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心の治癒と魂の覚醒

        

カルマの法則は本当にあるのか(3)


 カルマの法則を信じていれば、「善いことをすればよい報いがあるだろう」と期待して、善いことをしようとする人もいるでしょうし、「悪いことをすれば悪い報いがあるだろう」と思って、悪いことはしないようにする人もいるでしょう。その意味では、カルマの法則を信じていた方が、人々の道徳心が高まって世の中がよくなっていくのかもしれません。
 しかし、このことは逆に言えば、「よい報いがなければ善いことはしない」、「悪い報いがなければ悪いことをしてもよい」ということになります。
 法律的なレベルではこれでいいでしょう。実際、法律というものは信賞必罰によって社会の治安を維持しようとしているからです。
 しかし、宗教のレベルでは、これでいいのでしょうか?
「よい報いがあろうとなかろうと善いことをする」というのが、宗教のあり方ではないでしょうか。さもなければ、「お金がもらえるから善いことをする」というのと本質的に変わりません。要するに、報酬目的であり取引ということになりますから、そのような行為は「善い行為」とはいえないはずです。単なるビジネスです。人に親切にしても、報酬をもらえばそれは親切ではなくなり仕事になるのと同じことです。
 カルマの法則では「動機が大切である」と言われます。悪いことをしても悪い動機によって為されたものでなければ、悪い行為にはならないので、悪い報いはこないと主張しています。
 ならば、報酬めあてに善いことをするという行為は、あきらかに動機が不純です。カネの亡者がカネのために必死に働くのと本質的には同じことで、決して道徳的倫理的に「善い行為」とは定義されません。
 ということは、「よい報いがあるから善いことをしよう」としても、善い行為にはならないことになります。
 したがって、この時点でカルマの法則の教えが破綻しているのです。
 つまり、「よい報いがあるから善いことをしなさい」と説いても、そのような動機は不純であるがゆえに、それは「善いこと」にはならないので、よい報いは訪れないことになります。

 それとも、たとえ動機はよくなくても「善い行為」であれば、よい報いがもたらされるのでしょうか? 動機というものは関係ないのでしょうか。
 仮にそうだとすると、「悪い行為」の場合、それがどんなによい動機であっても、悪い報いが訪れることになってしまいます(相手のためによかれと思ってした行為が結果的に相手を損ねてしまったような場合など)。そうなると「勧善懲悪」をめざすはずのカルマの法則の意義が、やはり破綻してしまうことになるのです。
 このように考えても、カルマの法則というものは本当にあるのか、とても怪しく思えてしまうのです。

 「悪い報いがあるから悪いことをしない」という教えは、確かに悪いことをさせない効果はあるでしょうが、これもしょせんは「取引」であることに変わりはなく、精神性の高さはありません。宗教は精神性を高めることが目的なはずですから、「悪い報いがあろうとなかろうと、悪いことはしない」、「よい報いがあろうとなかろうと、善いことをする」というところを目標にするべきではないかと思うのです。「そんなことはお綺麗ごとだ」と言う人がいるかもしれませんが、宗教における目標というのは、理想を目指しているわけですから、本質的に「お綺麗ごと」なのです。目標が「お綺麗ごと」でなければ、それは宗教的な目標にはなり得ません。要は、いかにその理想的な目標に少しでも近づいていくか、ということです。
 その意味では、宗教の世界においては、取引である「カルマの法則」というものは、そぐわないのです。取引というのは交換条件であり、その発想で生きている限り、「愛」が芽生えることはありません。なぜなら、愛とは無条件だからです。宗教が愛を目指さないとしたら、それはもはや宗教とは言えないのではないでしょうか。
 カルマの法則の教えは、取引の発想ですから、それに縛られている限り、愛の発現を妨げてしまうことになるのです。ですから、カルマの法則を信じることは、必ずしもよいことであるとは、私には思えないのです。
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コメント

斉藤さま

私もその通りだと思います。
ただ、いろいろと思考し成長していく過程では、カルマというものの考え方が肥やしになることもあるのかもしれませんね。

本来、人は『今』を生きるべきだと思っています。
カルマの法則は、『過去』や『未来』にとらわれる生き方に繋がってしまうので、これを軸にしていては、いつまでたっても『今』を見ることができません。

連続した時間の上で生きているのですから『過去』も『未来』も大切です。蔑ろにして良いものではないと思います。
でも、そのせいで『今』が無くなるのであれば、『過去』とはなんでしょう。『未来』とはなんでしょう。

カルマの法則がそこから抜け出せない限り、『今を生きる』ことを説くことは不可能ではないでしょうか。

煩悩……こだわりは良くないと多くの宗教家が説いています。 でもその宗教家たちがカルマにこだわっています。
おかしな話ですよね。

『過去』『今』『未来』これらはつながっています。
だからと言って、カルマという紐ですべてこれらを括りつけてしまっては、人のすべての選択権は無くなってしまいます。
過去も未来も『今』の積み重ねの後に出来上がるもの。
『今』が過去と未来に縛られるカルマの法則で、人は幸せでいられるのでしょうか……。
2017-11-18 Sat 16:40 | URL | 黒いネコ [ 編集 ]
斉藤啓一です。黒いネコさま、コメントありがとうございました。なるほど、「今」という観点は、その通りですね。そういう観点からもカルマの法則を検証してみる必要がありそうです。新たな気づきを得させていただきました。ありがとうございます。
2017-11-18 Sat 21:20 | URL | [ 編集 ]
 カルマの法則が必要な段階の精神レベルがあるのではないでしょうか?法律の縛りが必要であるように・・・それがやがて善いことをすると気分がいいから自主的に善人であろうとする段階になり、今度は苦しくても正しい道を選ぶ領域に到達するように・・・カルマを超えていけるようになったらその理屈にとらわれなくなるのかもしれませんね。
2017-11-20 Mon 12:46 | URL | ワタナベ [ 編集 ]
斉藤啓一です。ワタナベさん、コメントありがとうございました。確かに、最初の段階ではカルマの法則を信じて歩むという道もあってもよいでしょうね。そして、やがてそれを「卒業」してさらなる段階に進むということでしょうか。
2017-11-20 Mon 17:28 | URL | [ 編集 ]

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