心の治癒と魂の覚醒

        

真の宗教

 イギリスでまたしてもテロが起きました。八歳の女の子をはじめとして、二十人以上もの罪のない人々が犠牲になりました。イスラム国が犯行声明を出しています。
 テロというと、かつては政治権力などの弾圧を受けた人が、それに対抗するために行う非常手段でした。しかしイスラム国の場合、それとは少し違っています。彼らの目的は、この世界すべてを、彼らの信じるイスラム教で支配することです。
 ここで見過ごしてはならないのは、「彼らの信じるイスラム教」ということです。つまり、自分たちの宗派を押し付けているのです。そのため、同じイスラム教でも違う宗派のイスラム教徒を殺しています。
 イスラム教に限らず、キリスト教でも仏教でも、そのなかにさまざまな宗派ができて争いあっています。最初はひとつの宗教であったものが、内部分裂して「内ゲバ」を起こしているのです。宗教が宗派に分裂し、さらにその宗派がさらに分裂していたりするわけです。仏教の場合、禅宗だとか真言宗だとか浄土宗だとか日蓮宗といった宗派に分裂し、さらにそれぞれの宗派のなかで小さな宗派に分裂しています。
 したがって、仮にイスラム国が、彼らの信じるイスラム教で世界を支配し、世界中の人が彼らの信じるイスラム教徒になったとしても、テロはなくならないでしょう。いずれ内部分裂して、それぞれが「自分たちの教えこそ唯一正しい」などと主張し、争うようになるでしょう。そうして同じようにテロが起きるでしょう。

 宗教というものは、程度の差はあれ、独善主義に陥ります。そのはなはだしいものが原理主義ですが、他宗教への寛容を説く宗教でも、本音を言えば、他宗教の存在など認めたくないのです。まして、他宗教が勢力を増してどんどん信者を増やしていくようなことが起きれば、穏やかではいられません。争いが起こることになるでしょう。
 イスラム国の信者は、「神は自分たちが信じるイスラム教を世に広めることを望んでいる。そのためには、罪のない人々、子供であっても殺してもかまわない。それが神の御心にかなうことなのだ」と考えているのでしょう。自分たちは神の名のもとに正義を行い、愛を行っているのだと思っているのでしょう。宗教がもたらす独善主義のなりの果てです。
 しかし、「教えを広めるためなら子供を殺してもよい」などと、そんなことを神が言うなどと、どうして信じられるのか、不思議でなりません。それだけ洗脳されているということなのでしょうが、オウム真理教も同じでした。自分たちの教えを否定する弁護士、さらにその妻と子供まで殺害しました。サリンをまいて、罪のない人々を殺しました。

 世の中には、宗派の数だけ神(仏)が存在しているのです。そのうち、ひとつの宗派だけの神が真実で、他はすべてニセモノなのでしょうか?
 そうは思えません。すべてがニセモノなのです。自分たちが勝手に作り上げた幻想であり、妄想の産物なのです。
 神も宗教も、人間のエゴが勝手に作り出した幻想なのです。
 「教えを広めるためなら罪のない人をいくら殺してもよい」などと言う神は幻想であり、「苦しいときは必ず助けてやる」という神も幻想です。守護霊というものも存在しないと私は思っています。なぜなら、実際に私たちは守護されていないからです。テロの犠牲になった八歳の女の子の守護霊は何をしていたのでしょうか? 守ってあげられなかったではありませんか。
 このように言うと、「いや、過去生のカルマを解消させるために、守護霊は犠牲になることを認めたからそうなったのだ。その方がよかったのだ」と言う人がいます。
 しかし、「守護霊はあなたを守っている」などと言っておきながら、いざ悲惨な状態になると「それはカルマの解消だ」などと言うのは、ある種の二枚舌であり、「後づけ解釈」としか思えません。狡猾さを感じます。どのみちカルマの解消が優先されるのだったら、「守護霊はあなたを守っている」などと言うべきではないでしょう。人をだますことになります。仮にそのような霊が存在するとしたら、それは「守護霊」ではなく、「カルマ解消の推奨者」と呼んだ方がふさわしいと思います。守護霊などは存在していないのです(霊的な直感として守護霊の存在を感じることがありますが、それにはカラクリがあるのです。これについては別の機会で説明することにします)。

