心の治癒と魂の覚醒

        

執着を捨てるために 2

 快楽的な事柄への執着であれ、苦しみへの執着であれ、それを捨てるには、ある程度の時間をかけて徐々に行うことが大切だと思います。いっぺんに捨てようとしても、結局それは単なる「我慢」となり、抑圧しているだけにすぎませんから、いずれ爆発してしまうのではないでしょうか。
 あるいは、ものすごく悲しいのに、泣くこともせず我慢していても、やはり同じように抑圧させてしまうだけです。悲しいときは思い切り泣けばいいと思います。激しい怒りを感じたら、社会的に問題にならない範囲で、怒ればいいと思います。激しい感情を抑圧させることは、決していいことではありません。
 しかしだからといって、怒りの感情が少しでも出るたびに怒っていたら、「すぐに怒る」という習慣がついてしまい、結局、怒りの感情から抜け出すことは難しくなってくると思います。やはり、ある程度は、怒りを我慢して、感情をコントロールする力を養うことも必要なのです。
 つまり、我慢しすぎてもダメだし、我慢しなさすぎてもダメで、両者の間をバランスよく歩みながら、執着を断ち切っていかなければならないわけです。そして大切なことは、時間をかけて計画的に、徐々に執着を断ち切っていくことです。

 ところで、執着を捨てるというと、何となく禁欲主義的な感じがして、厳しいと思われるかもしれません。確かに、ある程度は禁欲的に我慢するということは、どうしても必要となるでしょう。
 しかし、「我慢」している限り、本当の意味で執着を捨てたことにはなりません。執着を捨てるとは、対象に対して無関心になること、興味を失うこと、欲しくなくなることなのですから。そして、一般的にそのように執着に興味を失うには、三つのアプローチが考えられます。

1.その対象から遠ざかること
2.その対象を徹底的に味わい尽くすこと
3.その対象よりもすぐれた対象を得ること

 執着というものは、そこから刺激を受ければ受けるほど強化される傾向があります。そのため、その刺激をしばらく受けないでいると、自然に興味を失ってきたりするものです。最初のうちは辛いかもしれませんが、じっと辛抱して執着の対象を断った生活をすることで、自然と執着がなくなってくるのです。
 あるいは逆に、どんなに好きなことでも、そればかりやっていれば飽きてきて興味を失ってくるものです。そこで、飽きるまでその対象を味わい尽くすという方法もあります。
 さらに、その対象よりもすばらしい別のものを手にすれば、やはり興味を失ってしまいます。
 執着を捨てるには、これら三つのアプローチをうまく使い分けていくことがポイントになります。ただし、用い方を誤ると逆に執着を増してしまう危険もあります。
 すなわち、1の方法だと、ただ欲望を我慢して抑圧させてしまうだけという危険がありますし、2の方法だと、かえって執着を増強させてしまう危険もあります。たとえばアルコール依存症の人が、酒に対する執着を捨てるために、酒を徹底的に飲んだらどうなるでしょうか。酒を飲んだ直後は酒など欲しくなくなるかもしれませんが、またしばらくすれば酒が欲しくなり、前よりももっと欲しくなる可能性もあるでしょう(なかには、ひどく悪酔いして、それに懲りて酒など飲まなくなるという人もいるかもしれませんが)。いずれにしろ、慎重にアプローチしていく必要があります。
 その点、3の方法はずっと安全であり、確実です。
 酒を飲まずにはいられないのは、たいてい心が満たされていないからであり、心が満たされれば、酒に対する欲求も低くなってくるものです。ただ、3の問題は、病的な執着を伴わずに心を満たせる対象が、なかなか手に入れにくいという点にあります。

 執着する対象よりもすぐれた対象とは、いうまでもなく、物質的な執着を超えた健全な精神的喜びということになります。それは、自分の魂が本来的に持っている喜びに他なりません。
 瞑想が深くなり、魂の意識に近づくにつれて、心の奥からたとえようもない歓喜が湧いてくるといわれます。その歓喜のすばらしさに比べたら、地上のいかなる快楽や喜びといえども、ゴミのようなものに思えるそうです。この歓喜が得られるにつれて、地上の事柄への執着は、自然に無理なく捨てられるようになるのです。
 しかし、そのためには、毎日瞑想を重ねていかなければなりません。これには時間がかかります。とはいえ、それでもしばらく瞑想を続けていくと、魂の歓喜とまではいかないにしても、心がほのかな喜びで満たされてきて、今まで溺れていたような快楽などに対する欲求も、しだいに色あせてくるようになるはずです。

 それともうひとつ、執着を捨てるために大切なことは、純粋に人を愛することです。恋愛や親子の情愛といった、執着を生むような関係ではなく、相手を人間として、魂として敬愛し、奉仕や献身を捧げるのです(恋愛や親子の情が必ずしも悪いといっているわけではありません)。
 そのようなことにエネルギーを向けると、そういう行為は魂そのものの属性ですから、世俗的なレベルを超えた崇高な喜び(つまり魂の喜び)で満たされるようになります。そのような喜びで心が占められると、世俗的な快楽への欲求は、急速にしぼんでしまい、自然に執着が捨てられるようになってきます。

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心の浄化 | コメント:4 | トラックバック:0 |
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コメント

「真実への旅」を読ませていただきました。
非常に具体的で分かりやすい内容でした。
意識をもっと深めていく訓練をしている私たちには指針となる本でした。
そして今回のブログの内容も執着のありようを深く感じ取れた気がします。
心から感謝します。
これからも応援します。
2010-06-29 Tue 19:59 | URL | らいすちゃん♪ [ 編集 ]
斉藤啓一です。コメントありがとうございました。
また『真実への旅』を読んでくださいまして、心より感謝申し上げます。高く評価してくださり、とても嬉しく思います。
執着を捨てることは容易ではありませんが、智恵をだしあって、じっくりと取り組んでいければと願っております。
今後とも、よろしくお願い申し上げます。

2010-06-30 Wed 09:42 | URL | 斉藤啓一 [ 編集 ]
斉藤先生、こんにちは。

執着を捨てるための三つのアプローチ、ありがとうございました。

私は、甘いものの過食に繰り返し苦しんでいますが、過食は「愛情の代用品」という話を聞いたことがあります。でも、愛情不足だと感じたことはなく、私の魂は何を求めているのだろうと悩みました。そのうち、無自覚なまま、得ていたと思っている愛情が条件つきの愛であったり、与えられても自分がちゃんと受け取っていなかったり(無意識に遠ざけていたり)、受け取るばかりで返したり与えたりがなかったり。。と思いあたることがありました。

執着を単なる代用品だと思えれば、少し距離をおいて、気付きを得るチャンスにできるかもしれません。
2010-06-30 Wed 21:17 | URL | WakayamaKajimoto [ 編集 ]
斉藤啓一です。コメント、ありがとうございました。
過食は愛情の代用品であると、一般的には言われていますが、心理の世界に絶対的な通説などはほとんどないので、すべての人がそうなのだと決めつけない方がいいかもしれません。
いずれにしろ、こうした「症状」を、「不運な悪いこと」ととらえるか、「学びのチャンス」ととらえるか、それによって今後の人生は大きく違ってくると思うのです。
すぐに結論を出そうとせず、忍耐強く慎重に、この症状が訪れている原因や意味や目的などを探っていただきたいと思います。そのことは決して無駄にはならないはずです。
人生というものは、しばしば目的の成就そのものより、その過程で生じた副産物の方が、より価値がある、といったことがあるものです。
2010-06-30 Wed 21:56 | URL | 斉藤啓一 [ 編集 ]

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