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心の治癒と魂の覚醒

        

カルマの法則は本当にあるのか?(2)


カルマの法則(因果応報の法則)という考え方は、どのように生まれたのでしょうか?
 高度な霊的能力を獲得した覚者や霊能力者によって、カルマの法則があることを発見したのでしょうか?
 仮にそうだとすると、すでに見たように、霊的な世界というものは、基本的に自分の想念が投影された世界です。平たく言えば、自分の想念を見ているのです。要するに幻想なのですが、非常にリアルに見えるので、自分の想念が作り出した幻想であることに気づかず、真実であるかのように勘違いしてしまうのであると、私は考えています。いかに偉大な覚者や霊能者であっても、肉体をもっている限り、完全ではありません。彼らの目撃したものや見解も、絶対に正しいとは言えないのです。
 「善いことをしたらよい報いが、悪いことをしたら悪い報いを受けるべきだ」という気持ちがあれば、その思いが投影されて、やはりそのような仕組みの存在を目撃することになるでしょう。

 確かに、私たちはこうしたいわゆる「勧善懲悪」の考え方が、とても腑に落ちるというか、共感します。誰もがそうあるべきだと思うでしょう。
 しかし、現実はどうでしょうか。人を苦しめる悪人がその報いを受けることもなく恵まれた一生を終える場合もありますし、人を助けることに努力を惜しまない善人が不幸や不運に見舞われて一生を終えることもあります。
 私たちは、このようなことを目の当たりにすると、悔しさや憤り、不条理な思いにかられて不愉快な気持ちになります。まして、自分自身が誰かに不当に虐げられた場合、そのひどい相手はいつかその悪業の報いを受けるべきだ、いや、必ず受けるに違いないという、強い怨念を伴った期待感を抱くものです。
 それなのに、その報いを受けて苦しむことなく一生を終えてしまったら、腹の虫がおさまりません。この不条理な出来事を受け入れることができません。そこで、何か腹の虫がおさまるような理屈を考え出すのです。
 それが「来世」です。来世という検証不能なものを持ち出し、「来世でその悪業の報いを受けて苦しむのだ」と思い込むことで、腹の虫をおさめようとするのです。不条理という不愉快な現象を解消しようとするわけです。霊能者はその強い思いを外部に投影して「カルマの法則」というものを見るのではないかと考えられます。

 また、現世での不幸の原因も「過去生」の悪業のせいにします。
 私たちは、意味のない苦しみには我慢できない性質を持っています。意味があれば、苦しみに耐えられる気がするのです。そのために、さまざまな意味づけをするわけです。たとえば、「これは神が与えた試練だ」といった具合です。そして、カルマの法則では、「これは過去生で犯した悪業の報いである」とし、「その悪業の報いを受けることで悪のカルマが浄化されて幸せになっていくのだ」となるわけです。そのような意味づけをすることで苦しみを受け入れ、耐えていこうとします。
 あるいは、次のような場合も考えられます。
 それは、非常に悲惨な不幸に見舞われている人を見たときの恐怖心によるものです。
 身の毛もよだつような不幸に見舞われている人を見たとき、私たちは「自分もああなるかもしれない」という恐怖心を抱きます。しかしそんなことは自分には起こって欲しくありません。そのために、その不幸な人と自分とは違うのだという理屈を見つけようとするのです。しかし、そのような明白な理屈は見つかるはずがありません。そこで、はやり検証不能な領域にその理屈を探すのです。それが「過去生」です。過去生で悪いことをした報いであるとか、何か悪いことをした天罰だとか呪いといったものを持ち出し、自分はそんな悪いことはしていないはずだから大丈夫だと安心しようとするわけです。
 らい病という、肉体が変形してしまう病気に罹った人たちのことを、むかしはそのように見なして、あからさまに差別してきました。過去に何か悪いことをしたから、あのような悲惨なからだになるんだと蔑まれ、嫌悪され、隔離されてきたのです。そのために、どれほど筆舌に尽くしがたい苦しみを受けたことでしょうか。

 しかし、カルマの法則を本気で信じている人からすれば、らい病患者は過去生で悪いことをしたせいであると言うはずです。
 あるいは、イエス・キリストなどは、迫害されて十字架で殺されましたが、これもカルマの法則によれば過去生で悪いことをした結果だということになるでしょう。
 では、解脱してカルマをすべて清算したはずの釈迦はどうでしょうか?
 言い伝えによれば、釈迦はデーバダッタという、釈迦の名声を嫉妬した人物から嫌がらせを受けたとされますし、最期は毒キノコを食べて苦しんで死にました(少なくとも肉体的には)。もし解脱して過去の悪業を清算したのだったら、このような苦痛を味わうことはないはずです。カルマの法則を信じているのであれば、釈迦も過去の悪しきカルマのせいで苦しんだことになるでしょう。
 しかし、イエスや釈迦の苦難をカルマの法則によって過去の悪業の報いだと言う人には会ったことがありません。それなのに、らい病患者や、不幸や苦しみにある人に対しては、「ああなったのは過去の悪業の報いだ」などと言うのです。これはおかしなことです。仏教ではカルマの法則を信じています。ならば、釈迦の災難も過去の悪業の結果であるとするのが当然かと思いますが、そんなことは口にしないのです。

