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心の治癒と魂の覚醒

        

執着を捨てるために 3

 執着を捨てるために、今度は心理療法的なアプローチをご紹介いたします。
 まずひとつは、精神分析的なアプローチです。
 つまり、「なぜ自分はこれに執着しているのだろうか? 自分が執着しているものは、実は別のものではないのだろうか?」と考えてみるのです。たとえば、過食や買い物依存症などは、満たされない愛情が大きな理由であるといわれています。本当に執着しているのは、食べ物でもなければ、物でもなく、愛情なのです。食べ物や物は、愛情の「象徴」にすぎないわけです。このように、心の本当の動機や理由などが判明しただけでも、執着がかなり緩和されることがあります。
 次の方法は、行動療法的なアプローチといえるかもしれませんが、執着する対象に、意図的にネガティブな印象を連想づけていくものです。
 たとえば、これは仏教や修験道に伝わる方法かと思われるのですが、性に対する執着を断ち切るために、「無常観」という、ある種の観想法があります。
 それによると、まず若い女性の肉体をイメージします。そして、その肉体がだんだんと歳を重ね、醜くなり、死体となってウジが湧き、悪臭を放ち、ついには骸骨となっていく様子を、リアルに想像していくわけです。そうして、美しい女性の肉体も、結局は醜悪なものに変わっていくのだと認識するのです。しょせんは無常で汚れた肉のかたまりにすぎないとして、そんなものに執着をすることは正しくないとするわけです。ちなみに、釈迦は女性のことを「クソ袋」といいました(腸にクソがつまっている肉の袋にすぎないといったのです)。これは強烈な表現ですが、そうして女性の肉体を甘美なものと認識する心を冷まそうとしたわけです。
 ただ、こうした方法は、「そもそもなぜ人間は異性に性的な魅力を覚えるのか?」という深い欲求への理解に基づいていません。表面的な執着を除去しようとするものです。比較的即効性はありますが、完全に性的な執着が捨てられるかというと、疑問が残りそうです。
 精神分析的なアプローチにしても、「自分は愛情を求めているのだ」とわかったとしても、なぜ愛情を求めているのかについての理解が不足しています。
 これまで見てきたように、執着を捨てるための、決定的なアプローチというものは存在しないと思います。どれも一長一短があります。それを考慮しながら、いろいろとうまく使い分けをしていく必要があると思います。

 執着を捨てる際に、もっとも陥りやすい落とし穴は、建設的な事柄への欲求までもそがれてしまうことです。
 たとえば、女性に対する性的な欲求という点でいえば、解脱を果たしたヨーガ行者でも結婚している人が多いですし、妻帯者のまま修行をして解脱を果たした行者もたくさんいます。したがって、性的な欲求を完全に消滅することが、執着を捨てるという意味ではないのです。執着がなぜ問題になるかといえば、要するに、物質的な欲望に意識が縛られたり、行動の自由が奪われたり、内的に混乱させられて平静な瞑想ができなくなるからです。そうした不都合がなければいいのです。
 おそらく、性的な欲求を完全に消滅させることは不可能ではないかと思います。ただし、完全に消滅させたかのように抑圧することはできます。そのような人は、ときおり見かけることがあります。
 ところが、そのように性的な欲求を抑圧させた人というものは、たいてい人間的な魅力に乏しいものです。人間的な温情、共感、人の心をあたたかくさせる雰囲気に乏しく、まるでロボットのような冷たい感じになってしまうのです。こういう人が、霊的に覚醒して進化した人だとは思えません。
 覚醒とは、ある意味では、生命力をフルに発揮できるようになった状態だと思うのです。したがって、覚醒した人は、生き生きとし、快活で、ユーモアもあり、人情味が溢れている人だと思うのです。

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コメント

斉藤先生 こんにちは。

引き続き、執着に関するブログをありがとうございました。

精神分析的方法は、自己観察ということで、それだけで渦中から少し抜け出し、救われますね。執着以外の場面でも大切ですね。

先生が執着を捨てる際の落とし穴として、「建設的な事柄への欲求までもそがれてしまう」と書かれていますが、2つ目のネガティブな連想を読んで、
対象がもつ素晴らしさもすべてを否定するように思えて少し怖い気がしました。もちろん、物質の無常ということで真実だと思いますが、仏陀の言葉には驚きました。私は女性なので、よけいにそんな気がしてしまうのかもしれません。

その意味で、執着とは少し離れるかもしれませんが、性交渉についても、本来、恥ずかしいものでも罪深いものでもないのに、長い歴史の中で、罪悪感を感じるようにされてきたことが間違いだと読んだことがあります。
神は、「唯一、肉体を持ちながら、他者との一体感を経験できる至福の愛の経験」として性交渉を人間に与えられたと。そして、命を創造します。
陰と陽の統合ですね。もちろん、そこにはお互いの愛が存在しなければ至福にはならないでしょう。愛のエネルギーの融合によって、地上で達することのできる魂どおしの一体感です。故郷を思い出します。

そういう素晴らしさに対する欲求まで、執着をたつ結果、そがれてしまうのは、先生のおっしゃるとおり、覚醒とは離れてしまうと思います。
2010-07-02 Fri 12:35 | URL | WakayamaKajimoto [ 編集 ]
はじめまして、斎藤先生。
 「真実への旅」を読ませていただきました。
 
 登場人物が「超人覚醒法」より増えて、より面白くなっていたので感激です。主人公にもあんな過酷な過去があったのですね~。

 ところで私は今メンタル体の修行を行なっているのですが、断定的な考えを避けて反対の事柄や全体的な見方をしています。 

 そしてある日知人から「無口になったね」と言われました。知らず知らずのうちに言葉数が減ってきたのでしょう。

 さらに今回のブログの内容「建設的な執着までが失われる」を読んで、無口になったのは悪い傾向かもしれないとか悩んでしまいます。

 気にしないほうがいいのでしょうか?
2010-07-02 Fri 16:45 | URL | TAKA [ 編集 ]
斉藤啓一です。以上、お二人の方のコメント、どうもありがとうございます。

執着というものは、根元的には生命エネルギーからきていると思うのですが、執着を捨てるとは、生命エネルギーを捨てるというわけではない、ということを理解しておくことが大切かもしれません。
そして、その生命エネルギーのひとつのあらわれが性的な欲求です。覚醒と性との関係については、大切なテーマなので、今後、詳しく取り上げようと思っております。

『真実への旅』をご愛読いただき、とても嬉しく思います。メンタル体の改造のため、白黒をはっきりさせなくなったら無口になられたということですが、極端ではない限り、少し無口くらいの方がよろしいと私は思います。悪い傾向とは思いません。むしろ、いい傾向だと思います。少し無口なくらいでないと、自己観察や内省の力を育てることはできないと思うからです。
この調子で、頑張ってください。



2010-07-02 Fri 21:18 | URL | 斉藤啓一 [ 編集 ]
 返答ありがとうございました。この調子で自己観察を続けます。
 
 斎藤先生もお体に気をつけて仕事にお励みください。それでは失礼いたします。
2010-07-03 Sat 06:07 | URL | TAKA [ 編集 ]

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