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心の治癒と魂の覚醒

        

正直に道を歩む

 「裸の王様」という、誰もが知っているお話があります。詐欺師の仕立て屋から「馬鹿には見えない布」で作られた服だと言われ、王様がそれを着たつもりで街を歩きます。王様も民衆も自分が馬鹿だと思われたくないために見えるふりをしますが、ひとりの子供が「王様は裸だ!」と叫んだことで、自分たちはだまされていたことに気づくというストーリーです。
 この話はとても教訓的で、あらゆる状況に当てはまるものと思いますが、とりわけ宗教の世界にはよく当てはまるのではないかと思います。
 宗教の世界でよく言われるのは、「(この教えのすばらしさは)信仰の薄い者には理解できない」という言葉です。信者たちは、自分の信仰が薄いと思われたくないし、思いたくないので、教えに対して疑問があっても、疑問がないふりをし、この教えはすばらしいと信じ込もうとするのです。
 このような、言いたいことがいえない、ある種の「言論弾圧」がまかり通ると、創造性というものが失われてしまいます。
 どのような分野であれ、創造性なくして進歩はありません。進歩とは創造性によってもたらされます。創造とは、新しいものを生み出すことですから、当然、古いものは否定されます。古いものが否定されなければ創造はできません。
 しかし宗教においては、古いものを否定することはタブーなのです。教祖の語ったことを否定することはタブーです。もしそれをすると、その宗教の根幹を揺るがすことになるからです。組織は崩壊し、組織に依存していた人たちは困ることになります。
 そのために、何百年も何千年も前に生まれた宗教を、ほとんどそのまま信じ込んでいるわけです。つまり、進歩がないということです。
 ここにはまた、「教祖の語ったことは完璧だから、これ以上、進歩する余地はない」という考えがあるのかもしれません。
 しかし、世の中に最初から完璧なものなど、存在するでしょうか?
 最初に限らず、完璧なものなど、存在するでしょうか?
 地上のすべてのものは、進化していく存在だと思います。あらゆる生きものも、科学も文明も、すべてが進化の途上にあります。永遠に進化し続けていくのです。永遠に進化し続けていくということは、永遠に未完成ということです。完璧な状態は存在しないということです。
 生命というものは進化し続ける存在です。進化しないとしたら死んだ状態です。宗教も同じように、進化しないとしたら、それは死んだ宗教であり、死んだ宗教に人を救う力があるとは思えません。
 そもそも人間そのものが進化しているのですから、宗教もそれに応じて進化していくべきではないかと思うのですが、あいかわらず古い宗教を信じているのです。

 たとえば、「雷は神が怒っている証拠であり、神の怒りを静めるために動物を生け贄に捧げなければならない」といった宗教は、太古にあったようですし、今でも未開の地ではこうした宗教を信じている人々がいるかもしれませんが、文明社会に生きる現代の私たちから見れば、あまりにも原始的で幼稚であり、宗教というより迷信のように思われるはずです。
 雷の正体は、大昔はわからなかったので、あのものすごい音と光に接すれば、「神の怒り」のように思えても仕方がなかったのでしょう。しかし科学が進歩して雷の正体が静電気の大きなものに過ぎないことがわかっている私たちは、「神の怒り」などとは思っていません。そのようなことを説く宗教はありませんし、あったとしても馬鹿馬鹿しくて誰も信じないでしょう。
 ところが、仮に国民の大部分がこの宗教を信じていて、政治や経済に大きな影響を与え、この宗教の教えに反することを口にしている人を迫害するとしたら、どうでしょうか?
 おそらく、ほとんどの人は、怖くて反抗できないでしょう。内心は疑問を抱きながらも、それを打ち消すかのように、信じているふりをするでしょう。「雷の正体は電気だ」と提唱する科学者がいたら、その地位を奪われ、社会から葬り去られるでしょう。
 しかし、これと同じようなことは、宗教の世界で実際に起こってきたのです。
 たとえば、キリスト教では、ご存知のように天動説を主張し、地動説を認めていませんでした。地動説を唱えたガリレオは宗教裁判にかけられて迫害されました。結局、正式にキリスト教会が自分たちの天動説が誤りでガリレオの地動説が正しかったことを認めたのは、何と1992年なのです。さすがに、いくら熱心なキリスト教徒でも、天動説を信じている人はいなかったでしょう。その人たちは自分を欺いていたのでしょうか?
 天が動こうか地が動こうが、そんなことはキリスト教(イエス)の教えにとってどうでもいいことではないでしょうか。そんなくだらないことのために、火あぶりにあって殺された人がいたのです。それが、「愛の宗教」を自認するキリスト教のやることなのでしょうか?
 地動説を認めたことは、ひとつの進化と言えるかもしれませんが、ガリレオの時代から四百年近くもたってから、しかも、しぶしぶ仕方がなく、といった感じですから、とても自ら進化しようという意志がないことは明白です。

