心の治癒と魂の覚醒

        

 師匠や教団に入信することについて②

 前回は、本物ではないかと思う指導者や宗教団体があったら、とりあえず飛び込んでみたらどうかということを書いた。たとえ、結果的にニセモノであったとしても、それなりに学ぶものがあるからだ。人は失敗を通して、また、いわゆる”反面教師”を通して学ぶものである。実際、私もそういう経験をしてきた。そのために、それなりの時間やお金を使ってきたが、無駄であったとは思わないようにしている。これも「授業料」であり、「必要経費」であると考えて、気持ち的に引きずらないようにしている。
 けれども、そういう経験を何回か繰り返しているうちに、「いつまでもこんなことをしていてはいけないぞ」とも、思うようになってきた。いくら失敗からでも学べるとはいえ、失敗ばかりでは嫌気がさしてきてしまう。
 覚醒をめざしている私にとっては、言葉巧みに教えを説いている「覚者」(本物かどうかはともかく)の存在は、やはり気になるものだ。「本当にこの人の指導を受ければ覚醒できるかもしれない。このチャンスを逃したら、もう二度と、このような人には出会うことはないかもしれない。そうなると、本当に貴重なチャンスを逃してしまうことになる」といった、ある種のあせりの気持ちが、胸の中から湧いてきて、いてもたってもいられなくなるのである。お金や時間が無限にあるならば、片っ端から試してみたいものであるが、なかなかそのようなことはできない。

