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心の治癒と魂の覚醒

        

エゴ(煩悩)を原動力としない

 本題に入るまえにひとこと。
 私の体調不良を気遣って、励ましやアドバイスや情報といった無形のものをくださったり、あるいは有形のものをくださる方がおられます。ありがたいことです。先日も匿名の方から、素敵なものを送っていただきました。この場を借りて心よりお礼申し上げます。
こうした方々は、二重の意味で私を支えてくださいます。ひとつは文字通り、その無形有形のものであり、もうひとつは、何の利益にもならないのに、貴重な時間や労力やお金を使ってこうしたことをしてくださるという、その行為そのものです。
 つまり、「世の中にはこんなにも親切な人、優しい人が存在しているんだ」という、そんな思いが、私に希望を与え、支えてくださるのです。人間を信用できるというか、そういう思いですね。それが私におおいなる力を与えてくれるのです。心から感謝です。

 さて、では、本題に移ります。
 むかし、NHKで面白い番組をやっていました。
 それは、高僧と呼ばれる人が座禅をしているときの脳波を測定するというもので、どの人もアルファ波という、きわめて落ち着いた心境を示す脳波を示していました。ここまでは、よく聞く話で意外なことではないのですが、ここからが番組の面白いところなのですが、座禅をしている高僧の前に、いきなり蛇を目の前に投げ込んだり、水着姿の美女を歩かせたりしたのです。そして、脳波がどうなるかを実験してみたのです。
 すると、どうなったと思いますか?
 脳波は少しも乱れなかったと思われますか?
 実験では、蛇が目の前に投げ込まれたり、水着姿の美女が通ったとき、脳波が乱れたのです。これは修行をしていない人も同じでした。修行をしていない人でも、しばらく座禅をすると、アルファ波の脳波になります。そして、目の前に蛇や美女を見ると脳波が乱れアルファ波が破られてしまうのです。
 ところが、高僧はすぐにアルファ波が回復しました。脳波が乱れたのは一瞬だけでした。それに対して、修行をしていない普通の人は、長いあいだ脳波が乱れたままだったのです。
 脳波がイコール悟りの境地を示すとは考えられませんが、端的な状態を示していることは確かではないかと思います。
 つまり、悟りを開いた人でも、何か異変が起きれば、凡人と同じように驚いたり心が乱れたりするようなのです。ところが、それは一瞬のことで、次の瞬間には静謐な境地に戻っているわけです。
 悟りを開いたからといって、何が起きてもまったく動揺しないというわけではないようです。もしそうだとしたら、単に鈍感で神経系統が麻痺しているとしか思えません。人間としての感動といったものも、感じないということでしょう。悲しいことがあれば悲しみを感じるでしょうし、悪口を言われれば不愉快に思うでしょう。喜怒哀楽は普通の人と同じように感じるはずです。しかし、それは非常に短い時間なのです。
 悟った人は、その気持ちを引きずらないのです。否定的な感情をいつまでも心のなかに保つことはないようです。そのために、とらわれがないというか、あっさりしているというか、飄々としている、ときにはクールに見えるようです。
 悟ったからといって、人間的な感情をもたない、ロボットのような人間になることではないわけです。むしろ、ある意味では、とても人間味があったりします。
 けれども、感情に振り回されて、取り乱すということはしないわけです。このへんはとても微妙だと思うのですが、この微妙な違いが、覚者と凡人の大きな違いということになるようです。人間的でありながらきわめて冷静。冷静でありながらあたたかいハートを持っている。ある意味、こうした矛盾したものを持っているのが、おそらく覚者だと思います。
 いずれにしろ、私が出会ったなかでは、ヒステリックに感情的になったり、怒り狂ったり、泣きわめいたりする人で、霊性が高いと感じた人はひとりもいません。弟子に対して、「叱る」ことはあっても「怒る」ことはしません。必要に応じて「活を入れる」ために、ピシャリと刺激を与えることはしますが、粗暴になることはありません。
 その人がどのくらい悟っているか、霊性が高いかを調べたければ、その人を怒らせるような言動をしてみるのが、一番早いかもしれません。そのとき、怒りで取り乱したり、粗暴な言動で返すようであれば、まずその人は悟っているとは言えません(ただ、実際にこのような形で相手を試すのはお勧めしません。参考程度に思ってください)。
ネガティブな感情のことを、仏教では「煩悩」と言っています。怒り、おごり、無知というのが三大煩悩とされていますが、やはり怒るというのは、煩悩にとらわれている証拠であって、つまりは、それだけ悟りから遠いということになるわけです。また、おごることも煩悩ですから、おごり高ぶる人は、やはり悟りから遠いとも言えるわけです。だから、悟っている人は謙虚です。それも、わざとらしい謙虚さではなく、むしろ自然体とも言うべき謙虚さがあります。