 また、過去の悪業(カルマ)は、苦しむことによって解消されるとされています。
 だとすると、苦しんでいる人はカルマを解消しているのだから、苦しむのがよいことになってしまいます。苦しんでいる人を助けることは、カルマの解消の邪魔をすることになるので、助けてはいけないことになります。病気で苦しんでいる人を助けるべきではなく、薬を飲んで治そうとするべきではないということになるでしょう。苦しんでカルマが解消されるという理屈が真実なら、病気は何もしなくても、苦しんでいれば自然に治るということになります。苦しんでいる人を助けなくても、その人は苦しんでいれば自然に助かることになります。むしろ、助けることは、カルマの解消を邪魔するという「悪しきカルマ」を積むことになるでしょうから、助けることは悪いことだという理屈になってしまいます。
 これはあきらかにおかしなことです。
 「いや、カルマが解消されたから助けられたのだ」と言う人がいるかもしれませんが、それはあとづけ講釈といいますか、結果論に過ぎません。助けられればすべてカルマが解消したことになるわけで、それならば、わざわざカルマの法則などを持ち出して、苦しめばカルマは解消されるなどと言う必要性はなくなります。苦しんでいる人はすべて助けてあげればいいからです。

 以上のように見ていくと、カルマの法則というものは、あいまいというか、かなりいい加減な考え方だということがわかってくるのです。
 人生というものは、もちろん、自らの悪業が招いた報いとしての不幸というものはあるでしょうが、過去生だとか、そういう得体の知れない領域を持ち出して現在の不幸や苦しみの原因にすることには、無理があるのです。
 どんなに立派な人であっても、覚者や聖者であっても、不可抗力的に不幸や災難に遭うときは遭うのです。それは過去のカルマの報いでもなければ、本人が悪いせいでもなく、「引き寄せの法則」などといったものでもないのです。過去に悪いことをしていなくても、心の中に不幸を呼び寄せる思いがなくても、不幸災難というものは、訪れるときは訪れるものなのです。
 もちろん、真実はわかりません。カルマの法則はあるのかもしれません。しかし、それはわからないのです。わからないのに、それをあると信じるのは、「信仰」であるとも言えるかもしれませんが、「迷信」であるとも言えるわけです。
 私の個人的な思いを言わせていただければ、カルマの法則などというものを信じて、不幸や苦しみにある人にムチを浴びせるようなマネはすべきではないと思っています。

 「しかし、カルマの法則を信じていれば、人は善いことをしようとするだろうし、悪いことはしないようにするだろう。だから、カルマの法則を信じることはよいことである」
 このように言う人がいるかもしれません。
 次回は、この点について考えてみたいと思います。
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コメント

幸福と平和の祈り

神様聖者様
罪と苦しみが消えてなくなる
私が幸せでありますように
みんなが幸せでありますように
神様ありがとうございます
聖者様ありがとうございます
2017-11-13 Mon 14:35 | URL | 滝澤通孝 [ 編集 ]
斉藤啓一です。滝澤さん、コメントありがとうございました。祈りの内容はともかくとして、こうした祈りを愛を込めて祈ろうとする気持ちそのものが、何よりも尊いことだと思います。
2017-11-13 Mon 15:21 | URL | [ 編集 ]
斉藤先生、ありがとうございます。

幸福と平和の祈りを肯定される斉藤先生は愛と真の人です。
2017-11-14 Tue 07:42 | URL | 滝澤通孝 [ 編集 ]
 斉藤先生お久しぶりです。確かに今世において罰されたほうが悪行の報いとはっきりわかって合理的でしょうね。やはり業(カルマ)は存在しないのでしょうか?
2017-11-16 Thu 12:51 | URL | ワタナベ [ 編集 ]
斉藤啓一です。ワタナベさん、お久しぶりです。コメントありがとうございました。カルマは存在しないかどうかですが、わかりません。ただ、存在しない可能性もある、ということを伝えたいと思っており、それゆえカルマの法則に依存せずに人間として正しい生き方ができることを目標にするべきではないかと考えているのです。
2017-11-16 Thu 13:04 | URL | [ 編集 ]

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