 しかし今度は、見方を180度変えて考察してみたいと思います。
 すると、神や仏や守護霊は存在することになります。宗教も幻想の産物ではありません。
 どういうことかと言いますと、私たち人間が「神」を感じるときというのは、おそらく二つあると思います。ひとつは大自然の摂理を観察したときです。そこには人間を超えた偉大なる支配者のような存在を直感的に感じます。人間はそれを「神」という言葉で表現したのです。ただし、その「神」は、いわば宇宙の法則のような神で、苦しいときに人間を救ってくれるような人格神ではありません。
 もうひとつは、人間の愛に触れたときです。このとき私たちは、何か偉大で崇高な、またあたたかくてすばらしい存在を直感的に感じるのです。そしてそれを「神」だとか「仏」だとか「守護霊」という言葉で表現したのです。その「神」は、苦しいときに救ってくれる人格神です。通常、私たちが思いをはせている神です。
 つまり、神というのは、自然の摂理のことであり、愛のことなのです。自然の摂理に接し、愛に接したときに、私たちは神の存在をダイレクトな直感として感じるのです。
 ところが、そのダイレクトな直感に、神という名称をつけ、知的なアプローチによって認識した瞬間、もう神は存在しなくなるのです。まして、複雑な教義や教学などを構築したら、そこには神のかけらも存在しません。そこに存在するのは、知性(エゴ)が勝手に作り上げた幻想であり妄想です。

 信仰に熱心な人ほど、こうした教義を堅く信じ、戒律などを守ろうとします。しかし皮肉なことに、そのように熱心になればなるほど、神は遠くへ去ってしまいます。
 アメリカのすぐれた社会学者であったピティリム・ソローキンは、どのような人が無私の愛の行為をしたかという、統計的な調査と分析を行いました。対象となったのはアメリカ、すなわちキリスト教の国でしたが、驚くべき結果が出たのです。予想では、熱心なキリスト教徒ほど無私の愛を実践し、無神論者はそういう行為はしないと思われましたが、実際には、熱心なキリスト教徒ほど愛の行いをしなかった、無神論者の方が愛の行いをしたという結果が出たのです。愛の実践をした大多数の人は、いちおうキリスト教徒ではあるが、教義や戒律を堅く守っているわけではなく、ある意味で少し「いい加減」なところがある人たちでした。
 これと似たような話は、けっこう耳にします。仏教の世界でも同じです。おなじみの禅僧、一休さんなどは、飢餓に苦しむ民衆が禅宗よりも浄土真宗によって救われていることを知り、あっけないくらい浄土真宗に改宗してしまいました。禅宗の関係者からは大ひんしゅくを買いましたが、一休にとっては、宗教や宗派などより、人を救うことの方が重要だったのです(もっとも、禅の根本思想は「なにものにもとらわれない」ということなので、禅という宗派そのものにもとらわれなかった一休は、真の禅者だったとも言えるわけですが)。
 ちなみに一休は破戒僧として有名でした。肉を食い女を抱きました。親鸞なども破戒僧でした。妻帯し女を抱きました。しかしこの二人は、民衆と苦悩をわかちあった愛の実践者として卓越していました。
 皮肉なことに、「いい加減」な宗教者こそが、実は真の宗教者の可能性があるということです。「いい加減」というと表現が悪いですが、要は「とらわれない」ということだと思います。

