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心の治癒と魂の覚醒

        

霊的な事柄で家族の理解が得られない

 読者の方から、こんなメールをいただきました。
「両親をはじめ、私の周りの人は全く霊的な話に関心がないどころか、忌み嫌っています。今までは、そういう話題を持ち出さない限り問題はなかったのですが、最近、覚醒の勉強を進めるなかで、私の価値観が大きく変わってきて、前には重要に思えたことが、今では重要に思えなくなってきています。そのため、ますます付き合い辛くなってきました」

 霊的なことに関心がない人にとって、「宗教」や「スピリチュアル」という言葉を耳にしただけで、すぐに「いかがわしい」と決めつけ、拒絶反応を示す人がいます。
 私の場合も、20歳くらいのとき、宗教や霊的なことに関心を持ち始め、そうした団体やセミナーなどにあれこれ頭をつっこむようになったとき、両親は頭から「なにやってんだ!」といって私を責めました。両親はむかし、ある大きな仏教団体から、「折伏(強引に入信を迫ること)を受け、「入信しないと不幸になるぞ」などとさんざん脅かされ、高価な仏壇を無理に買わされたという不愉快な経験があります。私もそのような狂信的な信者になってしまうと心配だったのでしょう。無理もないと思います。
 しかし、私は頑固でしたから、親からいくら責められようと、自分の納得がいくようにやりました。しかし正直なところ、もっとも自分のことを理解してくれるはずの家族が、他人のように、むしろ他人よりも、自分の気持ちを理解してくれず、外から家に帰ってきても冷たい態度で扱われ、とても寂しい思いがしました。家にいても家にいるような気持ちがしませんでした。

 しかし、これは仕方がないことなのだと思います。覚醒を歩む人は、これは覚悟しなければならないと思います。
 おそらく、現世で宗教や霊的なこと、とくに覚醒などに関心を持つような人は、過去生において、それに類することをしてきたのだと思います。しかし、そうしたことに無縁だった人は、理解できないのです。ベートーベンの音楽は偉大であるとはいえ、すべての人が彼の音楽を理解し感動するわけではないのと同じです。
 物質的な事柄であれば、わかりやすいので共通した認識が得られるでしょう。たとえば、死ぬほど暑いときにエアコンがあれば、百人のうち百人までが「エアコンはすばらしい」と思うでしょう。しかし、宗教やスピリチュアル、芸術などの世界は、そのすばらしさが、わかる人にはわかりますが、わからない人にはわからないのです。それは過去生から養われた直感的な感性を土台にしていますから、わからなくても仕方がないことなのです。

 家族や夫婦、恋人や親友どうしであれば、なにからなにまで共感し合い理解し合いたいと願うのは、当然だと思います。しかし、それは不可能なことです。
 その場合、食べ物の好みだとか、芸術の好みくらいの違いであれば、たいしたことはないかもしれませんが、霊的な事柄は、人のアイデンティティの土台に関わることですので、霊的な相違があれば、親密な関係を築くことは難しいかもしれません。たとえば、自分の教えこそ唯一正しくて他は邪教だと説く日蓮宗の信者が、イエスを信じる者だけが罪が贖われて天国に行き、それ以外の人は天国に行けないと説くキリスト教の信者を、恋人や配偶者にして、仲良く親密に暮らしていけるでしょうか?

 ところで、自分が信じる宗教なり、覚醒修行こそが幸福に到る道だと思ったら、それを家族や恋人や友人に勧め、一緒に歩んでもらいたいと思うのは自然だと思います。自分の信じる道が本当に真実かどうかは別として、少なくても動機としては、相手に幸せになって欲しいという純粋な気持ちがそこにあるからです。
 たとえるなら、自分の愛する人が病気に苦しんでいたとして、自分はその病気を治す薬を持っているようなものです(その薬は本当に治すことができるものとします)。あなたは愛する人に薬を飲むように勧めますが、相手はそれを拒絶しました。あなたはどうするでしょうか? 飲むまで説得を続けるでしょうか? 脅かしたりだましたりして、無理やり飲ませるでしょうか?

