心の治癒と魂の覚醒

        

人生は演劇のようなもの

 先日、タレントの小林麻央さんが34歳の若さでお亡くなりになりました。連日、大きなニュースとして取り上げられています。私は芸能界にはそれほど関心がないのですが、今回のことは特別な思いで見ていました。というのは、かつてがん患者のためのホスピスで心理カウンセラーをしていたとき、麻央さんととてもよく似た患者さんがいたからです。
 その方も麻央さんとほぼ同じ35歳の若さでがんで亡くなりました。肺がんでした。25歳くらいのときからさまざまな病気になって入退院を繰り返し、ついにはがんでお亡くなりになったのです。25歳から35歳といえば、おそらく人生でももっとも充実した幸せな年代かと思いますが、彼女はその間、ほとんど闘病生活をしていました。結婚もしていませんでした。普通に考えれば、人生を呪いたくなってもおかしくない悲惨な状況です。
 けれども彼女は、そうしたものはまったく感じることなく、とても明るく品位があり、そして何よりも、人のことを気遣う優しさ、思いやりに溢れていました。麻央さんの場合も、報道によれば、そうであったといいます。一番苦しいのは自分であるはずなのに、いつも人のことを気遣っていました。
 私たち医療スタッフは、この患者さんのそうした振る舞いに深い感銘を受けました。「神々しいくらいだ」とまで語るスタッフもいました。そして、患者の死に慣れている私たちでしたが、彼女が亡くなったときはみんな悲しみに沈みました。
 今回、麻央さんが亡くなられたニュースを見て、私はこの忘れがたい患者さんのことを思い出し、胸が締め付けられるような思いがしました。

 それにしても、こういうことがあるたびに、私はいつも思います。それは、「よい人は早く死んでいくなあ」ということです。私はたくさんの患者さんが亡くなっていくのを見てきましたが、その多くが本当によい人たちでした。なぜよい人がこんなに苦しんで、まだ死ぬほどの年齢でもないのに死んでいかなければならないのかという疑問と憤りを感じました。生きていれば、この世の中をよいものに変えていく影響力を放っていたに違いないと思えるような人ばかりでした。
 これと同じ感想を、ユダヤ強制収容所を経験した精神科医V・フランクルも述べています。「よい人は早く死んでいく」と。こうした思いを抱くのは私だけではないとわかりました。もちろん、だからといって、長生きしている人は悪い人であるというわけではありませんが。
 もし神がいて、神はこの世をよくしていくのが使命であるとするなら、なぜよい人を早く死ぬことをゆるしているのか、私にはわかりません。「神の真意は人間には計り知れないものなのだ」などと言われますが、まさにその通りなのでしょう。
 ただ私は、計り知れないのに無理に神を信じようとしなくても、単純に神はいないのだとした方が、合理的な判断ではないかと思ったりもするのですが、そのへんは信仰の問題なので、とやかく言うつもりはありません。実際、神は私たちには想像もできないような、完璧な計画を持っているのかもしれません。それを否定する根拠はありません。
 ただ私としては、単純に神はいないのだと思っています。少なくとも、人格神というものは。

