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心の治癒と魂の覚醒

        

宗教やスピリチュアルは「足場」のようなもの


 これまで、霊界や生まれ変わり、カルマの法則といった、宗教やスピリチュアルの中核的な教えについて、そうしたものは存在しない可能性があることを説明してきました。
 くどいようですが、否定しているわけではありません。否定する根拠も肯定する根拠もないことを申し上げてきただけです。

 しかし、霊的なことを学ぶこと自体は、最初の段階では有意義であると思っています。それにより、とりあえず人生の生きる方向性の骨格というものを形成できるからです。神や霊界といった、地上レベルを越えたところに価値観を見出せば、地上の瑣末な出来事に心を奪われることも少なくなりますし、生まれ変わりやカルマの法則のことを学べば、よい行動をし悪い行動をするのはやめようと思うでしょう。狂信や盲信、排他的独善性といったことさえなければ、宗教やスピリチュアルの教えは人を立派にさせてくれます。

 ですから、私は宗教やスピリチュアルを信じている人と話をするときは、霊的なことが存在するとして話をします。「二枚舌」と言われても仕方がありませんが、私は相手が幸せになれるのなら、それでいいと思っているのです。実際、霊的なことは存在するのかもしれませんし。宗教やスピリチュアルのことをまるで知らない人には、それに関する話をして、とりあえず知識を身につけてもらうことも、必要とあればいたします。

 ただ、ある程度、精神性を向上させたならば、宗教やスピリチュアルの教義といったものは、さらなる精神性の邪魔になるのではないかと考えています。
 なぜなら、真の宗教性や霊性というものは、教義といった知的レベルの領域から発するものではなく、もっと深い意識レベルから発するものだと思うからです。「教義がこう言っているからこうしよう」というのでは、ホンモノではないと思うのです。宇宙の法則や天の摂理と完全一体になったとき、それは知性や知識といったものによらない、ありのままの生き方であるはずです。親鸞の言葉を借りれば「自然法爾(じねんほうに)」ということになるでしょうか。この自然法爾こそ、宗教性や霊性がめざすべきものだと思います。このとき、いかなる束縛からも自由になっているはずです。宗教やスピリチュアルの教えからも自由になっているはずです。

 つまり、宗教やスピリチュアルの教義にとらわれていると、自然法爾の妨げになってしまうと思うのです。宗教やスピリチュアルさえも、「束縛」になるということです。最終的に宗教やスピリチュアルさえも捨てたとき、逆説的ですが、宗教やスピリチュアルのゴールに達するのではないかと考えています。
 そして、そのゴールに達したときには、霊界があろうとなかろうと、生まれ変わりやカルマの法則があろうとなかろうと、どうでもよくなるのだと思います。
 たとえるなら、宗教やスピリチュアルというものは、建築の「足場」のようなものです。家を建てるには、まず足場を構築しなければなりません。しかし、家が建ったら、足場は不必要であるばかりか、邪魔になります。あくまでも宗教やスピリチュアルは、その最終的なゴールへと向かうための足場のようなものであると、私は考えます。
 ですから、私はこれからも、あるときは「足場」を構築し、あるときは「足場」を破壊するようなことを、申し上げていきたいと思っています。矛盾したことを申し上げていると思われるかもしれませんが、その真意は、以上述べた理由からです。
 自他が幸せになり、世界が平和になりさえすれば、宗教やスピリチュアルの教義など、どうだっていいことではないかと、私は思っているのです。
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コメント

 ところで、足場を必要としない建築やリフォームはあるのでしょうか?
 宗教やスピリチュアルを不要とする猛者もなかにはいるのでしょうか・・・。
2017-11-28 Tue 12:30 | URL | ワタナベ [ 編集 ]
ワタナベさま

面白いコメントでしたので、つい反応してしまいました。
猛者ですね……捉え方によると思いますが、いると思いますよ。

幸せになることが真の目的ならば、宗教やスピリチュアルを知らずとも、幸せな人はたくさんいますよね。
裕福でなくても、幸せそうな顔をしている人は大勢いますから。


斉藤 さま

手段と目的ですね。
目的を追うための手段だったのに、いつの間にか手段が目的になってしまった……という人は意外と多いですよね。
今の宗教やスピリチュアルもそうだと思います。
宗教やスピリチュアルは幸せでいるための手段であって、目的ではないのですから。

そこを目標とする人は、本当の目的にいつまでもたどり着けないのではないでしょうか。

私も斉藤さまと同じように思います。
たとえどういう状況に置かれても、笑っていられるならそれだけで幸せでいられます。
高尚な教義などなくても、人は幸せでいられるのですから。

真の宗教家は、そうであったからこそ寛容であったのだと思います。
2017-11-28 Tue 14:28 | URL | 黒いネコ [ 編集 ]
斉藤啓一です。
ワタナベさん、コメントありがとうございます。「猛者」という表現があうかどうかはともかく、宗教やスピリチュアルを必要としない人もいると思います。たとえば真宗などでいわれている「妙好人」といわれているような、学も名もない市井の高潔な人というのは、いつの時代にもいるものです。ただ、そういう人は生まれながらの資質がいいのではないかとも思います。普通の人は、一度は宗教の門をくぐって成長していくのではないでしょうか。

黒いネコさま、コメントありがとうございました。
おっしゃるように、宗教は目的と手段を逆転させています。その逆転現象は時代と共に大きくなっていって、組織化すると決定的になります。人間より宗教の方が重要になってしまうのです。これは宗教の世界ではもっともゆゆしき問題であると思っています。真の宗教家であればそういう問題はなく、「寛容」を徳としていると思います。
2017-11-28 Tue 15:14 | URL | [ 編集 ]
 黒いネコさん、斉藤先生、ありがとうございます。ところで、ラッセルの「幸福論」はご存知ですか?他者と関わり、世界とつながることが幸福であるという行動する哲学書です。しまいには、自分は宇宙の市民だと感じエンジョイしてしまえるばかりか、子孫と自分は別個な存在とは感じないので死を思って悩むこともないそうです。なんとも平和運動したくなる内容らしいです。
2017-11-28 Tue 19:22 | URL | ワタナベ [ 編集 ]
斉藤啓一です。ラッセルの「幸福論」もすばらしいですが、『宗教は必要か(なぜ私はキリスト教徒ではないのか)』もすばらしいですよ。
2017-11-28 Tue 19:33 | URL | [ 編集 ]
ありがとうございました、機会あれば読ませていただきます。
2017-11-28 Tue 19:40 | URL | ワタナベ [ 編集 ]

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