 しかし、私はあるとき気がついた。
 自分のこのような姿勢は、詐欺商法にだまされる人と本質的に同じではないのかと。
 つまり、いわゆる「儲け話」みたいなものにつられて、結局は大金をだましとられてしまう人というのは、もともと「金が欲しい」という欲望があるから、だまされてしまうわけだ。
 私もむかし、知人に誘われて、社会問題となった、ある詐欺商法の説明会に参加したことがある。しかし、私は金儲けにはそれほど興味がなかったのと、その商法に投資するほどの金銭がなかったので、だまされずにすんだ。ただ、その説明会の話術は、ものすごく説得力があり、これではだまされても仕方がないなと思わせるものがあった。
 しかし、私は金に対する欲望が強くないので、こういう詐欺商法にだまされる可能性は少ないが、覚醒に対する欲望が強いので、その種の詐欺にはだまされやすくなる。何事もそうだが、欲望というものは、弱点にも成り得るものである。
 そんな詐欺にだまされそうになった経験を少し紹介してみよう。
 私が30歳くらいの頃、「自分は悟りを開いた」という、当時50歳くらいの男性に、ある会合で出会った。話を聞くと、とても深いことを延々と語り始める(その内容はラジニーシの教説に近いものだった)。私も知識ではそれなりに持っていたので、彼の語る深い内容から、もしかしたら本当に悟りを開いた覚者かもしれないと思った。
 彼が言うには、自分は世界を救う覚者として日本に誕生することを、ラジニーシが本のなかで予言していると語っていた。また、ダライラマに会うためにチベットまで行ったのだが(それは事実だったようだ)、ダライラマから特別扱いされたと語っていた。
 彼は組織は持っていなかったが、個人指導はしていたようで、どれくらいかかるのかと尋ねると、百万円だという。私はそれほどの大金は出せなかったので、そのかわり、その男は本を出版したいと言っていたので、その本を出版する手伝いをする(彼の語ることをテープに録音して、それを聞いて私が文章にまとめる)から、指導をしてくれないかと頼むと、それでいいというので、私は定期的に彼の家に通って、その教えを受けることになった。
 しかし、彼の説教は、基本的にはラジニーシや禅の教説と同じであり、本にする価値があるのかと思い始めた。が、とりあえず約束なので、私は彼の話をテープに録音し、家でそれを聞きながら文章に起こした。
 ところがまもなく、かつて自分の弟子だったが自分のもとから去っていった人の批判(というより悪口)を、口汚く延々と一時間以上も口にするようになった。
 そこで、私も「これはおかしいぞ」と思い始めた。その気持ちを述べると、「悟っていない奴に悟っている者の意図なんかわかるものか。グルのやることに絶対に間違いはないんだ。これも指導の一環なのだ。信じられないのか!」と怒り出した。
 とりあえず、そんなものかと思って、関係を続けていったが、気持ちとしては本当に覚者なのか、半信半疑になっていた。本物の覚者かどうか、確かめたくなってきた。
 そこで、覚者なら超能力があるはずなので、それを見せてくださいと頼んだことがあった。すると彼は、「超能力はあったが、そんなものに対する欲望は捨てたので、今はない」という。確かに、ヨーガの教典などを見ても、超能力に対する欲望は捨てるべきだと書いてあるので、その点では彼の言葉は正しいと言えるかもしれない。
 ところが、「この超能力ならできる」などといって、ダウジングをやり始めたのである。超能力への欲望は捨てたと言っておきながら、別の超能力ならできると言うのも、何かおかしいと思った。
 彼によれば、悟った状態とは、何が起こっても心が動揺しない不動の平安さが確立されているという。しかし、そう言っている割には、話にかみ合わない点などがあって、そのことを指摘したりすると、すぐにイライラしたり怒りっぽくなるので、「そんなすぐに怒るというのは、本当に悟っているのですか?」と尋ねると、いつも決まり文句のように「こういう態度も弟子の指導のためにわざとやっているのだ。グルのすることなど、弟子にはわかるはずがない。さぞかし詐欺師のように見えるだろうな」と言うのである。
 しかし、彼のささいとも思える言動が(案外、こういうことが大切なのだが)、どう考えても覚者とは思えなかった。たとえば、ある有名な精神世界の本の翻訳者から、自分は呪いをかけられているなどと被害妄想的なことを口にしたり、彼が乗っているクルマの定期点検シールを偽造して「こうすれば検査しなくてもごまかすことができるんだ」などと言ったり、クルマの窓からごみを捨てたりした。また、彼には愛人がいたのだが、その愛人の性に関するえげつない表現など、私のイメージする覚者とは遠いものであった。しかし、そういうことを指摘しても、「覚醒したものは、そういう世間的なものにはいっさいとらわれない自由な境地でいるのだ」などと言うのである。
 結局、私は彼が覚者かどうか以前に、もうついていく気がしなくなったので、弟子との関係は解消すると彼に告げた。すると、「それなら、俺の説教を録音したテープをよこせ」と言ってきた。テープは別のものを録音して説教したものは残っていなかったので、そう告げると、「信じられない。本当かどうか、家のすみからすみまで探させろ」と言ってきた。そんなことをされてはかなわないので、断ると、「おまえがあのテープを悪用しないかどうか、俺は不安なんだよ。もし探させないなら、お前の家の前にいって、拡声器で大声で叫んでやるぞ。そうしたら、お前は今の家にはいられなくなるからな」などと、脅しともいえることを言うのである。
 覚者は何が起こっても心の平安は乱されないと言いながら、「俺は不安なんだ」と言ったり、おまけに「拡声器で騒ぐぞ。家にいられなくなるぞ」などと言う。
 さすがの私も、ようやく、この男はニセモノだと気づいた。その後、何回か電話をかけてきたが、無視しているうちに、関係はきれた。しかし数年後、この男によって大金を巻き上げられた上にひどい目にあった人がいるという噂を耳にした。
 この男の語る内容は、確かに深いものがあった。もっとも、それもラジニーシその他の教説の単なる受け売りに過ぎなかったのだが、それでも、何も知らないで彼の話を聞いた人は、本当に覚者であると信じてしまっても無理はないと思う。ある意味では、一流の詐欺師であった。