 このように、一般的に覚者は、感情的になることなく、執着もないので、淡々としているというか、飄々としている傾向があり、謙虚で飾らないので、いわゆる世間的な感覚でいう「いかにも偉そう」という感じには見えないことが多いように思います。一見すると、ごく平凡に見えるかもしれません。そのために、ときには馬鹿にされたり、なめられたりすることもあるかもしれません。とかく世の中は、表面的な虚像だけで人を判断することが多いものですから。たとえばイエスなどは、大衆から「あいつは単なる大工の息子にすぎないじゃないか」(当時、大工はどちらかというと卑しい職業と見なされていた)などと馬鹿にされていました。
 そうした世間の虚像に目をくらませられることなく、本質を見抜く目を持った人だけが、覚者の非凡さを理解することができるわけです。
 覚醒していない人はエゴ(煩悩)によって支配されています。エゴは常に「他の人より偉くなりたい(見せたい)」、「ひとかどの人間になって人々から賞賛されたい」という欲望を持っています。そのエゴを満たすために、権力を欲しがったりお金持ちになろうとしたり、有名になろうとするわけです。それが物質的な世界で発揮されるのならまだしも、宗教的な世界で発揮されると偽善的になります。つまり、エゴゆえに教祖になったような人たちです。
 教祖になろうと思って教祖になった人というのは、絶対とは言いませんが、たいていはニセモノだと思います。それはエゴを原動力としているからです。
 しかし、真の教祖になる人というのは、教祖になることが目的ではなく、人を助けることが目的で一生懸命に努力していたら、いつのまにか教祖になっていた、という人ではないかと思います。この場合の原動力は愛です。エゴではありません。エゴではなく、愛を原動力として、教祖なり、何らかの指導者になった人こそが、本物であると思うのです。
 エゴを原動力として活動した場合、確かに権力やお金を手にしたり、有名になりやすいといえるでしょう。なぜなら、この世はエゴが支配しているからです。しかし、エゴを原動力として活動しても、真の幸せを得られるとは限りません。というより、それは難しいと思います。なぜなら、私たちの本質(魂)は、愛が得られたときにこそ幸せを感じるようにできているからです。エゴと愛は同居できません。エゴがあるとき愛はなく、愛があるときエゴはありません。
 したがって、この世的な虚栄ではなく、本当の幸せをつかむためには、言い換えれば、真に霊性を高め、覚者になるには、エゴではなく、愛を原動力として、日々努力していくべきではないかと思うのです。

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コメント

滝澤さん、失礼しました。うっかり見落としていました。承認させていただきました。
2016-11-14 Mon 21:04 | URL | [ 編集 ]
先生こんにちは。
悟った人は心も健康でしょうから、いわゆる嫌な事があっても引っかからないのでしょうね。いわゆる「流れるからだ」だと思います。


少し話題がずれるのですが、私は自分自身の変なパターンとして、調子が悪くなると皇室ネタが気になってしまう、というものがありました。何故だか理由は分からないけど、自分の「パターン」だけは掴みました。

それでネットでつらつら見るわけですが、低調なときは様々な意見(という名の罵詈雑言)に「ふぅ~ん」と、一応感応してしまう、つまり自分に取り入れてしまうのですが、しばらくして調子が上向くと我ながら、「なんでこんなことしてのだ?!」 と思い、即座にはねのけられるのです。そしてこれが上向きのバロメーターでした。

思うに、悪口には中毒性があり、蔑みにも中毒性があり、疑心暗鬼にも中毒性があり、そして「正義」にも中毒性があるんだな、と。
つまりエゴには中毒性があるのですね。

だから愛を強めてエゴを減らせ、などといったら禁断症状がそりゃあ大変だと思います。
自分で抜けようとしても大変なのに人からたしなめられようものならそりゃあもう大暴れですよね・・。

だから日ごろから真の霊性というものを意識し、客観的に自分を見つめる努力は怠ってはいけない、少なくともそれらを意識し続けることは止めてはいけないと思うのです。

霊性が「心」の問題に直接役に立つとは正直思えない。理屈ときれいごとばかりでね。しかし霊性を常に意識していなければ無残なエゴの餌食になるだけですね。




2016-11-15 Tue 08:36 | URL | 希 [ 編集 ]
斉藤啓一です。希さん、コメントありがとうございました。興味深いお話で、参考になりました。霊性を意識しなければ、おっしゃるように、エゴの餌食になるだけですね。この「餌食」という表現が的を射ているように感じました。
2016-11-15 Tue 19:58 | URL | [ 編集 ]
斉藤 さま

とても難しい題材の記事ですね。

エゴとは、「共感」の対極のものなのでしょうか。

最近、エゴで「愛」を説く人が多くなりました。
「愛」は素晴らしい、是非キミたちも「愛」を実践して豊かな暮らしを送りなさい……というような。
「愛」の無い人を見て、「そういう人間はダメ人間だ」と否定しかできない人。

