カルマの法則は本当にあるのか?(1)2017-11-03 Fri 13:55
魂や生まれ変わりを論じるときに、切っても切れない教えが「カルマの法則」です。 カルマとはもともとインドの言葉で「行為」を意味しますが、今日、カルマというときは、「過去に犯した悪い行為の因縁」、「不幸の種」といった意味で使われているようです。ひらたくいえば、カルマの法則とは「因果応報の法則」ということです。すなわち、善い行為をすれば幸せな運命が、悪い行為をすれば不幸な運命が訪れるという思想です。 カルマの法則というものは、本当に存在するのでしょうか? もし存在するとしたら、大前提として、この世に善と悪というものが存在していなければなりません。そして、何が善で何が悪であるかということを、完璧に判定できる何らかの知性的な働きが必要不可欠です。 では、この世に善と悪というものは、果たして存在するのでしょうか? 「この世」という定義を「人間社会」とすれば、確かに善悪は存在しますが、それは人間が作り出した価値基準です。しかし人間は完全ではないので、その善悪の価値基準も完全とはいえません。実際、善悪の基準は、その社会や文化によって異なりますし、時代によっても異なり、状況によっても異なります。たとえば殺人は悪とされますが、戦争では殺すことが善となります。 あるいは、家族を飢えから守るために食べ物を盗むという行為は、善なのでしょうか? それとも悪なのでしょうか? 盗む行為は悪でしょうが、家族を飢え死にさせるのも悪です。もし盗み以外にどうしても他の方法がない場合、盗んで家族を救うのが善なのか、盗まないで家族を飢え死にさせることが善なのか、いったいどちらが善だと判断できるでしょうか? 世の中の善悪というものは、そう簡単に判断できるわけではないのです。 すると「いや、動機が大切なのだ」という人もいます。動機さえよければ、何をしても悪にはならないのでしょうか? ならば、テロリストたちは、彼らなりに「善い事」をしているはずです。テロは悪ではないのでしょうか? このように、善悪というものは不完全な人間が作り出したもので、しかもその判定基準はかなりあいまいです。極論を言えば、善悪というものは単なる幻想です。 この宇宙には、善悪というものはないのです。ただ現象だけが存在しているだけです。たとえば、地球に隕石がぶつかって人類の半分が死んでしまう事態が起きたとしても、それは善悪の問題ではありません。ただそういう現象が生じたという、それ以上でも以下でもないのです。宇宙的な視野から見れば、人間が勝手に「これは善、これは悪」と決めつけているに過ぎません。 カルマの法則というものは、前世や来世といった、地上世界を超えた領域まで作用しているということですから、人間が作り出したものではなく、宇宙的な法則のようなものなのでしょう。しかし、いま述べたように、宇宙には善悪というものは存在しないのですから、カルマの法則というものも存在しないことになるのではないでしょうか。 仮に、カルマの法則というものが、「作用・反作用」といった物理的な因果律であるとしても、うまく説明できません。たとえば、「人を殺せば人から殺される」という因果律であるなら、その最初はどうなるのか、という問題があります。たとえば、AがBに殺された場合、Aは前世でBを殺していたことになります。その前の前世ではBはAを殺したことになります。そのようにして前世をさかのぼっていくと、いったい誰が最初に殺したのかという疑問が生じてきます。仮にどちらかだとしたら、その人が相手を殺した因果律をどう説明するのでしょうか。つまり、カルマの法則では説明できなくなってしまいます。 視点を変えて言うと、たとえば、私が誰かを殺したとします。これは悪業を犯したことになり、いつかその報いを受けなければならない(カルマを解消しなければならない)ことになりますが、もし前世で相手が私を殺していたとするなら、今回、私が相手を殺したのは、相手にとってはカルマの解消ということになります。すると、今回の私の殺人は、悪いカルマとはならないのでしょうか? 借金にたとえるなら、相手から借金を返してもらったのであって、私が新たに借金をしたことにはならないからです。 つまり、私たちは何らかの行為が、新たな借金を作る行為なのか、それとも、相手から借金を返してもらう行為なのか、わからないことになります。もし前者ならその悪業の報いは受けるでしょうが、後者なら悪いことをしても報いを受けないことになってしまいます。誰かに善意を施しても、それが前世で相手から施された善意への「恩返し」であるとしたら、善行為をしても幸運が訪れることはないわけです。 これでは、カルマの法則はまったく当てにならないものとなります。 ところで、カルマの法則は、人間だけに当てはまるのでしょうか? 動物には当てはまらないのでしょうか? 「動物は本能で生きているので、カルマの法則はない」と言うかもしれません。では、虐待されてひどい苦しみを味わって殺されている犬猫と、優しい主人に飼われて苦しみなく一生を終える犬猫の違いというのは、どう説明するのでしょうか? 犬猫クラスになると、それなりの苦しみも喜びも感じるはずです。ある犬猫は苦しみを味わい、ある犬猫は喜びを味わって死んでいく、これが単なる偶然だとするなら、不公平だといわざるを得ません。 では、動物にもカルマの法則があるとしたら、虐待された犬猫は前世で人間を虐待したことになります。しかし、そのようなことは考えられません。 ある人は「動物は群魂だから、個体は関係ない」と言います。しかしこれは説明になっていません。群魂とはひとつの魂を複数の個体が共有していることを言いますが、どう見ても苦しんでいる動物と苦しんでいない動物がいます。郡魂をも持ち出しても、不公平な感じは否めません。 私は、動物と人間との間に、それほど大きな本質的差異があるようには思えません。ただ他の動物より前頭葉が発達しているというだけです。それなのに、動物にはカルマの法則はなく、人間にはあるとするなら、いったい何の根拠をもって動物と人間との間に明確な線引きをしたのかという疑問が生じてくるのです。 動物には、おそらく善悪の判断能力はないと思います。ゾウなどは仲間を救う行為をすることがありますが、それは善とか悪といった考えからではなく、本能的な仲間意識のようなものから来ていると思われます。 つまり、動物の世界に善悪はないのです。動物は「悪い行為」をすることも「善い行為」をすることもありません。本能にしたがって生きているだけです。それなのに、苦しむ個体と苦しまない個体がいるというのは、どうもすっきりしません。 こう考えても、カルマの法則というものが、かなりあいまいなものに思えてくるのです。 また、カルマの法則が、「悪いことをした行為を反省させる」という目的があるのだとしたら、その報いは来世などより現世で生じた方がずっと効果的です。 現世であれば、「この苦しみは過去のあの悪業の報いなのだな」と反省してあらためることもできますが、記憶がない来世で報いを受けたとしても、いったい何の行為に対する報いなのかわからず、反省のしようがありません。 なのになぜ、悪業の報いが来世にまで持ち越されてしまうのでしょうか? 反省を促すという目的があるなら、これは合理的なやり方ではありません。 以上のように、因果応報を説くカルマの法則は、一見すると合理的で、ありえそうにも思われるのですが、よく考察してみると、いろいろな矛盾や不合理的なところがあり、素直にその存在を信じることができなくなってくるのです。 では、カルマの法則などという考え方は、どこから生まれてきたのでしょうか?(続く)。 スポンサーサイト
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