意でそう言ったのではありません。人間である以上、この地上に生きている限り、そのように思うことはいくらだってあるし、そう思って当然だということを示すために、そのように言ったのです。ここには地上世界に生きて苦悩する私たちに対するイエスの愛が込められています。そう思ってもいいんだよという、イエスの「ゆるし」があります。
 そして、そう悩んだ末の最終的な救いの回答が「神にすべてをゆだねます」ということだったのです。
 イエスは、「このようにして救いは得られるんですよ」ということを、口先だけでなく、身をもって(手本として)それを示したのです。
 それゆえに、イエスほど偉大な聖人・覚者はいないのです。もちろん、聖人・覚者に優劣をつけるつもりはありません。また念のためにいいますが、私はキリスト教徒ではありません(どの宗教の信者でもありません)。
 しかし、自らをあそこまで犠牲にし、身をもって人々に手本を示したという点で、イエスほど深く大きな愛を持った偉大な聖人はどこにもいないのです。 
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コメント

このブログの単なる一読者としての率直な感想ですが、筆者の斎藤先生が「聖人をばかにしたり、悪く言ったりしている」といった感じを抱いたことは、今のところ全くありません。このブログのどの記事を読んでも、そのような感じを受けたことはないですね。むしろ、同じ人間としての深い共感や思いやりを感じましたが…
また、うつ病やうつ状態になること、またそれらを自らの意思によって公表することのどこが恥ずかしいのでしょうか?最近は、有名人や社会的に影響力のある人でも、そういうことを公表する人は珍しくもありません。うつ病で苦しんだり、そのせいで一時的に社会活動ができなくなる人なんて、山のようにいると思います。そういう状態を経験することと、人格的に立派かどうかということは、全く関係のないことではないでしょうか?
2015-11-19 Thu 21:53 | URL | りっくん [ 編集 ]
斉藤啓一です。りっくんさん、コメントありがとうございます。私もまったく同感です。私自身はもちろん自分がウツになったことを恥ずかしいとは思っていませんが、世間的な視点でみれば、たぶん「恥ずかしいことだ」と思うだろうなあと思ったので、そのように表現したまでです。
2015-11-19 Thu 22:20 | URL | 斉藤啓一 [ 編集 ]
わかりますよ、
探究心の塊のような方ですもんね 笑

なぜか?

本当に、面白いですもんね

本当の疑問とか、
それって大事なことだと
思います

覚者が行ってきたこと
断言的に語ること

そんなもの、
もっと自由でいいと
個人的に思ってます


個人的には、新しい時代
の枠組みの邪魔となってるもの
多々あるとも感じてます


だって、無明の世界で
見つけた光明は、確かに
安らぎ深いかもしれない

でも、この世界に
生を受け

楽しみが個々違い

それって
本当に奥深い


楽しいこと、
明るい考えかた

人が明るくなること
シンプルにそんなものが
大切な気がします

こころのこと、
安らぐこと


それは、信心深くなければとか
めんどくさいなぁと

私が、いま、地球の
この場所にいる

それって楽しい♪

斉藤さんの探究心が
遊び心と
斉藤さんだけの楽しみのなかで
明るく輝きますように♪
2015-11-20 Fri 12:25 | URL | 山 [ 編集 ]
日本社会では未だに、うつ病で休職=お金を稼げない=企業・会社等にとって役に立たない=恥ずかしい、みたいな感覚があるんでしょうね。ただ、斎藤先生のように、文筆活動やカウンセリング系などの仕事だと、ちょっと違ってくるかと思います。例えば、うつ病の人がカウンセリングに行ったとして、カウンセラーがいかにも患者を「かわいそうな人」と見下し、自分は「かわいそうな人を助けてあげている」と上から目線だったりすると、患者は「二度とこんなカウンセラーにはかかりたくない」と思うでしょう。しかしカウンセラーらがうつ病などで苦しんだ経験を持ち、それによって本当の意味でうつ病で苦しむ人に共感する能力が養われているとしたら、患者の回復にとって大きな助けとなるようなカウンセリングができるのではないでしょうか。
2015-11-22 Sun 20:44 | URL | りっくん [ 編集 ]
斉藤啓一です。りっくんさん、そのように前向きに解釈していただき、感謝いたします。おっしゃるとおりだと思います。どうもありがとうございます。
2015-11-22 Sun 21:19 | URL | 斉藤啓一 [ 編集 ]
今、お初でこちらのサイトにおじゃましました。

私が自主的に学んでいるサイトがあります。
その方も最近読者の一部に叩かれました。
珍しく人間的な部分が確かにちらと見えてしまったのですが、普段から初歩的な事を何度も教えてくれる優しい先生です。
忘れたころにも肝心なところをおさえてきます。

ので。。
私、言ってしまいました。

教わる方が批判する暇あったら自分の事しっかりやれ~~って。

また後でゆっくり拝見します。
どうぞお元気で。
2015-11-22 Sun 22:08 | URL | うひょ [ 編集 ]
斎藤さま

いろんな考え方や捉え方があるものですね。
記事を読んでいて、たくさんの『何故?』は感じることがありましたが、『怒りと嫉妬』は、想像すらもできませんでした。

もちろん斉藤さまと同じく、そう感じることが悪いとは私も思いません。
人それぞれ、生きる場所も違えば、考え方も違ったり、必要とするものも違う。

それぞれが違うからこそそこに存在する理由があるのだと思います。


『正直も過ぎれば災いのもとになることを……』

力不足のせいか、この言葉を理解するには至りません。
自分では隠していると思っていても、ほとんどのものが伝わっています。
伝わっていないと考えているのは、自分だけです。
正直であるということは、自分を認めていること。
私は、それは人として大切なことだと理解しています。

