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心の治癒と魂の覚醒

        

エゴを消滅する方法② 人類を愛する人は人間を愛さない


前回は、「エゴを消滅する方法は存在しない」ということを述べました。しかし、方法が存在しないからといって「エゴを消滅することはできない」という意味ではありません。「方法」ではエゴは消滅しないという意味です。ただし、人間として生きている限り、完全に100%消滅させることは難しいと思います。またその必要もないでしょう。「できる限り消滅させる」ということが目標となるでしょうか。エゴが存在する限り、私たちは不自由となり、喜びと苦しみの間をいつまでも往復することになります。

 「方法」というものは、「このように努力すれば、このような報酬が得られる」という、ある種の取引です。しかし、取引では、エゴは消滅しないのです。もしも「修行」というものを取引と考えているなら、そのような修行をいくらしても、エゴは消滅しないばかりか、むしろエゴを増長させてしまうことになります。

 私たちは、生まれたときから今日まで、「何かを得るには、その代価として努力しなければならない」と教えられてきました。もちろん、これは物質世界には当てはまります。医者になるには勉強しなければなりません。お金持ちになるには、しかるべき方法を採用して努力しなければなりません。だから私たちは常に「どうすればいいのか」と、方法を捜し求めます。その発想から抜け出せないのです。「覚醒という報酬を得るには修行という代償を払わなければならない」という発想から抜け出せないのです。
 しかし、エゴを消滅するには、そのような物質次元の取引の発想では不可能なのです。方法論という発想を超えなければなりません。
 これを理解するのは非常に難しいのですが、これを理解できるかどうかで、覚醒(悟り)を得られるかどうかが分かれます。これを理解していない宗教やスピリチュアルは、真の意味で宗教でもスピリチュアルでもなく、単にエゴを喜ばす「おもちゃ」でしかありません。そして実際、多くの人たちは、その「おもちゃ」で遊んでいるのです。私から言わせれば「宗教ごっこ」、「スピリチュアルごっこ」をしているのです。いわば、宗教やスピリチュアルが「ディズニーランド」になっているのです。

 ディズニーランドに行くと、ミッキーマウスがいます。それは着ぐるみで人が中に入っていることはみんな知っているのですが、本物のミッキーマウスだと思い込んで楽しんでいるわけです。また、子供が砂をお茶碗に盛って「はい、ごはんですよ」と言って「おままごと」をして遊んでいます。子供だって、お茶碗に盛られた砂がご飯だと思って食べたりしません。
 ディズニーランドもおままごとも、「ごっご」遊びを楽しんでいるのです。夢想世界で楽しんでいるわけで、それはそれでいいのです。「ミッキーマウスの中には人がいるじゃないか。だましたな。これは詐欺だ」などと、ディズニーランドを訴える人はいません。みんなわかって楽しんでいるのです。だから、それでいいのです。

 しかし、宗教、とりわけスピリチュアルなどは、実証されていない非現実的な事柄を、実在するものと主張しています。夢想なのに現実だと妄想しているのです。ここが問題なのです。
 たとえば、かつてチャネリングが流行したとき、単に頭の中に浮かんだ考えに過ぎないのに「これは霊界の偉人から送られてきたメッセージだ」、「宇宙人からのメッセージだ」などと信じ込み、突如として普通の主婦が「チャネラー」になったりして、注目を浴びたりしていました。その後は「引き寄せの法則」だとか、最近では食べなくても生きていける「不食」などというものが流行っているようですが、これなども同じです。単なる「チャネリングごっこ」、「引き寄せごっこ」、「不食ごっこ」をして遊んでいるだけです。
 問題は「ごっご」をしていることに気づいていないという点です。現実だと思い込んでいるのです。ディズニーランドは架空の世界だとわかって楽しんでいるので問題はありませんが、スピリチュアルの世界は、架空の世界なのに現実だと思い込んでいるところが病的であり、稚拙であり、問題なのです。
 こんな夢想に浸っていたら、現実生活がおろそかになります。人生の舞台はあくまでも現実なのですから、現実をしっかりと見つめ、地に足をつけて生きていかなければなりません。

 覚醒に至る真のスピリチュアルの舞台は、この現実世界です。霊界だとか、神や仏だとか、オーラだとか生まれ変わりといった世界に、真のスピリチュアルはありません。それらは単なる夢想です。夢想というのが言いすぎなら、単なる「観念」と言ってもいいでしょう。人生は観念ではなくて、リアルです。リアルな日常の仕事や家事、子育てといった、おそらくスピリチュアルの信奉者があまり好きではない平凡な現実生活を生きることの中に、真のスピリチュアルがあるのです。

 「人類を愛する人は人間を愛さない」という言葉を聞いたことがあります。なるほどと思いました。どういう意味なのでしょうか?
 「人類」などというものは存在しません。存在するのは人間だけです。「人類」というのは単なる観念なのです。目の前にいる人間こそが人類です。しかし、人類という観念を愛する人は、そちらに意識が向けられてしまっていますから、目の前の人間を愛することができないのです。目の前の人間をリアルに愛することが、人類を愛することです。