 もちろん、彼が本当に覚者かそうでなかったかは、証明はできない。もしかしたら、本当に覚者だったのかもしれない。
 しかし、私はこのときの教訓によって、ひとつの決意をした。それは、「たとえ覚者であったとしても、品格のない、尊敬できない人から教えは受けない(弟子にならない)」という決意だった。
 金の亡者が、金欲しさのあまり詐欺商法にだまれてしまうのは、もちろん、だます方が一番悪いが、だまされる方も、「うまいことして金を儲けてやろう」という、さもしい根性があったからであろう。
 同じように、覚醒したいという、覚醒欲しさのあまり、以上のような詐欺師にだまれてしまうのも、やはり「うまいことして覚醒してやろう」などという、さもしい根性があったからだ。両者とも本質的には同じである。ただ「金」と「覚醒」が入れ替わっただけで、さもしいことには変わりはない。
 立派な教説を語るだけだったら、ちょっと勉強して口がうまければ、誰にだってできる。それでだまされてしまう人も多い。しかし、品格はだますことはできない。私は、覚者であれば品格も高いと信じているが、本当のところはわからない。覚者であっても品格が低い人もいるのかもしれない。
 しかし、仮に本当に覚者であったとしても、すでに述べたように、品格が低く尊敬できない人の教えを受けることはしないと決めた。そうまでして覚醒したいとは思わない。逆に、たとえ覚者でなくても、人格が高く尊敬できる人であれば、喜んで教えを受けたいと思っている。
 法然の弟子であった親鸞は、「たとえ法然師匠の教えを信じて地獄に落ちたとしても悔いはない」とまで、法然を敬愛していた。同じように、「この人の教えを信じて覚醒できなかったとしても悔いはない」と思える人でなければ、師事しようとは思わない。覚醒しているかどうか以前に、人間として尊敬に値する立派な人格を持っているかどうかが、私にとっては大切なことなのだ。
 残念ながら、今まで、そのような覚者には出会ったことがない。もしかしたら、どこかに存在するのかもしれないが、縁がないだけなのかもしれない。
 ただ、「うまいことをして覚醒してやろう」という、さもしい気持ちは捨てた。縁ができて、本当に心から尊敬できるすばらしい覚者に出会うまで(出会えないかもしれないし、出会えても弟子にしてもらえるかどうかもわからないが)、それまでは自力でコツコツと努力を積んでいく覚悟でいる。さもしいマネだけは決してしたくない。
 もちろん、以上のような私の信念を、あなたに押し付けるつもりはない。「品格はどうであれ、とにかく覚醒できればいい」というのも、ひとつの考え方である。ただ、もしだまされる確率を減らしたければ、人間としても尊敬できる人を師匠に選ぶべきだと、私は思う。そうすれば、仮にだまされたとしても、おそらく後悔はないだろう。
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コメント

斉藤 さま

覚醒とか、悟りとかは、私にはよくわかりません。

普通の人には見えていないであろうものが見えてはいても、それが本当にそこに存在しているのか、脳が勝手な妄想を見せているのか、いつも考えます。

考えても答えはありません。

本当に悟った人ならば、自分が悟ったとは思わないでしょうね。
今ある現実がすべて夢であるかもしれません。
自分の脳内で起こっている芝居なのかもしれません。

ただすべてをあるがままに受け入れたとすれば、自分は悟ったからといって、他者の思考を自分に同調させることは間違いだと知るはずだと思います。

多くの考えの上に世界が成り立ち、さらに細分化して広がっていく……。

そう考えると、勧誘活動している宗教はすべてエゴに取りつかれた集団といえるのかもしれませんね。
2016-09-01 Thu 16:12 | URL | 黒いネコ [ 編集 ]
斉藤啓一です。黒いネコさま、コメントありがとうございました。私も同じように、覚醒とか、悟りというのはよくわかりません。人によって解釈も違うようですし、研究すればするほどわからなくなってきたりします。結局は、脳のある種の「幻想」の可能性も否定していません。魂や生まれ変わりなどというのも、ないかもしれません。要するに、黒いネコさんの言われるように、考えてもわからないと思います。ただ、考えること自体は、悪いことではないと思っています。考えることでいろいろな気づきもありますし。
ただ、「自分の考えだけが唯一絶対に正しく他はすべて間違っている」という独善的な考えだけは否定します。そういう考えが、強引な宗教活動や、さらにはテロをもたらしていると思うからです。
私は一生、迷いながら人生を送ることになるかもしれません。でも、「それでもいい」と覚悟できれば、それもある種の「悟り」ではないかと、逆説的ですが思っています。
2016-09-01 Thu 16:37 | URL | [ 編集 ]
斉藤さん(あえて先生とは呼ばない)、失礼ですが貴方は詐欺師ですか?

