心の治癒と魂の覚醒

        

宗教における練習

 たとえば、いくら野球のルールを熟知し、バットの振り方やボールの投げ方に関する知識が豊かであっても、実際にすばらしいプレーができなければ、ファンの支持を得られませんし、野球選手としての価値はありません。また、難解な音楽理論を熟知し、ピアノの弾き方に関してすばらしい講義をすることができても、実際にピアノが弾けなければ、ピアニストとは呼べません。
 要するに、およそ学者以外のプロと呼ばれる人たちは、実践ができるかどうかで、評価が決まるのです。医学に関する膨大な知識があっても、手術ができなければ、外科医とは呼べません。料理の仕方がわかっていても、料理ができなければ、料理人とは呼べません。
 ところが、宗教の世界だけは、難解で高尚な教義や知識を持ち、それを声高に口にするだけで、「すばらしい宗教者だ」「高い霊性を持っている人だ」「覚者だ」といった称賛を得られたりするのです。これは奇妙なことです。豊かな知識を持ち、それを講義できる人は、すぐれた学者とは言えるかもしれませんが、実践を伴わなければ、宗教者とは言えません。宗教の理念を実際に行動に表せる人が、本当の宗教者であり、高い霊性の持ち主であり、覚者です。
 たとえ宗教の教義だとか、難しい理屈など知らなくても、その人の生き方が宗教の理念に合致しているならば、その人は立派な宗教者です。知識は、あくまでも実践ができるようになるための手段として必要なだけであって、知識そのものには何の意味もありません。

 もちろん、最初は何であれ知識の習得から始めますので、知識を蓄えることは大切です。宗教的な教養を学ぶことは意義があるでしょう。問題は、その知識をいかに実践に移すか、ということです。多くの人は、知識が豊かだと、それだけで自分が偉くなったような気がしてしまい、また周囲もそれだけで偉い人だと称賛したりするので、そこで進歩が止まってしまうことが多いのです。あげくの果ては、傲慢になり、誇大妄想に陥ったりします。
 こうなるのは、宗教の世界が、スポーツや芸術のように「実践こそが重要」という認識が薄いからだと思います。本来、宗教の世界こそ実践が大切だと思われるのにです。
 宗教の理念を簡単に言えば、ひとつは「愛(慈悲)」であり、もうひとつは「煩悩の超越」だと思いますが、こうしたことを知識ではなく、実践に移さなければ、その人は本当の宗教者、信仰者であるとは言えないわけです。

 しかし、知識があるからすぐに実践に移せるわけではありません。野球の仕方を勉強してもすぐに上手なプレーができるわけでもなく、ピアノの弾き方を頭で習ってもすぐにピアノが弾けるようにならないのと同じです。どのような分野であれ、知識を実践に移すには、練習が不可欠です。プロのスポーツ選手、プロの芸術家は、ものすごい量の練習量をしています。私が元プロレスラーの人から聞いた話だと、彼らは気絶するまで筋トレをするそうです。ピア二ストは、毎日欠かさず一日8時間も10時間もピアノに向かっています。そのために腱鞘炎を起こしてしまうこともあるくらいです。
 このように、練習が必要なのです。ひたすら練習です。プロの練習のすさまじさは半端ではありません。そうして初めて、知識を実践に反映させることができるのです。
 しかし、宗教者はこれほどの練習をしているでしょうか?
 すなわち、愛を実践するための練習、煩悩を超越するための練習をしているでしょうか? 気絶するまで練習しているでしょうか? 一日8時間も10時間も練習しているでしょうか?
 まずしていません。祈ったり、瞑想したり、苦行したり、お経を唱えたりはしているかもしれません。そのようなことが意味のないことだとは言いません。しかし、そうしたことは、スポーツ選手が行っている体力強化訓練、ピアニストが行っているソルフェージュ(楽譜読み)に過ぎません。つまり、基礎訓練に過ぎないのです。本当に技能を磨くには、実際にスポーツをすること、実際にピアノを弾くことなのです。そうした実践的練習の積み重ねによって、実力が磨かれるのです。