 さて、私はこの患者さんのことを、講演などでよく話したりするのですが、あるとき、話を聞きにきてくれた人から、こんなことを言われたことがありました。
 「人に気を使うよい人だから、がんになったのではないでしょうか?」
 確かに、がんになりやすい性格といった記事を見ますと、「人に気を使う優しい性格」といった特徴があると書かれてあったりします。
 これを読んだとき、私は疑問を覚えました。
 「人に気を使って優しいことは、よいことである。なぜよいことをしているのに、がんになって苦しんで死ななければならないのか?」と。まさに、人生の不条理を感じました。
そして、「では、どうしたらいいというのか」と悩みました。人に気を使って優しくなったりせず、自分勝手に生きればいいというのかと。
 もちろん、がんになる原因は複雑で、単純に「よい人だからがんになる、悪い人はならない」と結論づけることはできないでしょうし、仮にそうした性格特徴が見られるとしても、その背後にある深い動機といったところまで調査しなければ、真相はわからないと思います。
 ただ、もし本当に文字通り、「人に気を使う優しいよい人ががんになりやすく、人に気を使わない自分勝手な人はがんになりにくい」ということが真実であるとしたら、私はあえてがんになる道を選ぼうと思いました。
 自分勝手に生きて、つまり、大なり小なり人に迷惑をかけたり不愉快にさせる生き方をして長生きしたとしても、それが何だというのでしょう。そんな生き方をして嬉しいでしょうか?
 人生の価値は、その長さで決まるわけではないと思います。
 たとえ短くても、それまでの人生がすばらしいもので、世のため人のためになるようなものであったら、その方がずっと価値があると思います。存在した意味があると思います。
 人生とは、演劇のようなものだと思います。人は観客であり、舞台の上に立つ俳優です。なぜなら、人は誰でも他者から見られ、他者を見ているからです。無人島で過ごすのではない限り、常に私たちは「観客」から見られている「俳優」なのです。
 長いばかりで何の感動も与えない演劇など、退屈でつまらないだけの駄作です。しかし、たとえ上演時間は短くても、すばらしい感動を与えるなら、それは名作としていつまでも人々の記憶に残り、また後世の人々の生きるお手本になります。いわゆる不朽の名作です。
 私たちは駄作ではなく、見るものをいつまでも感動させる「不朽の名作」として、人生を創造していきたいと思うのです。
「人に気を使って優しく生きてがんになるというのなら、喜んでがんになってやろうじゃないか!」
 今では、そんな反骨精神を持っています。
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コメント

斉藤 さま

おはようございます。
小林麻央さんの訃報には哀しさを感じます。
ただそれと同時に、すごい人であることも実感しています。
「生きる」ということがどういうことなのか、人の生の在り方をひとつ教えてもらったような気持ちでいます。

斉藤さまが言われたという 「人に気を使うよい人だから、がんになったのではないでしょうか?」という言葉。

これもある面からみると真実のような気がします。

上手くは説明できませんし、確信が持てているわけでもないのですが、おそらくこういうことだろう……と思うことがあります。

人が持つ共感能力。
エンパシーとかシンパシーとか言われますね。
前記事にも関連しますが、日本人は共感能力が高い。
さらに平均値で言えば、女性が高いように思います。
この共感能力が、日本人を「和」……輪を大切にする文化を形成した根本ではないでしょうか。

相手の心を推し量ることで、すべてのバランスを保つことができる……それが日本人の文化の源。

その共感能力、これが病にも強く影響を与えるのでは……と考察しています。

巷にあふれる心霊現象は、普通では見えないデータを何らかの形で受信した時に起きると考えます。
狐憑きやポルターガイスト現象は、データの誤受信や誤作動によって結果的に表れてしまった現象。

病気もそれと同じような場合もあり得ると考えます。
特に「がん」についてはそれを強く感じます。

本人が顕在意識で認知しているかどうかは別にして、共感能力が高ければ高いほど、いろんなデータを受信してしまいます。
それは空中に漂う古い意識から、目の前にいる人の感情……様々なものだと思います。
いろんなチャンネルに合わせられる分、いろんなデータを取り込んでしまう。

中には自分にとって好ましくないものもあるはずですが、気付かなければ自分自身に影響を与えてしまうことになる。
……それが悪い方に出てしまった結果が「がん」だと推測しています。

朱に交われば赤くなる……この言葉の意味は深いです。

共感応力が高い人は、相手の気持ちがわかる人。
相手からは、良い人だと思われるでしょうし、一般的に見ても良い人に間違いありません。
精神的に成熟しやすくなるかもしれません。

ですが、どこかで「共感している」と認識できなければ、良くも悪くも影響され続けるのではないでしょうか。

正直言いますと、斉藤さまのうつに関しても、この共感能力によってご自身のキャパを超えるデータを処理しなければならないことが、大きくかかわっているのではないかと思っていました。
2017-06-26 Mon 10:21 | URL | 黒いネコ [ 編集 ]
斉藤啓一です。黒いネコさま、今回もとても深く興味深いコメント、ありがとうございました。
私のうつが共感能力によるものなのかはよくわかりませんが、共感能力があると病気になりやすい傾向があるということは、確かに言えると思います。情報にアクセスしてしまうのですね。
実は、私もこれと同じようなことを考えていたところで、それをブログにしようと思っていたところです。
引き続き、よろしくお願い致します。
2017-06-26 Mon 19:56 | URL | [ 編集 ]
斉藤さま