 このように、自然の摂理と人の愛に感応し、自然の摂理のまま生きる人、そして愛を実践して生きる人こそが、真に神を知る真の宗教者なのです。いわゆる無神論者と呼ばれる人であっても、愛の生き方をしている人であれば、神を知っている宗教者なのです。いくら神や教義に詳しくても、愛の実践をしない人は、宗教者とは呼べません。いくら口先だけ神を説いても、まったく布教にはなっていません。本当の布教とは、愛を実践することです。なぜなら、人はそのときにこそ神を感じるからです。たとえ「神」という言葉は浮かばなくても、むしろ、浮かばないからこそ、本当の意味で神を認識するのです。
 宗教というのも、自然の摂理にしたがって生きること、愛を実践して生きることだと考えます。それを「宗教」と呼んで知的に理解しようとしたとき、教義などを構築したとき、宗教ではなくなってしまうのです。愛こそが宗教なのです。
 そのようなことを理解した、真の宗教者であれば、独善的になりようがありません。テロなど起こるはずがないのです。
 全人類が、「宗教」という妄想から完全に解脱しない限り、いつまでもテロはなくならず、人類が平和になることは難しいと思います。言い方を換えれば、人類が真の「宗教」にめざめなければならないということです。
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盲信からの解脱 | コメント:6 | トラックバック:0 |
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コメント

斉藤 さま

すごいですね。言葉に力強さを感じます。

『神も宗教も、人間のエゴが勝手に作り出した幻想なのです。』私も概ね同意見です。
『真理』はあっても、『人格のある神』は存在し得ないでしょうから。

人は他者の存在無しには、自分の存在を確認できない弱い生き物だと思います。
だから、自分の考えと異なる他者を否定せずにはいられない。
でも本当は、すべてを認めてしまえば、争う必要もなく安心を得られるのに……。

「良い」「悪い」は、その時々の時代で作られ、多くの対立を生んできました。
「押し付け」からは、何も生まれない。
「受け入れる」ことだけが対話を可能にし、人と人とをつなげるものだと感じます。

「完全な教え」などこの世にあるはずもなく、偏った教えに傾倒するあまり、目の前の人を理解することを忘れ、自分が正義だと思い込む……。

人に上下なんてありませんよね。
誰でも同じ未熟者です。
だから、他者を認め、他者を通して自分の存在を確認します。

「いい加減」は「良い加減」です。
「てきとう」は「適当」です。
バランスが大切。

片方に寄りすぎたら、人は倒れます。
周りの人を道連れにすることもあります。
今目の前にいる人の目を通して自分を見たら、きっと本当の自分が見えるはずです。
2017-05-26 Fri 10:06 | URL | 黒いネコ [ 編集 ]
このコメントは管理人のみ閲覧できます
2017-05-26 Fri 13:08 | | [ 編集 ]
斉藤啓一です。黒いネコさま、コメントありがとうございました。おっしゃるように、バランスが大切ですね。極端な考え方は真理とずれているように思います。今回も含蓄の深いコメントありがとうございました。
2017-05-26 Fri 21:21 | URL | [ 編集 ]
斉藤 さま

いつも素敵な記事をありがとうございます。
不意に思いついてコメントしています。

このブログの記事の最初の頃の内容と、今の内容ではずいぶん違うものになっているように感じます。
私は、今の内容の方がずっと好きです。
人としての本質的な温かみを感じることができます。
こういう変化は、覚醒や悟りに似ているのでは……と思います。
頭ではなく、体や心から出てくる表現……自然体でいること、それに近づいているのではないでしょうか。

人は頭では理解しているつもりでも、その状況に追いやられると、途端に固まってしまう人も少なくありません。
頭で理解していることと、真にそれを理解することには、大きな隔たりがあるのだと思います。

「神」や「覚醒」についての論を語るよりも、「人」に正面から向き合っている今の斉藤さまの方が、私はとても受け入れやすいです。

困っている老人や子供がいれば、素直に自然に手を差し伸べられる……そういう姿が容易に想像できます。

過去に縛られなくていい。
意見が変わってもいい。
今の自分には、今語るべきことがあるのではないでしょうか。

人の上に神がいてもいい。
でも、神の下に人を作ってはいけない。
すべてのものは自分の中にあり、またその対極も自分の中にある。
人は常に揺れ動いて、バランスしているのではないでしょうか。