今年に入って斉藤啓一著「悟りを開くためのヒント」「真実への旅ファウスト博士の教え」を購読しました。

覚醒とか悟りというのはよくわからない人が、よくも白々しく「悟りを開くためのヒント」という本を公の市場に出せたものですね?

「真実への旅ファウスト博士の教え」という本の帯に「この物語は、あなたに覚醒をもたらす」と謳っていますが、よくも人を欺くような文句が使えますね?

斉藤さんは、自分が本の購読者にした詐欺性について自覚していますか?

覚醒とか、悟りというのはよくわからない人が知ったかぶりして、印税目当てに本を書くなど言語道断。その心根が卑しい。

そんな根性で「魂の覚醒」を表題にしたブログを書くぐらいなら、こんなブログ止めてお終いなさいな。

私は斉藤さんが血のにじむような苦労の体験を通して「ファウスト博士」を書き上げたと信じていたからこそ、感動の涙を流したのです。

うつ病になっても自分のありのままの姿を公開している誠実な人柄に感銘して、このブログを読んでいるのです。

黒いネコという人物に付和雷同して自分の信念をたやすく曲げなさんな。

斉藤啓一先生、自分は人生を懸けて「覚醒・悟り」を探求してきたという自負まで捨てないで下さい。
2016-09-01 Thu 21:34 | URL | 滝澤通孝 [ 編集 ]
斉藤啓一です。滝澤さん、あなたは誤解しています。もし私が覚醒や悟りがわかっていたら、私は覚醒しており、悟っているということですから、自分を「求道者」や「探求者」とは呼びません。「成就者」とか「覚者」と名乗るでしょう。「悟りを開くためのヒント」などという本は書きません。「悟りを開くための方法」という本を書くでしょう。また、そのようなブログを書くでしょう。
仮に、私が覚醒や悟りについてわかっていたとしても(覚醒や悟りを開いていたとしても)、「覚醒や悟りが何かをわかっています」と書くことは決してしないでしょう。なぜなら、覚醒や悟りというものは、頭で「わかる」というレベルではないからです。
2016-09-01 Thu 22:09 | URL | [ 編集 ]
斉藤啓一です。私は人からどのように思われようとあまり気にしません。まったく気にならないといえば嘘になりますが、それほど気にしません。
ただ、私はリーダーとは思われたくありません。そのような意識もないですし、リーダーとして活躍したいとも思いません。私には弟子はいませんし、これからも、弟子を持つつもりもありません。というより、弟子を持つ資格などありません。
ただ、もし皆さんが、私の考え方や、私の生き様を通して、何か学んでいただければ、とても嬉しいと、そのように思うだけです。
ちょっとキザな表現になってしまいますが、私は道端に咲いている名もない花のような存在になりたいと思います。有名な花であれば、誰もが賞賛するでしょうが、道端に咲いている名もない花を賞賛する人は少ないでしょう。しかし、もし本当に眼力がある人であれば、有名だろうと無名だろうと、その花が美しければ、そのことがわかるでしょう。
私は、そのような眼力のある人だけに認めてもらえれば、それでけっこうです。
そのために、眼力のある人に認めてもらえるだけの人間になろうと努力しています。
私から学んでくれる人は学んでくれるでしょうし、学んでくれない人は学んでくれないでしょう。いずれにしろ、私にはどうでもいいことです。師匠となり、教祖のようになって弟子を集め、覚醒させてやるとか、世界人類を救ってやろうなどという考えは、私にはありません。
私はただ、誰かに見られていようと、見られていまいと、ただ美しく咲くということだけに専念するだけです。私をリーダーや指導者のように思ってくれている人がいたとしたら、失望させてしまい申し訳ありませんが、私はただそれだけの人間です。