 愛する人は「どうすれば愛することができるだろうか?」などと問うでしょうか?
 たとえば、「A子ちゃんに恋したい。A子ちゃんに恋をするにはどうすればいいのか?」などと、「恋する方法」を考えたりするでしょうか?
 そんなことはしません。気がついたら恋していた、気がついたら愛していた、ということです。つまり、愛するには「方法」など必要ないのです。愛するための方法など存在しないのです。愛するための方法を捜し求めていたら、いつまでたっても愛することなどできません。「愛するにはどうすればいいだろうか?」などと考えている人がいたら、まったくナンセンスで、こっけいでしょう。
 覚醒も同じです。「覚醒するにはどうすればいいだろうか?」などと考えることは、まったくナンセンスでこっけいなのです。
 しかし、方法論というもので洗脳されている私たちは、このことが理解できません。そうして、覚醒に至るための方法を捜し求め、グルを捜し求め、組織を捜し求めるのです。グルや組織が提供するのは、「覚醒した夢」であり、「覚醒ごっこ」でしかありません。
 覚醒に至る方法も、グルも組織も求めず、いかなる夢想や観念に逃げることなく、ただ日常の生活をリアルな感覚で生き抜くこと、そこにこそ、覚醒は存在するのです。そこにこそ、観念ではない真の愛が存在するのです。真の人類愛が存在するのです。
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エゴを消滅する方法 | コメント:8 | トラックバック:0 |
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コメント

斎藤さま

良いですね。
とても良い記事だと思います。

見えているものが真実だとは限らないし、見えないものを感じることも難しい。
それでもその不確かなモノを糧にして存在しているのが今の『人間』です。
だから不確かでも良いのだと思います。
不確かさを恐れていては前に進めません。
恐れていては、何も変わらない。
たとえ間違っていても前に進んでいれば、きっと確かなものがそこに現れるはずです。
……そんな言葉を感じる記事です。

私も思います……エゴをすべて消し去る必要もないということ。
エゴは時に、誰かに悪影響を与えることもあります。
でも、そればかりでもありません。
利己主義と利他主義、エゴイズムとオルトイズム、これらは別物のようで、実は同じです。
対象が自分であれば前者に、対象が自分以外に向けば後者になります。
エゴイストと呼ばれる人たちは、自分と他者との区別が強く、狭い世界の中で生きている人。それと比べて利他主義の人々は、広い世界の中で誰彼の区別なく生きている人。
多くの場合エゴイストは嫌われます。
多くの宗教でも、それは良くないと言われます。
結果だけを見ると、エゴイストの行為は良くないことが圧倒的に多いと思います。
ただ、エゴが悪いとして、他と強く区別すると、エゴはより強力になってしまいます。
自らのエゴを否定するのではなく、そういう部分も受け入れることで、エゴは薄くなっていくと感じます。

エゴを強く否定するスピリチュアルは、エゴの本質は理解していないように思います。

斎藤さまの言われるように、方法論は無いと思います。
唯一あるとすれば、寛容でいること。
では寛容でいるにはどうすれば良いかといわれても、それは知識だけでどうにかなる問題でもありませんよね。

まずは自分を大切に。
そして自分の周りにいる人を大切に。
……そうやって、だんだんとその輪が広がって、エゴが薄くなっていくのではないでしょうか。
2018-03-10 Sat 16:03 | URL | 黒いネコ [ 編集 ]
斉藤啓一です。黒いネコさま、コメントありがとうございます。同感です。とりわけ「自らのエゴを否定するのではなく、そういう部分も受け入れることで、エゴは薄くなっていくと感じます」というのは、まさにその通りだと思います。エゴを敵対視しているのが、まさにエゴだからですね。
いつも参考になるコメント、ありがとうございます。
2018-03-11 Sun 08:10 | URL | [ 編集 ]
 こんにちは、斉藤先生。
今日職場で車のタイヤが雪に埋まり慌てましたが、会社のみんながすぐに救出してくれました。北国ではよく見かける光景ですが、幸せなことです。

自分はこんなにお世話になっているのに何も返せていないなという気持ちになりました。こういう経験が自然にエゴからの脱却に役立つと思いませんか。
2018-03-12 Mon 16:22 | URL | ワタナベ [ 編集 ]
斉藤啓一です。ワタナベさん、コメントありがとうございました。確かに、みんながこういう助け合いの関係性で強く結ばれていれば、それは本当に理想的な覚醒に至る環境でしょうね。ただ、「では、覚醒するためにそういう関係を築こう」と思ったら、そうではなくなると思いますが。
2018-03-12 Mon 21:34 | URL | [ 編集 ]
 なるほど、あくまでも自然なのがよさそうですね。
2018-03-12 Mon 22:13 | URL | ワタナベ [ 編集 ]
 実は今、幸せで、覚醒を得ようという気持ちがありません。これって本末転倒でしょうか・・・。

 今回のタイトルからいうと斉藤先生は3番目のお母さんを愛してあげてください。私も父を癌で亡くして、気難しい父であまり話そうとしなかったことを後悔しました。認知が進行して大変でしょうけど、3番目のお母さんを心から愛して大切にしてあげてください。
2018-03-15 Thu 12:26 | URL | ワタナベ [ 編集 ]
斉藤啓一です。ワタナベさん、コメントありがとうございました。幸せであるとのことで、それはけっこうなことであり、他者がとやかく言う筋合いではないのですが、一般論として言いますと、あまり自分の幸せを自覚しすぎる場合、それはそれでどこか間違っている可能性が高いです。
また、三番目の母を愛してあげてくださいとありますが、人のことはいいですから、ワタナベさんご自身がどなたか必要と思われる人を愛してあげたらいかがですか? 人のことをとやかく言うのは、たいていエゴです。人にあれこれ指図する暇があったら、自分が愛せばいいのです。もし「自分は十分に愛している」とお答えになるとしたら、あきらかに道をあやまっていると思います。
2018-03-15 Thu 14:51 | URL | [ 編集 ]
 エゴなのでしょうね。過去ブログを読ませていただいて、私自身後悔する別れが多かったものですから、先生のような人こそ救われるべきと思い、大変失礼な申し出をしてしまいました。申し訳ありません。
2018-03-15 Thu 16:14 | URL | ワタナベ [ 編集 ]

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