正直なある人を見た時に、好感を持つのか、嫌悪するのか、それはその人の価値観なのでしょうか。

素直で正直な幼子を見れば、誰でも好感を抱きます。
逆に正直でない子供を見れば、大抵の人は良い感情を持ちません。

正直な大人を見た時に、嫌悪の感情が湧くのは、正直でない大人の方が正常だと理解していることが原因でしょうか。


今回の記事の中で、斉藤さまとわずかですが、ひとつだけ異なる意見がありました。
「ああ、神よ、なぜ私を見捨てたのですか?」という言葉の真意は、【神の真意は、私さえ理解し得ない】ということだと感じています。

神の考えは、私などにはとても理解が及ばないけれど、それでも神のすべてを認めて受け入れます……大きな愛の体現だと思います。
理解できないものを受け入れることは、大変困難です。


私は無宗教ですが、宗教を否定する気はありません。
ただ、妄信してしまうと目が曇ってしまう事実があるため、自分の存在を否定したり、道具にしたりするような宗教に対しては、否定的な立場を取ることがあります。


最後に、
斉藤さまには、争って欲しくありません。
これは、個人的な望みですが。

2015-11-24 Tue 11:19 | URL | 黒いネコ [ 編集 ]
斉藤啓一です。黒いネコさま、コメントありがとうございました。人は大なり小なり自分の色眼鏡で人や世界を見ています。それは仕方がないことだと思います。大切なことは、「自分は色眼鏡で見ているかもしれない」と常に自覚する謙虚さだと思います。ただ、おっしゃるように、私は無意味な争いや論争をするつもりはありません。そのようなことは貴重な人生の時間の無駄遣いですから。ただ、皆様の参考になるようなコメントがあれば、それについて論じようとは思っています。ただし冷静に。
2015-11-24 Tue 18:11 | URL | 斉藤啓一 [ 編集 ]
それでは、
淡々と読んで
受け入れて、そこで

おしまい、

でおよろしいのでは?


さようなら










2015-11-25 Wed 11:17 | URL | うひょ [ 編集 ]
はじめまして。こんにちは!

高校生の時に、「ファウスト博士の超人覚醒法」
を読んでとても感動し、

その他の本も読ませて頂きました。

どの本も私の琴線に触れる本で
特に「ファウスト博士の超人覚醒法」
は何度も数えきれないくらい
読ませて頂きました。

辛い時や、どうにもならない落ち込んだ気分の時、
何度も何度も読みました。

とても気分が落ち着き
勇気をもらいました。

もちろん今もです。

そんな中、最近ですが
こちらのブログと
HPに出会い、

書庫ともども読ませて頂きました。

斎藤さまが色々な事情で
苦しんでおられること、
辛い日々を送られていること。

ずっと気になっておりました。

なかなか言葉が見つからず
コメントを控えていたのですが
今回、コメントせずにはいられませんでした。

いろいろな人が居ると思いますが
少なくとも私は
斎藤さまの本に感動し勇気をもらい
生きる力をもらいました。

そんな読者が斎藤さまには
たくさん居ると思います。

アマゾンの「真実への旅」のレビュー
凄いではないですか。

斎藤さまの伝えた言葉は
いろいろなところで生きています。

素晴らしいことです。

私も、実は今、
精神的にあまり良い状態ではありません。

でもいつか光がさすことを願い
お互いなんとか生き抜きましょう!

2015-11-25 Wed 16:28 | URL | みうにゃ [ 編集 ]
斉藤啓一です。みうにゃ様、コメントありがとうございました。私の方こそ、勇気と生きる力をいただきました。心から感謝です。みうにゃさんも精神的にあまりよい状態ではないとのこと、お互いに乗り越えていきましょう。早く安らかな気持ちを取り戻されるよう、祈っております。
2015-11-25 Wed 21:01 | URL | 斉藤啓一 [ 編集 ]
イエス様が十字架上で「わが神、わが神、どうして私をお見捨てになったのですか。」
というのは、旧約の詩篇22編のダビデの言葉です。

福音書には、これは旧約の預言が成就するためである、というところが多いですから、
イエス様の十字架上の言葉もこのときに最善の言葉だったのだと思います。
2015-11-26 Thu 02:44 | URL | 両さん [ 編集 ]
斉藤先生 こんばんは。
久しぶりにブログを読ませて頂いています。

神様は自分の事よりも他人の事を祈ると叶えてくれると聞き、先生のうつが治るように毎日祈っていた事がありましたが、なかなか神様には届かず 忙しさに紛れ手を合わせる事も減ってきていました。久しぶりにここに来て また手を合わせようと思いました。 
斉藤先生は長い間苦しまれ、人間が正しく生きて行くうえで必要の無い物を削ぎ落としている様な気がします。研ぎ澄まされると言うのか…。文章が下手で分かりにくいかも知れませんが、ここへ来るといつも 私も頑張ろうと励まされます。目の前にある色々な悩みがどうでもいい事に感じます。
2015-12-01 Tue 21:58 | URL | 平 [ 編集 ]
斉藤啓一です。平さん、コメントありがとうございました。私の方こそ励まされました。私のために祈ってくださり、とても嬉しく、心より感謝申し上げます。平さんにすばらしい幸運が訪れますように!
2015-12-02 Wed 19:17 | URL | 斉藤啓一 [ 編集 ]

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