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心の治癒と魂の覚醒

        

エゴを消滅させる方法⑤ 低級なエゴから高級なエゴへ


 前回は、宗教はエゴの産物であると言って、まるで宗教がまったくの悪者であるかのように言いました。しかし、またしても矛盾したことを言うようですが、宗教が一時的に必要な場合もあるのです(もちろん邪教と呼ばれるものは別ですが)。
 これについては以前に「建築と足場」のたとえで説明しました。つまり、家を建てるには足場を組まなければなりません。しかし、家が建ったら足場は必要ないし、むしろ邪魔になります。同じように、宗教心(愛)という家が建ったら、宗教という足場はいらないし、むしろ邪魔になるのです。

 宗教は確かにエゴの産物であり、宗教を信じている限り、エゴの束縛から抜け出すことはできません。
 ただし、エゴにも「低級なエゴ」と「高級なエゴ」があります。
 低級なエゴとは、物欲まるだしで自分の利益のためには人のことなんてどうでもいいといったものです。
 高級なエゴは、物欲を制し、自分の利益だけではなく他者の利益も考えます。ただし、それでもそこにはエゴが存在しています。
 それは「認められたい」というエゴです。
 「認められたい」というエゴは、おそらくあらゆるエゴを取り去った後に残る、最後のエゴではないかと思います。それは自己の存在そのものに関係するもっとも根本的な欲求に基づいているからです。
 インドなどに行くと、低級なエゴを捨て去り、何も所有せず裸同然で過ごしている「聖者」がいます。しかし彼らはエゴを捨てきれていません。なぜなら、インドのような精神性に重きを置く世界では、「所有しない人は偉い」という価値観があるからです。つまり、彼らは、「どうだ、見てくれ。私は何も所有していないぞ。偉いだろう!」と自慢しているのです。そうして認めてもらおうとしているわけです。物質的な世界では、認められるために金持ちになろうとしますが、精神的な世界では清貧になろうとします。手段が異なるだけで、エゴであることに変わりありません。

 認められたいというエゴのために、宗教が利用されているのです。なかには、エゴを満たすために教祖になる人もいます。実際、教祖になろうとして教祖になった人は、99%ニセモノではないかとと思います。教祖になろうと思わなかったのに、気づいたら教祖に祭り上げられていた、という人であればホンモノかもしれません。釈迦もイエスも教祖になろうとは思いませんでした。教えを説いていたらいつのまにか教祖になってしまったのです。
 ただし、教祖として祭り上げられると、エゴが復活して、道を誤ることが多いので油断はできません(これについてはいずれお話したいと思います)。

 話を元に戻しますと、低級なエゴしか持っていない人が、いきなりエゴを消滅することはほとんど不可能だと思います。まずは、低級なエゴを高級なエゴにするところから始めることになると思います。宗教はそのために意義があります。宗教は低級なエゴを高級なエゴへと高めてくれるからです。もちろん、宗教だけがその役割を担っているわけではありません。宗教でなく他のこと、たとえば道徳でも倫理でも哲学でも、あるいは武道だとか伝統芸能といった、いわゆる「道」がつくようなものには、すべてこの役割があると思います。できれば宗教以外の方法が望ましいと思いますが、宗教の方があっている人もいるわけです。

 そうしてエゴを最高水準にまで高めたら、つまり、残すのはただ「認められたい」というエゴだけになったら、いよいよ最後のステップとして、宗教を捨てる必要があるのです。なぜなら、認められるために宗教が利用されてしまうからです。宗教を利用して「認められたい」というエゴを満たそうとしてしまうからです。特に、組織化された宗教はその傾向が強いです。

 信仰が深くなれば、人から認められたいというエゴを無くすことはできるでしょう。しかし、「神から認められたい」という欲求(エゴ)は、最後まで残るでしょう。
 これは、子供が親に認められたい欲求と通じるものがあります。「認められたい」という欲求そのものをなくす必要があるのです。そうして「神に認められようと、認められまいと、どうだっていい」という境地になったとき、いわば神を求めなくなったとき、最終的にエゴから解脱できるのだと思います。
 子供はいつか親離れをして大人になります。親に自分の存在意義を依存しない大人こそが一人前です。同じように、人間もいつか「神離れ」をする必要があるのです。親であれば、子供が「親離れ」したら喜ぶでしょう(喜ばないとしたら毒親です)。いつまでも「お父さん、お母さん」と呼んでいるようではダメなわけです。
 同じように、もし神が存在するとして、人間が「神離れ」したら、神は喜ぶはずです。いつまでも「神よ、神よ」と呼んでいるようではダメなのです。
 こうして神を求めなくなれば、必然的に信仰が成り立ちませんから、宗教という、エゴが作り出した妄想から自然に醒めることになります。
 そのとき人は、無条件の真実の愛で輝くようになるはずです。それは限りなく神の愛に近いものです。神はそんな人間を見て喜ぶでしょう。立派に成長したわが子を見て喜ぶ親のように。それが本当の「神の愛」というものです。自分への崇拝を求め続ける神がいるとしたら、それは邪神です。神などではありません。エゴが作り出した単なる妄想です。
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エゴを消滅する方法 | コメント:5 | トラックバック:0 |
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コメント

いつも、魂に響くお話をありがとうございます。敢えていえば、
正しいことを行なうならば、人から認められなくてもいいのですね。勇気が湧いてきます。
2018-04-01 Sun 21:18 | URL | ももたろう [ 編集 ]
斉藤啓一です。ももたろうさん、こちらこそありがとうございます。「今ここで何が行われるべきか?」と考え、自分が何をするべきかがわかったら、人から何と思われようと、認められようと認められまいと、それを実行することが大切だと思います。それには勇気がいりますが、勇気がなければ真に意義あることを成し遂げることは何もできないと思います。勇気は大切です。変革を怖れない勇気と、孤独を怖れない勇気です。
2018-04-01 Sun 22:02 | URL | [ 編集 ]
 こんにちは、斉藤先生。
願わくば妙高人でありたいですね、どうやったらなれるのでしょうか?それもなりたいエゴが生じるとなれないものなのでしょうか?
2018-04-02 Mon 12:35 | URL | ワタナベ [ 編集 ]
斉藤啓一です。ワタナベさん、コメントありがとうございました。妙好人、なりたいものですね。ただ、もしそこに「妙好人になって認められたい」という動機があったら、たぶんなれないと思います。妙好人というものは、気がついたらなっていた、というものではないでしょうか。
2018-04-02 Mon 16:21 | URL | [ 編集 ]
 毎回参考になるアドバイス、ありがとうございます。
 自分らしく、されど自己のエゴに気付いている状態であればいいのですね。心揺らされる出来事にもすぐ平常心にもどれるように・・・
2018-04-02 Mon 17:14 | URL | ワタナベ [ 編集 ]

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