乱文失礼いたしました。
2017-05-30 Tue 09:37 | URL | 黒いネコ [ 編集 ]
先生こんにちは。
今回も相も変わらず私信の様なズレた内容のコメントお許しください。
(あんまりずれていたら先生のご判断で非公開ということで…)

私は今、諸々治すために整体に通っています。猫背がひどいそうです。
それで胸椎あたりの矯正をするのですが、必然、胸腺も刺激されるのでしょう。
3週間経つと「うつ」っぽくなってきました。
本人はカタルシス…と捉えていますが、、、、
独りの時に出てくる言葉は、「もう嫌だ、本当に何もしたくない、ほんとうにイヤだっ」
です。

自発的に始めたストレッチも3週間目で休止状態です。
でも今までと違う点は、心の不調も、風邪やケガ等と同じ扱いにすると決めたことです。
(もちろん続けるに越したことがないのは解っていますが)
それならば、と瞑想をするもすぐに悲しくなり涙が出てきてしまうのでこちらも “緊急停止” です。

ここからやっと本題らしくなりますが、以前あるインド人僧侶に上記のような状態になるのですが、、、と質問したことがあるのですが、答えは「通常ありません!」でした。(苦笑)
別の女性もが、いわゆるマントラを唱えると胸が痛くなることがありますと聞いた時も、「マントラで胸は痛くはなりません!」とのお答え。
もうどちらも答えになってないですよね。(苦笑)
名誉の為に言っておきますが、その僧侶は大変に人望の厚い方です。見るからに「愛」に満ちた方です、、、。
それにご自分のグルには忠実なのでしょう。そして、、、ご自分の考える『愛』とは違う症状は 「通常ない」 ことなのでしょう。 (…私はもう、スピ系エリートもういいよ、、って感じです。)
一休さんならなんと言ってくれたでしょうか。

心に傷のある者にとって瞑想は、霊性指導者が考える程簡単ではないですね。

しかし私のうつの根っこも深いなあ・・・・
でも出し続けていって、いずれは根治が目標です。期間は「死ぬまでに」です。
死ぬまでに治ればそれでいいです。
2017-05-30 Tue 13:18 | URL | 希 [ 編集 ]
斉藤啓一です。
黒いネコさん、コメントありがとうございました。
おっしゃるように、このブログの初期の頃と今とでは、考え方が変わっています。最初からご覧くださっている読者の方は混乱されているかもしれません。ただ、私自身が常に探求の途上にあるものですから、どうしても変わってしまいます(変わらなければ進歩がないとも言えるかと思います)。私は常に、自分に対しても読者の皆様に対しても正直でありたいです。いま書いている内容も、将来、変わるかもしれませんが、とにかく今は、私が抱いている考えを過去にとらわれないで表明していきたいと思っております。そうした私の思いを支援してくださるコメント、励まされました。ありがとうございます。

希さん、コメントありがとうございました。
うつの辛さは、経験した人でないとなかなか理解できないと思います。こういうときは瞑想など無理をしない方がよいと思います。ある意味、瞑想をしないで心を楽にすることも、広い意味での瞑想になっているのではないかとも考えています。
ところで、インドの僧侶のお話ですが、ちょっとその回答には私も疑問符を覚えました。エリートがよい教師になるとは限らないというのは、どの世界でも同じなのかもしれないなと思いました。
うつは、死ぬまでに治そうと、そのくらい悠々とかまえていたほうがいいかもしれませんね。あせるのが一番よろしくないと思います。
お互い、じわじわと歩んでまいりましょう。
2017-05-30 Tue 20:28 | URL | [ 編集 ]

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