心の治癒と魂の覚醒

        

後悔のない生き方をするために

 人生というものは、さまざまな苦しみがあり、また誘惑がある。苦しみに負けることもあり、誘惑に負けることもある。「負ける」という意味は、言い換えれば「後悔する」ということだ。後悔とは要するに「あれをしなければよかった(すればよかった)」ということである。
 だれも後悔する人生を送りたいとは思わないであろう。したがって、人生で一番大切なことは、「後悔しない人生を送る」ことであると言ってもいいと思う。
 ただ、まったく後悔しない人生を送ることは現実として不可能であるから、「なるべく後悔しない」と表現した方がいいかもしれない。
 では、どうしたら、なるべく後悔しない人生を送ることができるだろうか?
 それには、「何が後悔すること」か、あるいは「何が後悔しないこと」かを、まえもって明らかにしておくことだ。そして、それを肝に銘じて生きることである。そうすれば、いざとなったとき、迷うこともブレることもなく、後悔しない選択(行動)をして、後悔しない人生を送れる可能性が高くなるはずだ。
 では、いったい何が後悔すること(あるいは、しないこと)であろうか?
 それは、人によってさまざまであろう。
 また、あるときは後悔することと思っても、後になって後悔しないことだと思うこともあれば、逆に、後悔しないと思っても、後になって後悔することだと思うこともある。
 したがって、何が後悔すること(あるいは、しないこと)かを決めるときには、慎重にならなければならない。また、必要に応じて修正していくことも大切になってくる。
 ここでは、あなたがそれを決めるときの参考にしていただくための、ひとつの問いを投げかけてみたい。それはとても根本的なことなので、この点をよくおさえておけば、おそらく人生で、そう大きな後悔というものはなくなるのではないかと思っている。
 その問いとはこうだ。
 「ここに二つの生き方がある。ひとつは、傲慢で利己的でずる賢く、自分の幸せのためなら人や世の中などどうでもよい、場合によっては害を及ぼすようなことも平気でする。要するに、恵まれているが低劣な人間として生きる人生だ。もうひとつは、世のため人のためになり、たとえそれが認められず、そればかりか、そのために苦労や困難を味わうこともあるような人生。要するに、恵まれないが高潔な人間として生きる人生である。そのどちらかを選ばなければならないとしたら、あなたはどちらを選ぶ方が後悔しないか?」
 もちろん、これは究極の選択であって、現実にはこれほど極端な選択を迫られることはないだろうし、これほど極端な生き方をする人も少ないだろう。ほとんどの人は、多少は世のため人のためになるが、多少は害をもたらすこともし、低劣でも高潔でもない人間として生きることになるだろう。
 けれども、人生において尋常ではない事態(たとえば災害や運命的打撃、抗しがたい誘惑といったこと)に遭遇したとき、まえもってこの「究極の選択」を決めていた人は、後悔のない生き方ができるに違いない。もちろん、軽い気持ちで決めていたのではなく、心の底から、しっかりと、強く、覚悟をもって決断していた場合だ。さもなければ、いざというときに迷ってしまい、結局、どっちつかずの選択(行動)をして後悔することになる。
 この決断さえしっかりとできたなら、おそらく、後悔するようなことはない。
 では、いったいどちらの選択が後悔しないだろうか?
 それは、誰にも決められない。決めるのは自分だけだ。ただ、決めた以上は、それを貫くことだ。もし前者の人生を選択したのなら、人を踏み倒しても自分の利益や幸せを追い求めることだ。もし後者の人生を選択したのなら、自分の利益や幸せをあとにしても、人や世の中のために生きることだ。
 というより、断固として覚悟をもって決断したのであれば、自然とそうするだろう。そのとき迷うのは、しっかりと決断していなかった証拠である。
 とはいえ、そこまでしっかりと決断することは、なかなか難しい。やはりどうしても、いざというときは迷いが出てしまう。
 けれども、むかしの侍はその決断ができていた。侍(武士)は、誇りを重んじて、恥じる生き方をしなければならないときには、切腹をして死ぬ覚悟を持っていた。そのために、戦のためと自害のための二本の刀を腰にさしていた。
 私は、このような侍、いわゆる「武士道」の生き方を全面的に肯定するつもりはないにしても、学ぶべきことは多いと思っている。死を覚悟してまで決意したのであれば、それはいかなる事態に遭遇しても揺るぎないものとなるだろう。
 あえて私個人のことを言えば、正直、ここまで強い決意を持てる自信はないが、どちらの生き方が後悔しないかについては、その解答は明らかだと思っている。
 それは後者だ。なぜなら、どんなに人格を低劣にしてまで自分の利益や幸せを追求したとしても、それは得られないからだ。一時的には得られても、最終的には幸せは得られない。どこまでもどこまでも飽くなき追求はやまず、渇きが癒されることはない。それは地上の物質的な「幸せ」というものは、本質的に依存性のある快楽だからである。すなわち、基本的には麻薬やアルコールと同じレベルなのだ。
 一方、後者のように、いくら世のため人のために生きたとしても、幸せになれるとは限らない。むしろ、確率的に言えば、苦労や困難が多くなるであろう。
 つまり、どちらを選択したとしても、この地上世界では幸せは得られないのである。
 ならば、どうせ幸せを得られないのなら、高潔に生きた方が少しはマシではないだろうか?
 たとえ、高潔に生きたとしても、誰からも称賛されず、何の得もなかったとしても、高潔な人格で生きるならば、少なくとも低劣な人格で生きるよりも、自分を愛せるようになるだろうし、そんな自分に誇りを持てるようになるに違いない(これはナルシシズムや傲慢さではない。ナルシシズムは利己的であり、傲慢さは他者に対してひけらかすことによって成り立つが、真の自己愛は利己的ではなく、真の誇りは他者からの称賛を必要としないからである)。
 もしこの地上に幸せというものが存在するとしたら、高潔な人格を貫いて生きることによって得られる自分自身に対する愛と誇り、これではないだろうか。
 そして、そんな愛と誇りを得られる人生であったならば、その人生はおそらく、後悔することはないであろう。


