エゴを消滅する方法① 不愉快な目覚まし時計2018-03-03 Sat 11:38
再び新たなカテゴリーをもうけて、私の見解を述べてみたいと思います。 そのカテゴリーのタイトルは「エゴを消滅する方法」です。 このタイトルを見て「そんなものはない!」と、即座に思った人がいたとしたら、このブログを読む必要はありません。その人は悟っているはずだからです。 実は、エゴを消滅する方法なんて、存在しないのです。このタイトルそのものが間違っているのです。 では、なぜ間違っているもの、存在しないものを、あえて取り扱うのでしょうか。 それは、エゴを消滅する方法など存在しないことを理解していただくためです。 覚醒(悟り)とは、エゴを消滅した意識、少なくとも、エゴを消滅しなければ開かれない意識のことですから、「エゴを消滅する方法は存在しない」と主張することは、「覚醒する方法は存在しない」と言っているのと同じことになります。 世の中には、覚醒する方法を説いている教団や指導者や本がたくさん存在しています。 はっきり言わせていただきますが、そうしたものは全部、ウソです。 ならば、覚醒とは何なのでしょうか? 覚醒(悟り)とは、そのための方法など存在しないことが、心底わかったときに開かれる意識なのです。ですから、覚醒する方法を説いている指導者は、覚醒などしていないのです。 すでに述べたように、エゴを消滅させなければ覚醒はしません。 しかし、覚醒していない人は、エゴで生きているわけですから、「覚醒しよう」とする行動そのものが、エゴの行動ということになります。つまり、エゴでエゴを消滅させようとしているわけです。これでは覚醒しません。エゴという汚れを落とすために、エゴという汚れを注いでいるからです。服についた泥を泥で落としているようなものです。 これでは、いつまでも汚れなど落ちるはずがありません。それどころか、ますますエゴの汚れにまみれてしまいます。 ですから、覚醒に至る方法は存在しないのです。 「覚醒したい、悟りたい」という欲求は、エゴなのです。覚醒したいという欲求を抱いて努力すればするほど、逆にエゴが強化されてしまい、覚醒とは反対の方向へ進んでしまうのです。すなわち、それは幻想です。そうして、しまいには悟った幻想を自ら作り出し、「自分は悟りを開いた」と言っている人がたくさんいるわけです。 クリシュナムルティは「悟った人は悟ったと言わない」と言いましたが、確かにその通りだと思います。なぜなら、悟ったとき、悟りなど存在していないことがわかるからです。言い方を変えれば、悟りなど存在しないことに気づくことが悟りなのです。 悟りが存在すると考えることは幻想なのです。神も仏も幻想です。生まれ変わりだとかカルマの法則だとか、霊界といったものも、すべて幻想です。あるのはただ「空(くう)」だけです。それ以外のものは幻想です。 幻想は捨てなければなりません。つまり、何も信じてはいけないのです。 しかし、エゴは幻想が大好きです。ですから、心地よい幻想を与えてくれる宗教団体や指導者や本に人気が集まるのです。こうしたものは「スピリチュアル・エゴ」です。スピリチュアルとは本来、エゴを消滅させるためにあると思うのですが(というより、エゴを消滅させた状態がスピリチュアルだと思うのですが)、逆にスピリチュアルがエゴを育む土壌になっており、そのためにスピリチュアルで金儲けができてしまうのです。もし、真のスピリチュアルの姿を知ったら、興味を示す人はほとんどいないでしょう。もし本当のスピリチュアルを説いているのであれば、スピリチュアルで金が儲かるなどということはあり得ないのです。 私はそうした真のスピリチュアルを、特にここ最近、語っていますので、負け惜しみではありませんが、私のブログは人気がなくて、読者も少ないのです。しかし、仕方ありません。人気を得るために心にもないウソをついてみなさんをだますようなマネはしたくありません。 禅の開祖である達磨大師が「禅をして何かいいことでもあるのか?」と尋ねられたとき「何もいいことはない」と答えました。この言葉は真実なのです。「なら、何のために禅なんてやるんだ!」という話になるでしょう。有名な達磨大師の言葉ですから、この言葉に深い意味があるだろうと人々は考えて尊重するでしょうが、無名の人が同じことを言ったら、人々は理解できずに、無視したり嘲笑したりするでしょう。何もいいことがないものをやろうという人などいないでしょう。 しかし、いつの時代でも、こうした言葉に「はっ」として、何か感じるものがあり、どういう深い真意がそこにあるのだろうかと探求する人が、きわめて少数でしょうが、いるものです。そういう人は、ある種の芸術的なセンスを持っている人です。なぜなら、芸術の世界は功利(損得感情)を超えた直感で成り立っているからです。この直感を感じられる資質を持っているかどうかで、覚醒できるかどうかが分かれるのではないかと、私は思っています。 このブログは、そういった人たちのために書こうと思っているのです。幻想を与えるブログなら他にたくさんあります。むしろ、ほとんどがそのようなものだと思います。幻想を見ていい気分になりたい人、つまり、エゴを喜ばせたい人は、そちらを見た方がよいです。 しかし、覚醒とは、幻想から覚めることです。心地よく夢を見ていた眠りの状態から眼を覚まさせてくれるのは、不愉快な目覚まし時計の音です。このブログもまた、そんな不愉快な目覚まし時計みたいなものだと思っています。 スポンサーサイト