2016-09-01 Thu 23:39 | URL | [ 編集 ]
斉藤さま

1週間ほど前のことです。
目の前に一文がありました。
いつもは読めない文字ばかりなのですが、この時は一文の中に、『不要不梢』という部分だけが読めました。

日本にはこういう熟語は無いのですが、自分なりにいろいろ考えていました。

そして今回、斉藤さまが返されたコメントを見て、いろいろつながりました。
ありがとうございます。

「部長」「社長」「先生」……そういう呼称も必要ないし、取り巻く余計な枝葉にとらわれず、そのものをしっかり見つめる。
そういうことだったのだと思います。

『誰かに見られていようと、見られていまいと、ただ美しく咲くということだけに専念する』

まさにこれも悟りなのかもしれませんね。
その先あるものを、私も見てみたいと思います。
2016-09-02 Fri 13:24 | URL | 黒いネコ [ 編集 ]
斉藤啓一です。黒いネコさま、このブログからいろいろ学んでくださり、とても嬉しく思います。ありがとうございます。
2016-09-02 Fri 18:27 | URL | [ 編集 ]
不特定多数の人間を相手にしている教祖は師匠にはなれない・・師弟関係じゃなく、ただのアイドルと追っかけ!
グルに過剰なロマンを追いかけるタイプには、結局大組織の教祖・有名人の追っかけで一生終わる方が多いですね。
(ラジネーシの狂信者。Mヨガ・阿〇宗の信者には多くいた)

同格の友人が一人もいない師匠は要注意!
お山の大将的な教祖に付いて行くのは・・常識で考えてみて下さい!

ただ、同格の友人はこっちから見たら・・
叔父貴筋、肉親以外の人間関係のややこしさもついてきますが…特にブドウ関係・修験・密教…禅も少々。

師匠に子供、息子がいれば他人の親子関係に、血の繋がりの無い赤の他人が弟子という立場で間に入る訳だから・・兄弟子から憎まれたりもしました。
この手のリスクを背負う覚悟がなければ・・・ハナから関わらない事。
スピリチュアルな世界に没頭する方には、少々興ざめで辛辣な意見になりますが・・師弟関係は甘くないぞ!
グルにノボセルより世俗の人と交わり法友・同行として自己の信条を相手に押し付けづ、
共に生きていく事に徹しては如何かと。

2016-09-15 Thu 21:20 | URL | 阿字観マニア [ 編集 ]
斉藤啓一です。阿字観マニアさま、コメントありがとうございました。考えさせられる、貴重なご意見であると思います。参考にさせていただきます。
2016-09-16 Fri 15:07 | URL | [ 編集 ]
このコメントは管理人のみ閲覧できます
2016-09-20 Tue 04:27 | | [ 編集 ]
あはは、
大変でしたね!

笑っては、
失礼かもですが

詐欺師もいたものですね


でも、
確かに、失敗や
膝が折れるようなことが
学びになるんでしょうね

個人的には、もう
ダライ・ラマとか
有名な人のが良い気がしてます


自分は、ある日
その体験があったのですが

世界は、このままでよいかと
心底 考えていた矢先でした


その後は、
なんでこの世界に
ずっといるんだろうと

なんだか の気分になってました
外側にあったものが
内側にあったので

けれども
奉仕するしかないないなぁ
と思ったときに

あぁそうか
となりました

結局、今いる世界で
役に立って良いことする

ことになるんだと思います

斉藤さんがされてる事は
正直で、病気の人たちに
光を灯すと思います

斉藤さんにしか
照らせない人がいると思います

照らしてくださって
ありがとうございます
2016-09-24 Sat 15:24 | URL | N [ 編集 ]
斉藤啓一です。Nさん、コメントありがとうございます。含蓄のあるお言葉、学ばさせていただきました。また励ましのお言葉にも深く感謝いたします。
2016-09-24 Sat 19:16 | URL | [ 編集 ]

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