お言葉に甘えまして、もう少し書き足しておきます。
斉藤さまの考察の参考になればありがたいです。
ある程度の理論は自分の中で出来上がっていますが、示せる証拠はありません。
すべてが、自分を含めた世界をじっくり観察して出てきたものです。

共感能力と書いてしまうと狭い現象を捉えがちになるので、本当は共振と言った方が良いのかもしれません。
データ……情報も、振動と置き換えた方が理解しやすい方が多いような気もします。

共感は、人と人だけでなく、人と物、物と物の間でも成り立ちます。
そしてこれを利用しているのがホメオパシー。
私はホメオパシーについては素人同然なので、専門家の斉藤さまに説明できるものは残念ながらありません。
ただ、情報の移行(共振)を利用しているであろうことは推測できます。
必要なのはデータ。
データをコピーする際に、明確に必要なデータを理解し、それを実行する人の意識が同様に共感(共振)すれば、効果は必ず出ると思います。
もっと言えば、体内に取り込まずとも、薬そのものを握りしめて共感すれば、同様の効果が出ると考えられます。
前に、体に良いものや悪いものを手に握らせて、力が入るか入らないかの実験をテレビでやっていましたが、この結果もまさに共感を証明したようなものでした。
人は顕在意識で認識していなくても、体で共感できます。
逆を言うと、頭で意識しても共感できるとは限らないことになります。

「朱に交われば赤くなる」そして「信じる者は救われる」ですね。

斉藤さまがうつであることをブログに書いたときに、「ホメオパシーがきっと助けになる……」とコメントしたのですが、その真意は上記のような理由です。

共感による情報過多で脳が疲弊したことが原因ではないのかと推測します。
あくまでも個人的な推論ですので、真実はわかりません。
それに引きこもって情報を遮断すれば良いということにならないのが難しいところです。
情報を受けるだけでななく、それに見合った分だけ外に出す。
受けた振動を上手く外に逃がす……言葉にすると簡単ですが、実際はそんなに簡単ではないと思います。

レイキ……これも共感によるものだと思います。
レイキの知識も素人同然ですが。

人の手には無数の血管と神経が通っています。
これが重要で、ある程度は意識的にコントロールできます。

私は頭鳴り(脳にノイズ)が四六時中あるのですが、手のひらを頭に当てると、それがかなり大きくなります。
(脳神経科の病院にも行ったことありますが、全くの健康状態です)
手のひらで起こる振動が脳に影響を与えていると思われます。

病気の子共を母親がやさしく撫でると痛みが和らぐように、共感(共振)させることにより、正常な状態に近づける。
これがレイキの基本なのではないでしょうか。

ただ、レイキというものが万人に出来て、万人に効果があるとは思えません。
人が持つ波長は個々で異なり、また部位でも違います。
なんでも同じようにやっているとするならば、悪影響を与えることもあるし、またやっている方も影響を引き受けることになります。

最初はとても人柄の良かった霊能者が、段々とおかしな言動になったり、新興宗教の教祖が暴走するのは、多くの人に対し共感してしまった結果、正常な自分の状態が失われたことによるものだと思います。

人と人との関係性は常に「1対1」。
「1 対 多数」になると、自分をコントロールできなくなります。

斉藤さまの方がご存知だと思いますが、優れた宗教家は、個で個と向き合っています。
自分という個があり、相手という個がある。
これが多数の人間を自分の意識に同調させようとすると、自分の個が失われ、崩壊してしまう。

スポーツなど、ある目的のために人が集まることとは違い、怪しい新興宗教など多数の意識をコントロールするということは、膨大な情報が自分に流れ込んでいくということになります。
これで正常な思考を保てるとは思えません。

また、カリスマ性は相手に共感させやすい能力だと思いますが、裏を返せば共感しやすい能力とも言えます。

乱文になりすみません。
この辺でやめておきます。
あまり参考にならないかもしれませんね。
2017-06-27 Tue 09:41 | URL | 黒いネコ [ 編集 ]
斉藤啓一です。黒いネコさま、再びコメントありがとうございました。いえいえ、とても参考になりましたよ。興味深く読ませていただきました。読者の皆様も同じだと思います。心や精神といった視点だけでなく、こうした、ある種の科学的な視点からのアプローチも必要だと思います。私もこれから、少しこういう方面でのアプローチを記事にしていきたいと思います。
2017-06-27 Tue 20:11 | URL | [ 編集 ]
斉藤 さま

少し問答させてもらっても良いですか?