 地動説の場合は、数学や物理という、誰が見ても否定しようがないエビデンスをつきつけられたわけですから、反論のしようがありませんでしたが、その他の大部分は、実証できないものばかりです。たとえば、「イエスは神の一人子であり、イエスが人類の罪を代わりに背負ってくれた」と言われますが、それを実証することはできないでしょう。肯定も否定もできないわけです。
 あるいは、日蓮宗では「南無妙法蓮華経」と唱えれば救われると説き、「南無阿弥陀仏」を唱えると地獄に堕ちると主張しています。しかし、それを実証する手段はありません。経典に書かれてある文言を根拠にしても、その経典そのものが真実かどうか実証できないのですから、意味がありません。結局、地獄に堕ちるかもしれませんし、堕ちないかもしれない。わからないのです。
 そうなると、結局のところ、それをどう判断するかは、自分自身にかかっていることになります。自分はどう考えるかということが、もっとも重要ではないかと思うのです。
 一番いけないのは、本心では疑念を抱いていながら、でも長い伝統もあるしたくさんの人が信じているからという、ある種の「権威」に惑わされて、信じているふりをすることです。
 いうまでもなく、信じているふりでは、本当に信じていることになりませんから、その信仰には意味がなく、やらないほうがましです。
 もちろん、自分の疑念が間違いである可能性もあります。しかし、間違いだとわかったら改めればよいだけのことです。そうすれば、しだいに本物に近づいていくでしょう。しかし、信じているふりをしている限り、本物に近づいていくことはありません。
 裸の王様の物語も、大人たちが権威だとか、自分の虚栄心(エゴ)に弱くてだまされやすいということを突いているのだと思います。王様が裸であると言えば、自分が馬鹿であることを表明することになるし、同時に、王様がだまされていることを指摘することになります。つまり、だまされるほど王様は馬鹿だと言っていることになります。権威ある人を「馬鹿だ」などと言えません。しかし、子供はそうした権威にとらわれていませんから、自分に正直になって、自分に見えたものをそのまま口にしたのです。私たちは、この子供の正直さを見習うべきだと思います。求道者というものは、正直でなければならないと思うのです。

 繰り返しますが、権威にとらわれてはいけません。もともと宗教に権威などは必要ないと思うのですが、権威がないと人が集まらないのでしょう。そのことをよくわかっているので、宗教の世界でも権威を利用しようとするのです。
 宗教組織に限らず、たとえば巷では、覚者を名乗る人たちがいます。そして、自分はヒマラヤで修行したとか、偉い聖者の弟子だとか、前世は偉大な聖者だったとか、インド政府から聖者として認められたとか、多くの弟子に囲まれているとか、とにかく「すごいなあ」と思わせるような、さまざまな権威づけをしています。
 そうした権威を知ってから、その「覚者」の話を聞くと、内容的にはまったくつまらないものであったとしても、何となくありがたく、すばらしいものに聞こえたりするものです。
 ですから、そうした人たちの話を聞きに行く際には、まず権威という背景を頭から追い出して、先入観のないまっさらな心で聞くことを勧めます。むしろ、「そのへんにいるおじさんの話」くらいに思っているくらいでよいかと思います。
 そして、それにもかかわらず、その話に感銘を受け、心に響くものを感じたならば、その人は確かに「覚者」の可能性があるのかもしれません。少なくともあなたにとっては、教えを受ける価値がある可能性があります。
 とはいえ、それでも道を歩む主体はあなた自身です。人の言いなりではなく、自分自身で舵を取っていかなければなりません。そのためには、権威に惑わされず、自分に正直になって、違うと思うなら違うと思うと、はっきり言えるようでなければなりません。そうしてこそ、創造性がそこに生まれ、あなたの宗教(信仰)は進化していきます。真理に近づいていきます。
 そのような姿勢は、宗教組織からは敬遠され排除されることになるかもしれません。異論をはさまず伝統的な教えをみんな同じく共有する(盲従する)ことを強要しているからです。
 しかし、真の霊性向上は、こうした、ある種のマスプロ教育などでは達成できません。ひとりひとりが創造性を発揮して、「自分だけの宗教」を見出さなければならないのです。人間の数だけ宗教の数があるのです。真の宗教とは、基本的に「オーダーメイド」なのです。自分で、自分の宗教を創り上げていかなければならないのです。
 ですから、宗教の本来の目的である霊性の向上と真理を求めようとするならば、つまり、本当に宗教の道を歩もうとするならば、必然的に、孤独な道を歩むことになるでしょう。

