心の治癒と魂の覚醒

        

師匠や教団に入信することについて①

 今日、多くの人が「覚者」や「霊的教師」と名乗り、教団を組織して大々的な活動をしていたり、あるいは比較的こじんまりとした形で弟子や信者を指導したり講演をしたりしている。この文章を読んでいるあなたも、そうした指導者や教団に属して指導を受けているかもしれないし、あるいは、気になる指導者や教団があって入信しようかどうか迷っているかもしれない。実際、「この人に師事しようかどうか、この教団に入ろうかどうか、迷っているのですが、斉藤さんはどう思われますか?」と尋ねられることもある。
 今回は、この「師匠や教団に入信すること」について、私の見解を述べてみたいと思う。

 ここで問題となるのは、果たしてその指導者が本物かどうか、その教団が真の教えを説いているかどうか、ということであろう。言うまでもないが、なかには明らかに怪しいと思われるものもあり、悪質で身の破滅につながりかねない教団もあるだろう。その最たるものがオウム真理教であったわけだが、あそこまで凶悪でなくても、大金をまきあげられたとか、心にトラウマを負ったといった被害などは、しばしば耳にする。
 奇妙なことだが、このようにだれが見てもおかしく、詐欺であることが明白であるのに、そういう指導者や教団にだまされる人が世の中には必ずいるということだ。これはおそらく、ある一定の割合で、異常なものに惹きつけられる病的な精神傾向を持った人がいることによるものと思われる。
 それはともかく、たいていの場合は、本物であるかそうでないか、とても微妙だ。そのために迷ってしまう。
 たとえば、教祖の書いた本にはいいことが書いてある。「人を愛しなさい。善い行いをしなさい」といったように。そして、「私は覚者である、キリストの生まれ変わりである、救世主である・・・」といったことを言う。
 立派なことを語るくらいだから、教祖は本当に覚者であり、キリストの生まれ変わりであり、救世主かもしれないと思われてくる。最初は多少、半信半疑かもしれないが、一度入信して繰り返し教えを耳にするうち、いよいよこれは本物に間違いないと思われてくる。
 私も若い頃は、いろいろな宗教を遍歴した。仏教、キリスト教、ユダヤ教、ジャイナ教、ヨーガ、神道、神智学、心霊学、いくつかの新興宗教団体に属したこともあった。
 そして面白いことに、ある教えを集中的に学んでいるときは、その教えこそ本物に違いないと思われたということだ。仏教を学んでいるときは仏教こそ最高の教えだと思われたし、キリスト教を学んでいるときはキリスト教こそ最高の教えだと思われた。新興宗教に関しても、やはりそこに属していたときは、「この教祖、この教団こそ本物で最高だ」と思われた。
 しかし、このようにいろいろな教えをかじって時間が経過すると(言い換えれば、頭が冷めると)、かつては「これこそ本物で最高の教えだ」と思っていたものが、実はそうではなく、欠点や弱点や汚点や問題点もあるということに気づくようになった。
 今の私は、世の中に完全無欠の教えなど存在しないと考えており、完全な指導者もいないと考えている。仮に本当にその人が覚者であり、あるいはキリストの生まれ変わりであり、あるいは救世主であるとしても、この不完全な地上世界に存在している以上、完全ではないと思っている。
 ところが、ある特定の教えにすっかり埋没している教団関係者は、かつての私のように「この教えこそ本物で最高だ」と思い込んでいる。これは単なる視野狭窄、あるいは洗脳に過ぎないと思われるのだが、とにかく教団の幹部や信者たちはそう思い込んでいるので、当然のことながら、「自分たちの教え、自分たちの教祖こそ唯一本物であり最高だ」と主張し宣伝し布教するようになる。
 そして、彼らの話を聞いていると、しだいにその通りではないかと思われてしまう。
 なぜそう思ってしまうかというと、一言でいえば、どの教団も自分に都合のよい部分しか見ていないからだ。
 たとえば、わかりやすく説明するために、非常におおざっぱな分け方をすると、キリスト教は愛の宗教であり、(原始)仏教は知恵の宗教とされている。
 キリスト教では、救われるためには愛を最高のものと考える。そしてイエスや聖書の教えを見ると、盛んに愛が説かれている。それに対して仏教は、あまり愛(仏教で愛に相当する言葉は「慈悲」)ということを語っていない。つまり、キリスト教の信者からすれば、救いに必要な愛をあまり説いていないがゆえに、仏教はキリスト教よりも劣った宗教ということになる。
 反対に、仏教徒は知恵こそ救われるために必要なものと考え、釈迦や(原始)仏典などを見ると、その大切な知恵についてたくさん説かれている。ところが、キリスト教では、知恵の重要性についてあまり説かれていない。そのため、仏教徒からすれば、救いに必要な知恵をあまり説いていないがゆえに、キリスト教は仏教よりも劣った宗教ということになる。
 では、いったいどちらの宗教が正しいのだろうか?
 私個人の見解では、どちらも一面では正しいが、一面だけでは真の救いを得ることはできないと考える。
 つまり、救われるには、愛と知恵の両方が必要なのだ。キリスト教を学ぶことも必要であり、仏教を学ぶことも必要なのである。その他にも、できる限り多くの宗教を学ぶことが必要であると思う。そうしていくうちに、真理というものの全体像が何となくわかってくるからだ。あたかも、ジグソーパズルをひとつずつはめ込んでいくうちに、しだいに全体の絵がわかってくるのに似ている。