キリストの言葉。
「あなたを訴えて、あなたの下着を取ろうとする者には、上着をも与えろ……」
これを聞いたときに、受けり方は様々だと思います。
・暴力に暴力で返してはいけない。
・復習してはいけない。
・求めるものは誰でも助けなさい。

でも私はそういう解釈には引っかかってしまいます。
後の人が、キリストの行動や言葉を自己解釈して残したものだと感じています。

キリストは目の前にいる相手に向き合って、いくつもの会話をしていたことと思います。
その情景を想像するに、モノを奪われた人がいて、それほど高価ではないにしろ、それをくやしく思い、なんとか取り返そうといらだっていた人に向けての言葉ではないかと思います。

そしてその真意は、「あなたの価値は、着ているモノではありません。」のような気がします。
それを持つことで、あなたの価値を下げる(いらだつような行為)のなら、それはあなたに必要なのですか?……ではないのでしょうか。
キリスト自身がその相手に対して、衣服でなくあなたの内面を見てるのですよ、と言ってるような気がします。
キリストは、キリストと相手との関係性を言葉にしたのであって、相手と第三者との関係性を命令口調で示したとは思えません。

対話や言葉は、その相手に向けて発したものです。
今向き合っている相手に対して必要なものを発していると考えます。

そして100人いれば、100通りの受け取り方がある。
私はそれで良いと考えています。
キリストの真意はキリストにしかわかりません。

ただ、ある特定の相手に対して放った言葉を、後の人がその状況までをすべて含めて把握することは不可能であるはずなのに、その解釈はこうである……みたいに教えを広めるのは、かなり疑問を持っています。

イスラムの偶像崇拝禁止もそういうところが発端になっている気がします。
器に気を取られ、本質を見ない……(この人は前に良いことを言ったから、きっとえらい人だ。この人の言うことは全部正しい)というような、過去に作り上げられたモノで今を語っても、それは真実とは言えない。そういうことだったのではないでしょうか。
だから、偶像を敬うな……となってしまったのでは。

斉藤さまは、どうおもわれますか?
今の宗教の「教え」は、固定解釈されてしまい、受け取り手の自由は奪われ、とても救いには程遠いと思っています。

世の中にいろんな「教え」が溢れかえっています。
でもそれは「きっかけ」であり、自分なりの解釈で理解した時に初めて「血肉」になるように思います。

お暇な時で良いので、お考えをお聞かせください。
よろしくお願いします。
2017-06-30 Fri 11:19 | URL | 黒いネコ [ 編集 ]
斉藤啓一です。黒いネコさん、コメントありがとうございました。あえて私の考えを述べる必要もないほど、黒いネコさんのお考えに同感ですね。そもそも二千年も前の人物の言動を、しかも間接的に描いたものだけでそれを普遍的な教えに固定化しようとすること自体に無理があります。さらに、高い意識レベルにある人の教えというのは、深い意味や象徴的な意味が込められていることが多いので、その点を凡庸な後の人が解釈すれば、当然、凡庸な教えとなり、それをキリストの教えだと限定することにも無理があると思います。そうした教えをただ受け入れても血肉にはなりません。そうした教えをヒントとして、あくまでも自己の内面にイエスや、その他、聖者たちの真意を構築させるのでない限り、しょせんは借り物でしか過ぎず、借り物では真に教えを理解し実践することは不可能であると私は考えます。

2017-06-30 Fri 19:13 | URL | [ 編集 ]
斉藤 さま

ありがとうございます。

自分ではド真ん中を歩いているつもりでも、気が付くとどちらかに偏っていたり、一般的な思考を持てているのかを考えてしまうことがあります。
斉藤さまの意見からみれば、私もまだ大丈夫なようでした。

2017-07-01 Sat 08:32 | URL | 黒いネコ [ 編集 ]

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