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コメント
こんにちは、斉藤先生。
私は2015年頃に例の団体と和解しました。あまり詳しくはお話しできませんが、渦巻いていたエゴがぽっかりと抜け落ちた感じです。それ以来何もかもが愛おしい気持ちで満たされて、特別な修行をすべて、やめてしまいました。 いまでは職場でも家庭でも「はたらく」「手伝う」という言霊とともにあります。共同体の一員として仕事するのが何よりも楽しいのです。この世は誰かの仕事で出来ているのですから、社会の中でつながりを持つことが私の生きるすべてという感覚です。 2018-03-05 Mon 16:36 | URL | ワタナベ [ 編集 ]
斉藤啓一です。ワタナベさん、コメントありがとうございました。
ワタナベさん、まさにそれ、それですよ! 今回、そしてこれから、私の言いたいことを、ワタナベさんは違う表現で見事に説明してくれました。ありがとうございます。エッセンスが凝縮された、とてもすばらしいコメントです。 ワタナベさん、お見事です。 2018-03-05 Mon 16:51 | URL | [ 編集 ]
斎藤さま
嫌われることも、孤独になることも、何も恐れなくて良いのではないでしょうか。 真っすぐにいさえすれば、全ては正しき方向に向かうと思われます。 集団になると、コントロールしようとする意識が働きます。 集団が大きくなればなるほど、それは強くなります。 規則やマナー、ルールといったものが発生します。 宗教なら、経典や教義といったものでしょうか。 スピリチュアルでも、そういったものが語られます。 「ポジティブ思考」や「引き寄せの法則」など……。 未熟な世界であればあるほど、規則が多くなります。 成熟した世界ならば、ルールなどいりません。 日本でさえ、いろんなルールが存在します。 何かに属せば、さらにルールが多くなります。 これは未熟であればあるほど、縛られ、窮屈な世界を形成します。 未熟であれば群れを形成したくなります。 規則によって構成員を縛れば、自分の未熟な世界を正当化できます。 でも本当はルールなんて必要ないのだと思います。 自分が成熟すれば、群れることも、誰かを縛ることも、同調させることも、何も必要のないのだと思います。 多くの宗教は、より多くを取り込み、より厳しいルールで縛ろうとします。 でもそれは、未熟な世界をより未熟にさせ、自然にいるはずの姿を不自然に曲げてしまいます。 誰も読まなくても、誰も共感せずとも、正しいと思うことをお書きください。 それは、必要な人のもとに、きっと届いています。 誰のためでもない、自分のためにお書きください。 外の世界に縛られない、本当の自分の言葉だけが、本来のあるべき自分に近づけてくれると感じます。 2018-03-06 Tue 19:05 | URL | 黒いネコ [ 編集 ]
斉藤啓一です。黒いネコさま、コメントありがとうございました。おっしゃる通りですね。励みになりました。ありがとうございます。自分に正直になって書いていこうと思います。
すばらしいコメントを寄せてくださる人がいて、私は恵まれています。 2018-03-06 Tue 21:46 | URL | [ 編集 ]
はじめまして。最近、たまたま『真実への旅』を手にする機会があり、その後、『運命の赤い糸、』、『覚醒のヒント』『ブーバー、、、』『シンクロニシティ』など、先生の本を続々と読ませていただいております。とても楽しく読んでいます。今回ブログをみつけて、先生のお考えを知る機会が増えたと喜んでおります。一ファンより。
斉藤啓一です。ももたろうさん、コメントありがとうございました。私の本をたくさんご愛読くださり、光栄です。心から感謝です。今後とも、よろしくお願い申し上げます。
2018-03-11 Sun 21:59 | URL | [ 編集 ]
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