 したがって、「これは」と思う教祖や教団を見つけたら、どんどん飛び込んでみたらどうかというのが、私の基本的な考えだ。もちろん、そのまま洗脳されてずっとその教団から抜け出せないというリスク、大金を巻き上げられたり、心のトラウマを受けるといったリスクもある。そのようなリスクがあることは、一応覚悟しておいた方がよい。
 ただ、人生の教訓というものは、実際に体験してみないと得られないものである。人生というのは冒険のようなものだ。冒険とは未知の領域へ挑むことである。未知の領域には当然、危険が待ち受けている可能性がある。しかし危険を怖れていたら、何も得られない。だから、飛び込んでみることだ。そして教訓を学んでいくことだ
 もちろん、あきらかにいかがわしい教団、インチキ教祖だとわかっていて飛び込むことはない。しかし、何回も熟慮した末に「この教祖、この教団は本物かもしれない」と気になって仕方がないのであれば、後はもう飛び込んでみるしかないのだ。
 たとえその結果、そこがインチキだとわかったとしても、それはそれで何かを学ぶことができるだろう。もっとも、そのための「授業料」は高くついてしまうかもしれないが、それは仕方がない。すでに述べたように、人生は冒険なのだから。
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コメント

斉藤啓一です。滝澤さん、お久しぶりです。お元気でしたか?
ソルフェジオ周波数については、私も一時期研究したことがあります。自分で各周波数を作り出し、CDに焼いたものを持っています。
効果については、正直、よくわかりません。少なくとも私の場合は、あきらかな効果というものはありませんでした。もっとも、そう長く実践したわけではないので結論は出せません。
数秘術の教理が、こうした音響物理的な領域に通用するのかどうかも、私にはわかりません。
ただ、この周波数かどうかは別として、音の振動数が意識に与える影響はあると思っています。
いずれにしろ、ソルフェジオ周波数に関しては、まだ結論を出す段階ではないと思います。さらに研究を重ねていくべきだと思いますし、それに値する興味深いテーマであると思っています。
2016-07-16 Sat 20:52 | URL | [ 編集 ]
斎藤先生、こんばんは。
宗教に関してですが、私もこの世に完全無欠の宗教はないという考え方に賛成です(神は完全無欠なのでしょうが)。この世の宗教同士が、お互いに「自分の方が正しい、上だ」と言い合うのではなく、共通点を見出して協力し合い、この世で苦しんでいる多くの人々の助けになるような活動をすればいいのではないかと思っています。ただ、ある宗教を信仰している人の中には、その宗教=自分のアイデンティティとなっている人が多くいて、他の宗教を認めることが自分のアイデンティティの崩壊につながる場合もあるのだと思います。だから、「自分の宗教こそ唯一無二の本物だ」という考え方が蔓延するのでしょう。
2016-07-18 Mon 20:42 | URL | りっくん [ 編集 ]
斉藤啓一です。りっくんさん、コメントありがとうございました。まさにおっしゃる通り。宗教どうし喧嘩をしている場合ではなく、お互いの長所を活かし合い、短所は補い合いながら、みんなで力を合わせて苦しむ人、世界人類を救っていくべきです。
しかし、それをさまたげているのが、おっしゃるように宗教を自己のアイデンティティにしている人々なのですね。アイデンティティと言えば聞こえがいいですが、言い換えればエゴですね。これは強力です。なかなか手強い。でも、それを乗り越えていかなければならないと思います。
2016-07-18 Mon 21:35 | URL | [ 編集 ]
斎藤先生