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コメント

斎藤先生、お久しぶりです。
私は、「恵まれないが高潔な人生」を送る覚悟が決まっているとまでは言いきれませんが、自分の人生を思うと、結果としてそちらの方向へ向かうような選択を続けて行くような気がします。私も、この地上世界では真の幸せは得られないという御意見に同感です。別に世をはかなんでいるわけではなく、この世とはそういうものなんだろうと最近つくづく思うのです。この世の様々な理不尽さや悲惨な事件・事故・戦争・天災などの頻度を思うと、とてもこの世が、「心正しく努力すれば真の幸せを得られる」ところだとは思えないのです。この世の幸せを超えたところまでいかないと、真の幸福感ややすらぎは得られないのだろうと思います。そう思ってすっぱり覚悟を決められるほど、潔くないのが、これまた人間のやっかいなところですが、少しずつでもそちらの方向へ向かって諦めず歩み続ける覚悟ぐらいなら私にもできそうな気がします。
2016-05-07 Sat 23:01 | URL | りっくん [ 編集 ]
斉藤啓一です。りっくんさん、コメントありがとうございました。まさに同感ですね。おっしゃるように、これは世をはかなんでいるのでもなく、悲観主義でもなく、ありのままに地上を見つめれば、完全な幸せというものは得られない、それどころか、しばしば悲惨なことも起こるということ、これは動かし難い事実であると思うのです。それを心静かに受け止め、少しでも高潔な生き方をしていくように歩んでいきましょう。
2016-05-08 Sun 21:29 | URL | [ 編集 ]
私の感覚で少しコメントさせて頂きます。

人間の一切の苦悩は渇望、執着から来る一連の脳の機能です。
真の幸せとは何事にも無執着。
それはワクワク、喜び、希望、幸せ、大切だと思う事も含まれると感じています。
すべてから自由な囚われのない心でしか幸せには至らず、
その他一切は制限的で条件付けされたものであり、
二元の壁を破るには至らないのではないでしょうか。
全てを心から明らめ、
現状を存分に味わい尽くし、受け入れた静かな心。
と感じます。
2016-05-09 Mon 00:49 | URL | 菩薩 [ 編集 ]
斉藤啓一です。菩薩さん、示唆に富んだコメントありがとうございました。おっしゃる通りだと思います。このブログのめざしているところでもあります。あとはこの境地にいかに近づいていくか、その実践にあるかと思います。今後ともよろしくお願い申し上げます。
2016-05-09 Mon 20:35 | URL | [ 編集 ]

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