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コメント

斉藤さま

同感です。
信仰とは、本来、内に向かうべきものだと思います。
誰かに説いて回るべきものでないですよね。
誰かに説いて回ることを生業とした時、それは単なる職業で、学者や教師、医者や士業と同じです。
確かに知識はあるけれども、上手い下手の個人差は大きく、肩書で選ぶと痛い目を見ることも少なくありませんし。

斉藤さまの記事から、迷いがすっかり消えたような感じがします。
冷静に、軸足がしっかりと踏ん張れている印象です。
何かに没頭する研究者のようです。

私は一般の人より感度が高いようで、いろんなものを感じます。
でもそれにはきとんとした理由があり、「高次の存在からの働きかけがある……」なんていうことは、とても思えません。
昔は誰にでも備わっていたけれど、時代とともに必要とされなくなって、どんどん忘れてしまった能力……そういうものだと思います。
誰でも訓練次第である程度の能力はよみがえる気がします。

霊感を語る世界や科学の世界も、思い込みが強い世界で、そのせいで目が曇ってしまっているのではないでしょうか。
きちんと冷静に研究していけば、多くの謎は解けるように思います。

先日の大雨による災害。
「災害は忘れたころにやってくる」ですが、たくさんの人が、災害にしっかりと目を向けていくことで、それは軽減されていくと考えています。
災害だけでなく、戦争や事故も同じです。
上手く説明はできません。
知識も語彙力も足りません。
ただ人が周りに与えるエネルギーは、意識や感情によって動きが変化することを伝えておきたいです。
バランスを良くするのも悪くするのも、そこにいる人次第です。
過去に起きた自然災害や大事故など、人々のその時の生活状況と照らし合わせていけば、何かが見えてくるのではないでしょうか。

正負のバランスが保たれている時が一番安定していて、どちらかに偏ると不都合が噴出してしまいます。
ですから、自分の信仰を押し付けに説いて回る行為は危険だと思います。
日本はバランスが良い国です。
他者の意見を尊重することを忘れてしまうと、それも崩れてしまいそうな気がします。

乱文失礼しました。
2017-07-11 Tue 11:28 | URL | 黒いネコ [ 編集 ]
斉藤啓一です。黒いネコさま、コメントありがとうございました。おっしゃるように、ひとことでいうと「バランス」ですね。理想と現実のバランス、自己と他者のバランス、etcですね。極端な偏りは真実から遠ざかると思います。ともすると、宗教やスピリチュアルにはまっている人は、このバランスが欠けている傾向があるように思います。皮肉なことに、宗教の敵は、その宗教を批判する人ではなく、その宗教にはまっている信者である場合が多いです。
2017-07-11 Tue 22:43 | URL | [ 編集 ]
私は18才の頃に「カバラ数秘術」を読んで以降、先生のファンです。ファウスト博士は最高に面白かったです。私は先生は天才だと思います。これからも素晴らしい本をお書きいただきたく思います。先生のカバラの師匠はユダヤの方ですか?
2017-07-11 Tue 23:48 | URL | 尺八法師 [ 編集 ]
斉藤啓一です。尺八法師さま、コメントありがとうございます。また、拙著をご愛読くださり、感謝申し上げます。
私には、特に師匠という人はおりません。カバラは、当時は翻訳された本はほとんどなかったので、洋書でコツコツ学びました。これからもご期待にお応えできる本を書いていきたいと思います。よろしくお願い致します。
2017-07-12 Wed 20:04 | URL | [ 編集 ]

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