こんばんは。キリスト教と仏教がお互いをどう理解し尊重するべきかという点について、私が今までに読んだ中ではティク・ナット・ハーンの「生けるブッダ、生けるキリスト」という本に大変説得力のあることが書いてありました。宗教同士で優劣を競うのではなく、ふたつの宗教において慈悲・慈愛といったものがどう表現されているかが淡々と語られていました。これは私が思ったことですが、自分が信仰する宗教以外を頭ごなしに批判する人と言うのは、結局、他人に対する慈悲・慈愛の心が十分に理解できていない人ではないかと思います。人間が、苦しみの中でどういう気持ちで必死に(どんな宗教であれ)宗教に救いを求めるのか、そのわらをもつかむような気持ちが本当には理解できていないのではないでしょうか。
ある宗教を信仰していて、この世的にそこそこ恵まれた人生を送れていたら、「やはり私の宗教は正しいんだ。みんながこの宗教を信仰すれば幸せになれる」と思いこんでしまう事はたやすいと思います。逆に、この世の地獄を経験したり、うつ病に苦しんだりした人は、その経験自体は苦しくてイヤかもしれませんが、他人に対する深い共感力や思いやりが育つような気がします。なぜ、そういう経験をすると人に優しくなれるのかは、私にはうまく説明できないのですが…^^;
2016-08-06 Sat 00:11 | URL | りっくん [ 編集 ]
斉藤啓一です。りっくんさん、コメントありがとうございました。おっしゃっている問題は、とても奥が深いことにつながってくるかと思います。このテーマだけでもひとつの論文ができそうですが、私なりに思うところを簡単に言えば、愛(慈悲)があれば、よほどの邪教ではない限り、他の宗教に関しても寛容になると思います。たとえば、キリストとブッダが会ったとしたら、お互いに相手を否定し合い喧嘩を始めたりするでしょうか? とてもそんなことは思えません。お互いの長所を認め合い、二人で力を合わせて、地上の苦しむ人を救おうとするに違いありません。
宗教(教え)など、所詮は手段だと思います。極論かもしれませんが、手段などどうだっていいのです。しかし世の宗教家たちは、目的と手段を混同しています。人間より教えの方が大切になっていたりします。これではナンセンスだと思います。
2016-08-06 Sat 19:47 | URL | [ 編集 ]
世界人類が平和でありますように

人心は荒廃し、愛が冷えて氷となる。人が人を信じられない人間不信は蔓延し、愛情飢餓の砂漠が広がる。
個人と個人は分断され、孤独の病に罹患する人が増え、うつ病を始めとする精神疾患が増大する。
人々はつまらない仕事に振り回され、金銭の奴隷となり、「忙しい、忙しい」と自分を見失う。
職場ではパワハラが、学校ではいじめがはびこり、人は人に対して冷酷になる。
異常気象、地震、台風など天変地異が襲い、地球温暖化は進み、自然環境は破壊される。
テロが蔓延し、異常な殺人事件は各地で頻発し、地域紛争、世界大戦が勃発する。
人々は金の亡者となり、悪魔に良心を売り渡す。地球人類は壊滅寸前のところまで行く。
人々が、明日への希望を抱きえず、不安と恐怖に脅え、絶望するとき、救世主は現われる。

神様ありがとうございます
2016-08-08 Mon 17:45 | URL | 滝澤通孝 [ 編集 ]
斉藤啓一です。滝澤さん、コメントありがとうございました。現状の世界については、まさにおっしゃるとおりだと思います。
しかし、救世主、もう少し早く来てくれませんかね。のろまな救世主はいりません。
2016-08-08 Mon 18:15 | URL | [ 編集 ]
幸福と平和への道

基本の祈り

消えてよくなる
私が幸せでありますように
みんなが幸せでありますように
神様ありがとうございます
聖者様ありがとうございます
2016-08-09 Tue 13:58 | URL | 滝澤通孝 [ 編集 ]
みんなが幸せでありますように

斉藤先生、こんにちは。お具合はいかがですか?先生が持病のことに触れなくなったので軽快に向かっていると思っています。斉藤啓一様がご健康でお幸せでありますように

神様ありがとうございます
2016-08-09 Tue 15:07 | URL | 滝澤通孝 [ 編集 ]
斉藤啓一です。滝澤さん、ご配慮いただきありがとうございます。私の調子については、また近いうちにブログでお話したいと思います。よろしくお願いいたします。
2016-08-09 Tue 21:09 | URL | [ 編集 ]

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