心の治癒と魂の覚醒

        

「いい加減」な日本人

  前回は、少し「いい加減」なところがある宗教者の方が、愛の実践をはじめ、より宗教者らしいという話をしました。
 その点では、まさに日本ほど宗教に対して「いい加減」な国は珍しいと思います。
 たとえば、結婚式は教会であげ(キリスト教)、新年になれば神社にお参りに行き(神道)、お葬式はお寺で行う(仏教)といった感じです。私など、父から「うちは真言宗だぞ」と聞かされていたのですが、父の実家に行ったときお墓参りをしたら、曹洞宗でした(笑)。父が死んだときは日蓮宗で葬儀を行い、義理の父母は浄土宗で葬儀を行いました。
  こうしたことは、海外の人からは信じられないようです。確かに、クリスチャンがイスラム寺院で礼拝をしたりとか、そういうことは聞いたことがありません。ただ、クリスチャンが禅を学んだりすることはあるようです。しかしそれはあくまでも参考であって、アイデンティティとしては、クリスチャンであることに変わりはないでしょう。
 その点、日本では、特定の宗教を信仰している人をのぞいて、「自分は○○教徒だ」と明言することはほとんどありません。ある意味では無宗教と言えるわけですが、無神論者というわけでもないわけです。
 しかし海外では、無宗教というのは、ほとんど無神論者とみなされます。
 日本では、無神論者と宣言しても、ただ神の存在を信じないというだけですが、海外で「自分は無神論者だ」と言うと、やや大げさですが、「自分はならず者である」と宣言しているのと同じように見なされるのです。つまり、神を信じていない人は悪人である、控えめに言っても「モラルが低い人」ということを意味してしまうのです。

 では、私たち日本人は悪人でしょうか? モラルが低いでしょうか?
 犯罪率を見れば、そのことが一目瞭然です。ご存知のように、日本は世界的に見て異例なほど低い犯罪率を誇っています。もちろん、悪質な犯罪も頻繁に見られますが、それでも外国と比べればダントツに低いわけです。
 では、モラルはどうでしょうか?
 外国の人が日本に滞在して驚くことのひとつに、「落し物が返ってくる」ことがあります。街や電車などでお金が入った財布を無くしても、およそ七割の確率で落とし主のもとに戻ってくるのです。財布を見つけた人が交番や駅の係員に持っていくからですが、こうしたことは、他のどの国でもあり得ないことです。私たち日本人としては、別に当たり前のことだと思っていますが、外国人には「奇跡」と映るようです。
 他にも、日本人のモラルの高さは、あらゆる面で世界中の人から賞賛されています。日本人は悪人でモラルが低いどころか、きわめて高い道徳レベルを持ち合わせているのです。しかも、当たり前のこととして実践しているのです。別に自国を自画自賛するつもりはありませんが、そうした日本人のすばらしさは素直に認めてもいいと思います。
 そして、世界中をもっとも驚かせているのが、日本人の冷静さです。
 たとえば、阪神淡路大震災や東日本大震災のとき、あれほどの大惨事であるにもかかわらず、暴動も起きずに、物資の供給に際してはきちんと列を保って順番を待ちました。
 これも私たち日本人としては、当たり前のことであり、特に賞賛されるほどのことではないと考えるのですが、海外の人からは驚きの目で見られたのです。実際、海外でこんな災害が起こったら、暴動が起きて、スーパーなどは破壊されて略奪が起きます。
 こうした冷静さは、不動心と勇敢さがなければ発揮できないものです。不動心や冷静さは、深い信仰心を持っている人の特徴です。

 このような日本人を見た、イスラム教のある偉い人は、こんな言葉を残しています。 
  「日本人はイスラム教徒ではないのに、イスラム教徒よりもイスラム教徒だ」
 イスラム教は、慈愛、正義、節度、助け合いの精神を土台としています。確かに、私たち日本人の生き方と共通するものを感じます。またキリスト教徒からも、同じように「日本人は理想的なキリスト教徒だ」という声が聞かれたりします。
  日本という国は、イスラム教でもキリスト教でもないのに、イスラム教的でありキリスト教的だというのです。おそらく、さらには仏教的であると言っても間違いではないでしょう。
 つまり、一見すると無宗教に見える私たち日本人は、実は非常に宗教的な民族であるということなのです。もちろん、上記のようなすぐれた日本人の特性は、文化や伝統や教育といった、他の要素によっても形成されてきたと思いますから、宗教的な面だけで解釈できるわけではありませんが、それでもやはり、宗教に対する向き合い方が正しいので、すぐれた特性を発揮しているのではないかと思うのです。
 結婚式や初詣や葬式など、状況によって違う宗教を採用する「いい加減」な民族が、なぜ宗教的だと賞賛されるのでしょうか?
 それはまさに、その「いい加減さ」にあるわけです。
 「いい加減」というのは、もちろん言葉のあやで、形式にとらわれず宗教の本質である精神性を体現しているということです。こうした日本人の宗教性を、確か禅の大家であった鈴木大拙は「日本的霊性」という言葉で表現していたように思います。

 言うまでもなく、宗教の本質は理屈ではなく、その精神と生き方にこそあるわけですから、その精神と生き方が宗教的であれば、教義などの理屈は、どうだっていいのです。教義というものは、精神や生き方を宗教的にさせるための手段に過ぎません。教義そのものが目的ではないのです。
 ところが、外国の宗教は、あまりにも教義や形式にこだわりすぎるために、本質がおろそかになってしまうのです。知識を学び教義を守っているだけで、まるで精神や生き方まで宗教的になったような錯覚を起こしてしまうのです。つまり、手段と目的が逆になっているのです。
 「イエスを信じる者のみが救われる」だとか「アラーの他に神はなし」などと言うのは、その文面通りに受け入れてはいけないのです。「イエスを信じる者のみが救われる」という真意は、私の解釈では「内なる神性を信じる者のみが救われる」ということであり、「アラーの他に神はなし」というのも、「アラー」とは内なる神性のことであると思っています。なぜなら、神性はすべての人間に宿っており、すべての人間に宿っている存在こそが神ではないかと思うからです。
 
  「アラーの他に神はなし」という教えをそのまま解釈すれば、「エホバ」と呼ばれるユダヤ教の神は神ではないことになります。日本の天照大神(あまてらすおおみかみ)も、神ではなくなってしまいます。
 このような「言葉遊び」はナンセンスです。こんなくだらないことで宗教どうしが争ったり殺しあっているなど、もうたくさんです。こんな人類のありさまを、進化した宇宙人が見たら、そのあまりにも低次元の馬鹿馬鹿しさに、あきれ果てるのではないかと思います。
 教義にとらわれている限り、世界から戦争はなくなりません。
 世界を平和にするには、「いい加減」でなければならないのです。
 その意味で日本は、世界を平和に導く可能性を秘めた国と言えるかもしれません。

 
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