そういう人の言う「愛」は、「本当の愛」ではなく、単なるエゴで、実際はその人にも愛は無いのでしょうね。

「愛」は与えるだけのもので、それを他者に説いたり、押し付けたりするものではないと思っています。

この世で最も危険なものは、他者の思考、意識をコントロールしてしまうこと。
「愛」も押し付けてしまえば、それはエゴなのではないでしょうか……。

本当の意味で相手に共感できなければ、真実は何も見えない気がします。

斉藤さまが前にコメント欄で書いていた、「リーダーになろうとは思わない」という言葉。
これがエゴに陥らない方法なのかもしれません。

すべてのモノに共感した時、人は指導者ではいられないと思います。
2016-11-19 Sat 09:28 | URL | 黒いネコ [ 編集 ]
斉藤啓一です。黒いネコさん、コメントありがとうございました。確かに、愛という言葉は、人を欺瞞に陥れやすいものだと思います。ただ、同時に、あらゆる問題を解決し、人を真理に導くキーワードにも成り得ます。いわば、諸刃の剣ですね。この「諸刃の剣」であることを常に自覚しながら、この「愛」という言葉を使うことが大切なのではないかと思います。
2016-11-20 Sun 14:19 | URL | [ 編集 ]
斉藤先生

ご体調はいかがでらっしゃいますか?
こうしてブログの更新をして下さり、誠にありがとうございます。

今回のお話も、偶然ではありますが、私にとっては我が身を振り返ると同時に戒める、非常に良いキッカケとなりました。

以前お話いたしましたが、私は身内から手酷い裏切りを受け、日々自分の心が辛くてどうしようもない時に、先生のブログを拝見し、大変心救われた者です。が、恥ずかしながら、今でもまだまだ辛い事柄を悔やみ、その原因となった者を恨みがましく思う気持ちから完全には自由になれずにおりました。

しかしながら、今回、高僧の心境や「愛」そして「エゴ」というものについて先生のお話を拝見して、自分にはまだまだ修行がたりないのだと再認識いたしました。喜怒哀楽を感じながらも、飄々と浮雲のごとくそれらを風の吹くまま手放していけたら、きっと私も心軽やかに、今のこの苦しい気持ちからも解き放たれるのだろうと思い至りました。本当に前回も散々素晴らしいお話をうかがって、自分でも幾ばくかがわかったような気になっておりましたが、まだまだでした。それに気づけただけでも、1つ進歩だと前向きに捉えて、怒りや恨みから自分自身を少しずつ、自由に解き放っていきたいと改めて思う次第です。

先生、寒さ厳しくなるこの季節。どうかくれぐれもご自愛下さいませ。
2016-12-03 Sat 20:34 | URL | kansha [ 編集 ]
斉藤啓一です。kansyaさん、コメントありがとうございました。あたたかいお言葉、嬉しい限りです。たいていの場合、「自分は偉いな」と思ったら、実際にはまだまだであり、「自分はまだまだだな」と思ったら、実際には自分が思っている以上に進歩していることが多いものです。kansyaさんのコメントからは、真摯な求道心が感じられます。たぶん、そのすばらしい影響は、このコメントを読んだすべての人に広がるのではないかと思います。
これからも、共にがんばっていきましょう。
2016-12-03 Sat 20:59 | URL | [ 編集 ]
斉藤先生

お返事くださり、また、温かな励ましのお言葉まで頂戴し、何とお礼を申し上げてよいか分かりません。心よりお礼申し上げます。

私自身まだまだ至らぬことばかりですが、有難いことにこうして斉藤先生からメッセージを頂けるという幸運に恵まれた上、先生をはじめ極身近にも「見習いたい。」と思うような人がいらっしゃいますので、そういった尊敬している人々を目指し、日々少しずつであっても自身を成長させていきたいと思います。ダメなところは尚更簡単ではないでしょうが、それでも少しずつ改めて行きたいと考えています。

先生のお言葉を拝見して、柔らかで暖かい何かに自分がまるで包み込まれたような気持ちになりました。本当にありがとうございました。いただいた有難い励ましを胸に、これからすこしでも成長していきたいと思います。
自分がこれまで無為に過ごしてきた時間を取り戻すことは出来ませんが、これから自分が目指しているものを1つでも実現していけるよう、自分の弱さを戒め、怠惰と闘っていきます。

斉藤先生、この度も先生のお言葉に救っていただきました。本当にありがとうございました。

時節柄、どうかお体大切になさって下さい。
2016-12-12 Mon 12:09 | URL | kansha [ 編集 ]
おそらく・・・・・
おそらくで書きますが、
覚醒に至った者は
経験の速度が瞬間的

尋常じゃなく
速いのかもしれません。

常に、いまにいて
受け入れているので

抵抗がありません

覚醒を知らない人は、
経験する速度に時間がかかります

むしろ、覚醒な者は
瞬間的に包括的に在るので

瞬間的なのかもしれません

詩を。

「溶けては固まる
氷の中に
それは入り
何をしようというのか

それは、遊戯を味わっている

遊戯は、応用もできる」
2017-01-28 Sat 20:49 | URL | 凡人 [ 編集 ]
斉藤啓一です。凡人さん、コメントありがとうございました。面白い見解ですね。参考にさせていただきます。
2017-01-28 Sat 22:31 | URL | [ 編集 ]

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