 宗教の世界も同じように、実践的練習を積み重ねることによって本物になっていくわけです。実践的練習とは、愛の行為をすることであり、煩悩を超えていくということです。煩悩を超えるとは、欲望や感情に振り回されないということです。怒ったりイライラを野放しにし、低劣な欲望に平気で身を任せるようでは、煩悩を超える実践的練習をしていることにはなりません。怒りを覚えるのは仕方ありませんが、それを意志の支配下において静謐を保とうとする練習、低劣な欲望の誘惑に抵抗しようとする練習が必要なのです。
 そして何よりも、愛の行為です。電車のなかでお年寄りや体の不自由な人が立っていたら席を譲る、道に迷っている人がいたら声をかけてあげる、悲しみに沈む人がいたら優しい言葉をかけてあげる、約束の時間には相手を待たせないように少し早めに行く、たとえわずかな金額でも福祉施設に寄付をする……、こうしたことは小さいことかもしれませんが、立派な愛の実践的練習です。こうした「小さいこと」が、実は重要なのです。そういう練習の積み重ねによって、本当の宗教者になっていくのです。
 繰り返しますが、練習なくして本物にはなりません。ひたすら練習、練習、練習。練習あるのみです。真の宗教者かそうでないかは、知識だとか、説教が上手だとか、そういうことではないのです。その生き方が、宗教の理念を体現しているか、ただそれだけによって決まるのです。練習なくしてどうして本物となれるでしょうか?

 しかし、頭でっかちの人は、練習が苦手です。また、見栄っ張りの人も練習が苦手です。なぜなら、「練習」がうまくできないと、プライドが傷つく怖れがあるからです。練習をせず、ただ口先だけ立派なことを言っているだけなら、至らない自分を突きつけられることもありませんから、幻想の中にいることができます。「私はこんな立派なことを語ることができる。私はなんて意識レベルが高いのだろう、なんと信仰深いのだろう、なんと偉大なのだろう」と、自分に酔っていたいのです。しかし、そういう宗教者は、いってみれば「張り子の寅」のようなものです。宗教者とは呼べません。せいぜい学者であるというだけです。
 実際、練習は甘くないです。スケート選手など、それこそ何回も何回も何回も転倒し、みっともない姿をさらします。失敗の連続、プライドがつぶされることの連続、自己嫌悪の連続です。しかし、そうしたことを乗り越えていく人こそが真のプロであり、真の宗教者なのです。
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コメント

障害者向けのボランティアを続けています。

クリスチャン精神にかなうことだと思っています。

愛の実践になっているかわかりません。

テレビに出てくる障害者は、皆、心がきれいというイメージですが

実際は、わがままな人もいて、苦労もあります。

喜んでもらえることも多いので、続いています。

今、パソコンでこの文章を書いていますが、明日も目が見えている保証はないです。

自分も障害を持って、面倒をかけるかもしれません。

自分の身体を大事にして、今後もがんばっていきたいと思います。

2017-05-06 Sat 22:15 | URL | 両さん [ 編集 ]
斉藤啓一です。両さん、お久しぶりです。コメントありがとうございました。両さんのされていることには、頭が下がります。両さんのような方が私のブログを読んでくださり、こうしてコメントまでいただけることを、私はとても光栄に思います。ありがとうございます。どうぞお身体に気を付けてがんばってください。
2017-05-06 Sat 23:40 | URL | [ 編集 ]
斉藤 さま

おっしゃる通りだと思います。
知識を得ることは目的達成のための手段だと思いますが、知識の大小が目的までの道のりと比例するとは思えません。
「練習」「努力」これが本物を作るのでしょうね。


宗教は、だれのためにあるものなのでしょうか?

今の生活に十分に満足している人に、宗教を説く必要はあるのでしょうか?

