心の治癒と魂の覚醒

        

執着を捨てるために重要な二つのアプローチ

 覚醒するには、自力と他力の両方の要素が大切です。これについては、今後また詳しく述べたいと思いますが、覚醒していない私たちは、基本的には自分で自分を救う力はありません。神あるいは自分の真我といった、物質次元を超えた霊的な次元から引っ張り上げてもらわなければならないのです。ですから、覚醒という難事業であっても、自分の力で成し遂げるわけではなく、ある意味では「お任せ」でいればいいわけです。そう思うと、少し肩の荷が軽くなった感じがするのではないでしょうか。
 もちろんだからといって、何もせずただじっと受け身で待っていればいい、というわけではありません。神は私たちを引き上げてくださろうと常に努力してくれていると思うのですが、それができない事情があると思うのです。

 その事情とは、私たちが自ら「引き下がろう」という思いを持っていることです。すなわち、地上の物質的な事柄への執着です。これが「引き下がる」という言葉の意味です。
 たとえるなら、私たちはたくさんの荷物を手に抱えているので、さすがの神様も、重くて引き上げることができないのです。したがって、私たちは「荷物」を捨てて軽くならなければなりません。そしてそれは、私たちが自力で行わなければならないことなのです。
 すなわち、物質的な事柄への執着をなくしていくことです。この「重り」を捨てれば捨てるほど、砂袋を落とした気球のように、上昇していくようになります。何年も何年も、瞑想や呼吸法やマントラや奉仕といった修行を続けているのに、あまり進歩がないとしたら、物質的な事柄への執着のせいかもしれません。砂袋をゴンドラの中にたくさん持っていては、いくらバーナーの炎を燃やしても、気球は上昇しません。それと同じようなものです。

 ところで、執着というと、食欲や性欲、物欲や権力欲といった、私たちに快楽や喜びをもたらす事柄への執着を思い浮かべるかもしれません。しかし、執着はそれだけではありません。まったく逆に、苦しみや悲しみ、絶望や暗さ、孤独や失意といった、私たちが歓迎しない事柄に対する執着もあるのです。意外に思われるかもしれませんが、たとえば「自己憐憫」というものを考えてみてください。これなどは、ネガティブな事柄に執着し、それに酔っているような状態なわけです。
 苦しみや悲しみや暗さといったものを慢性的に抱えている人の多くは、それらに執着しており、潜在意識では、それを手放したくないのです。つまり、苦しみたいから苦しんでいるのであり、悲しみたいから悲しんでいるのです。もちろん、そういったものを求めているのは、自我(という偽りの自己)であり、魂ではありません。
 魂は、苦しみも、この世的な快楽も、両方とも求めてはいません。もっとすばらしい喜びがあるので、そのような喜びを求める必要がないからです。高級レストランのステーキを食べている人が、街角の牛丼屋などに入りたいとは思わないようなものです(上手な例えでなくて申し訳ありません)。

 そこで、物質的な事柄に対する執着を捨てていくには、快楽的な事柄への執着だけでなく、苦しみへの執着を捨てていくという方向が重要になってきます。もう少し具体的にいえば、「苦しんでいる自分」を捨てるということです。「苦しみや悲しみに快感を覚えている自分」を捨てるのです。つまり、ちょっとしたことで、くよくよと悩んだりせず、湧き上がる感情をさらりさらりと、淀みなく川のように流していくことです。喜びにも苦しみにもとらわれない心境をめざすのです。
 両者は基本的にコインの表と裏のようにひとつなので、苦しみへの執着を捨てることで、快楽への執着を捨てることもできるようになってきます。快楽への執着を断ち切れなければ、苦しみへの執着を断ち切る努力をすることで、快楽への執着を断ち切ることができるようになってくるのです。
 そうして、どんどん自分を軽くしていくことで、どんどん上に引き上げられていきます。瞑想やその他の行法も大切ですが、こうした取り組みも非常に大切なのです。

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コメント

斉藤先生 こんにちは。

「快楽や苦しみ、悲しみに執着することが私たちを引き下げている荷物である」大変わかりやすく、なるほどと思いました。重いと思っているにもかかわらず、離したくないという無自覚な逆説的な思いを同時に持っているとは、そのとおりだと思いました。
私が思い当たるのは、「不機嫌になること」です。自分にも周りにも不要な荷物であると今は気付いて、無駄だとなんとか解消できるようになりつつありますが、前は不機嫌が嫌にもかかわらず、それを大切なこだわりのように、誇りさえ感じて半分得意な気持ちになっていました。これも重いお荷物でした。

「この世の全ては無常で、変化が不可避であることを受け入れれば、快楽も苦しみも、過去にこだわることなく、将来の心配もなく、今この瞬間として楽しみ、手放せる」読んだ本にあった言葉です。

2010-06-28 Mon 12:07 | URL | WakayamaKajimoto [ 編集 ]
斉藤啓一です。コメントありがとうございました。
「この世の全ては無常で、変化が不可避であることを受け入れれば、快楽も苦しみも、過去にこだわることなく、将来の心配もなく、今この瞬間として楽しみ、手放せる」
とは、なるほどそうですね。
私たちは、旅人なのだと思います。この短い人生という場所に、つかのまの滞在をしているだけなのでしょう。いずれはすべてを手放して、ここを去らなければなりません。そう考えると、執着をすることは愚かなことだと、そんな気もしてきますね。
2010-06-28 Mon 19:33 | URL | 斉藤啓一 [ 編集 ]

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