 私は、本人の自由意志は尊重しなければならないと思うのです(薬ならこっそりとジュースに混ぜて飲ませてしまうかもしれませんが)。
 覚醒こそが幸せに到る道であると私(私たち)は思っていますが、それは私がそう思っているだけであって、本当にそうなのかは、実証できないことなのです。実証できないことは、どんなことも、人に押しつけるべきではないと思うのです。
 仮に、実証できたとしても、その道に関心がなく、その道を歩もうとしないなら、それには意味があるのだと思うのです。覚醒に到るまでに、他になにか経験しなければならないことがあるのかもしれません。広い意味では、それも「覚醒への道」ではないでしょうか。(今は)覚醒への道を歩まないことで、覚醒への道を歩んでいるというわけです。今は覚醒への道を歩んではいけないのです。もしも今、覚醒への道を歩んだら、逆に覚醒を妨げることになってしまうのかもしれません。

 家族や配偶者の間に、こうした霊的な見解の相違(すなわちアイデンティティの根幹に関わる相違)が生じたということは、この世的な執着を断ち切りなさいという天からのメッセージであると、私は思っています。
 実際、「愛する人」といっても、その多くの部分が、純粋な愛よりも、(しょせんは利己的な)所有欲だとか依存心だとか執着によっているのではないでしょうか。そうした不純物は、心から浄化しなければならないのです。そのことを、少し寂しく思われるかもしれませんが、人間というものは、本来、そのように生きていくべき存在であると思うのです。

 人にはそれぞれの生き方、生きる道があります。たとえ家族や配偶者といえども、それはたまたま、ある時点で縁があって結ばれただけで、縁はいずれ変わっていきます。ですから、たとえ同じ屋根の下に住んでいても、心は他人のように離れて暮らしているということは、よくあることです。それは仕方がないといいますか、それでいいのだと思うのです。
 親子の関係は死ぬまで続きますが、配偶者どうしであれば、離婚ということも起こるかもしれません。そして、今の自分にもっともふさわしい別の人と縁ができて、また結ばれていくわけです。
 少し冷たい表現になってしまうかもしれませんが、人のことなんて、ほうっておきましょう。たとえどんな道を歩んでいようと、宇宙的な視野で見れば、それが今の彼(彼女)にとってはベストな道なのです。おせっかいはやめましょう。それよりも自分の修行に専念しましょう。「世の中には覚醒という道がありますよ」ということを、とりあえず紹介だけしておくことはいいと思いますが、興味を示さなければ、もう沈黙を守りましょう。
 しかし、もし興味を示して尋ねてきたり、あるいはなんらかの助けを求めてきたら、そのときは精一杯、真心をこめて、力になってあげなければいけないと思うのです。
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コメント

ブログより:「自由意志は尊重しなければならない」、「宇宙的な視野で見れば、それが今の彼(彼女)にとってはベストな学びの道」、「もし、なんらかの助けを求めてきたら、精一杯、真心をこめて、力になってあげなければいけない」等々、、全く同感です。お互いにとって辛い状況でも、最善に向かうためのこの世での学ぶ機会ですね。お互いが自ら選んだ道です。執着や依存という偽の愛ではなく、一時孤独を味わおうとも、真の愛の関係(相手のありのままを受け入れる関係)を結ぶことを選ぶということだと思います。ある本に「年上の魂、同年齢の魂、年下の魂」という考え方がありました。この世での年齢とは関係ない魂の年齢です。年下の魂との関係においては、忍耐や慈悲を学んだり、許す気持ちや優しさを持つように、またその人の自由意志を奪ったり、学ぶ機会を奪ったりせずに力づける方法を学んでいける、とありました。全ての変化が贈り物であり感謝すべきであると、恐れず、自然に思えるように心を鍛えたいと思います。(でもまだまだ崩れそうで恐れを払拭できませんが。)ご教示、ありがとうございました。
2010-06-23 Wed 22:49 | URL | WakayamaKajimoto [ 編集 ]
斉藤先生、初めて書き込みさせていただきます。
CHhom、そして去年のセミナーのお話を聞いて、先生の講義にとても感動いたしました。