飢えに苦しんでいる人に宗教を説いて回れば、飢えはなくなるのでしょうか?

致死性や感染力が高い病気にかかった人に対して、宗教は向き合うことができるのでしょうか?

今の宗教家たちのほとんどは、自分の知識や理念をひけらかすことで自己満足に浸っているだけではないでしょうか。

聖書がどうとかいって、自宅や事務所を宗教活動で訪問して回っている人も珍しくありません。
そういう方に悪意が無いことは読み取れます。
と同時に、非常に幼い、未熟な精神性も見えてしまいます。
そういう方と何度か問答したこともありますが、すべてを鵜吞みにした信仰のようで、その方自身の本当の心は奥底に放置されているようでした。
そういうのを感じてしまうと、その宗教が与えている影響は、とてもプラスとは思えませんでした。
マインドコントロールと何ら変わらないのですから。

自分の心を肯定できない教えは、とても歪んだもののように感じてしまいます。

斉藤さまは、今の宗教に愛を感じられるでしょうか?
残念ながら私には、エゴが見えてくる方が多いのです。
もちろん素晴らしい方もおられますが、布教活動しているような団体の中にはそういう人は見たことがありません。
2017-05-08 Mon 09:39 | URL | 黒いネコ [ 編集 ]
斉藤啓一です。黒いネコさま、毎回本質をついたコメントをくださり、ありがとうございます。「今の宗教に愛を感じられるでしょうか?」ということですが、これは個人差がありますので一概には言えませんが、宗教というカテゴリーに限定するなら、愛がエゴによって曇らされている傾向が多分にあると考えています。この問題はとても重要であり、あらためてじっくりと検討して、このブログで近いうちに私の考えをご紹介させていただきたいと思います。
2017-05-08 Mon 12:34 | URL | [ 編集 ]
前回の神の存在と合わせてコメントさせて貰いますが・・・山本玄峰老師でしたか・100年生きてたかが36500日!とか言ってましたが。
だが、この物質世界は一個人が生まれる前からあり死んだ後も存在するのでしょう?ならたかが100年生きるか如何かの存在に左右される言いなりになる神様なんて・・ずいぶんと安っぽ神様なんじゃないでしょか?至れり尽くせりでお頭をナデナデシテ貰える神様が必要ですか?ある人の御都合は別の人の不都合!一方のみに利益する神様は・・・
何らかの霊力を持てども未だ因縁の中の存在!個性立場を持つ存在!天部の神等がそうでしょう。
大日如来は誰か彼かを相手に説法してない存在!非存在!
天地宇宙は誰か彼かを助けようともしないが、差別もせず永劫の時を、一切の生きとし生きるモノに学びの場を与え続ける。
働きかけても見返りを求めず。育んでも支配せず・・・神などと言うのならそう言うものじゃないでしょうか?
ダルマ・タオと言っても良いでしょうが。
個性を持って共に修行している類魂の御霊なら、時に様々な助言サポートをしてもくれましょうが・・至れり尽くせりは本人の為にならぬと・・・私が守護霊なら看破しますがね!
愛云々は・・・失礼ながら宗教・霊学・精神世界で飯を食ってる輩が良く言い出すセリフですが・・一般庶民は愛なんて・・・安っぽくて使いません。あえて言うなら情と節操!
愛と言う言葉に酔うなかれ!愛して貰いたくて称賛されたくて満たされない方ほど・・愛を安売りするカルトに走る傾向が有りますね。自分が世間から与えられた本業を分を守って聞く耳を持てども毀誉褒貶に一喜一憂せずやり抜いている方は・・愛の宗教に走ってる暇なし。妙好人とも言えますが・・
2017-05-09 Tue 05:20 | URL | 阿字観マニア [ 編集 ]
斉藤啓一です。阿字観マニアさん、コメントありがとうございました。ひとつの角度からの見解として、参考にさせていただきます。
2017-05-10 Wed 13:11 | URL | [ 編集 ]

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