私もおそらく、治癒できるお薬を持っていても相手が拒むのであれば、あることだけを告げて、後は私がそれを使って求めている人を助けてあげる姿を見てもらうと思います。
そして、彼が私のやっているのを見て、興味が出てきたりしたら声をかけて欲しいと伝えておくと思います。
もしかしたら一生拒まれたままかもしれない。逆に自分の姿を見て、刺激されて使いたいと声をかけてくれるかもしれない。
どちらになっても、私はいいと思っています。

実際今私と私の彼が本文のような事を実際に感じて、それを私が結論として彼に出したばかりだったので、とても共感できました。

長くなりましたが、またこちらのブログにお邪魔させていただきます。
2010-06-24 Thu 00:47 | URL | yu-ko [ 編集 ]
斉藤啓一です。以上お二人の方のメッセージ、ありがとうございました。
魂の年齢というものは、あるような気がいたしますね。そして、それによって、どのような関係を築き、どのようなことをお互いに学び合うのか、決まってくるのかもしれません。

親しい人が薬を拒絶することに関してですが、おっしゃるように、自分自身がある種のお手本となり、それに刺激されて相手の考えも変わっていくと思いますし、それが一番ベストな方法であると思いました。

とてもよい気づきを与えてくださるコメントをいただき、お二人に感謝です。
2010-06-24 Thu 08:12 | URL | 斉藤啓一 [ 編集 ]
斉藤先生のエッセイより:

「どれほど強い風が吹こうとも、揺るぎない光を表明し続ける人は、どのくらいいるのだろう?
結局、そのような人が、ひとり、またひとりと誕生することによって、世界は平和と光明を取り戻していくに違いない。
世界の暗さを嘆くよりも、自分自身がそのような人間になろうと思う。」

共感いたします。

一人一人の中に小宇宙があり、その本質は愛のエネルギーであると信じています。
そして、全てが意識・魂レベルでつながっていて、誰もが大きな存在の一部を担っているのだと思います。
そういう意味で、一人一人が自分の内にある愛と力に気づき、自分を愛することで他者の中にある愛もみることができ、共振し・・・・という連鎖だけが世界を平和と調和に導くと考えています。

しかし、その気づきはあくまでも本人の意志によってなされるべきであり、おっしゃるように手本となるように自己研鑽するなかで、同調する人々、答えを求めて耳を傾ける人々と助け合うことができたら幸せだと思います。

その意味で貢献したいと願う模索の毎日です。

2010-06-24 Thu 22:14 | URL | WakayamaKajimoto [ 編集 ]
斉藤啓一です。コメント、ありがとうございました。
人類を変えていくには、私たちひとりひとりが変わる(覚醒する)ことが必要不可欠であると思います。
おっしゃるように、それはあくまでも本人の意思によってなされるべきであるし、また、そうでなければ本当に変わることはできないと思います。
そうして、お互いの本質を魂(愛)であると認めながら、助け合っていくことが、私たち人間の使命であり、そうした行いそのものが、同時に覚醒への道であると思うのです。
2010-06-25 Fri 09:23 | URL | 斉藤啓一 [ 編集 ]
「お互いの本質を魂(愛)であると認めながら、助け合っていくことが、私たち人間の使命であり、そうした行いそのものが、同時に覚醒への道であると思うのです。」

そのとおりだと思います。
神(魂、宇宙)が望み、喜ぶ、人間の使命ですね。地上に楽園を創造するために。

2010-06-25 Fri 10:57 | URL | WakayamaKajimoto [ 編集 ]

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