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心の治癒と魂の覚醒

        

臨済の言葉


 エゴを消滅させる方法として、今日は禅の臨済宗の開祖である臨済の言葉を紹介してみたいと思います。ただ、繰り返しますが、エゴを消滅させる「方法」というのは存在しません。そのような方法を説いている宗教は、エゴが作り出した妄想です(低級なエゴを高級なエゴに変えるという意義はありますが)。
 では、臨済は何と言っているのか、さっそく紹介してみます(岩波書店『臨済録』をもとに私が現代に合う言葉に直したものです)。

 「諸君、仏を至上のものとしてはならない。わしから見れば、便壷のようなものだ。菩薩なども手かせ足かせのように人を縛るものだ。求めて得られる仏などありはしない。尊いと言われるどのような教えであろうと、対症療法で、そこには真実の法はまったく存在しない。あったとしても、それらしく見えるにすぎず、もっともらしく説いたものにすぎない。
 諸君、こういうと坊主のなかには、内面へ力を注いで、この世を超出する道を求めようとする輩がいるが、とんでもない間違いだ。もし仏を求めようとすれば、その人は仏を失い、もし道を求めようとすれば、その人は道を失い、もし導師を求めようとすれば、その人は導師を失うだけだ。」

 求めて得られる仏などないと言っています。真実の法などなく、道(修行法)や導師を求めればそれを失うと言っています。仏を「便壷」とまで言っているのです。これはかなりショッキングな言葉だと思います。
 この「仏」を「神」と言い換えることもできるでしょう。「神を最高のものとして崇めてはならない。そんなものは便壷だ。求めて得られる神など存在しない。また、尊いと言われる宗教であっても、それは真実ではなく、もっともらしく説いたものにすぎない」と、このように言っているのです。
 神も宗教も否定しているわけです。神を求めてはいけないと言っているのです。
 仏教とは、仏を崇める宗教のはずですから、その宗派の開祖が、仏を否定し宗教を否定しているのです。
 いったい、その真意はどこにあるのでしょうか?
 それは、私が今まで語ってきたことのなかにあります。仏も神もエゴが作り出した虚構の妄想であり、宗教も、エゴの産物であるということです。
 宗教がここまで人気があるのは、私たちのエゴを喜ばせるように、巧妙にできているからです。仏や神などは、いわばエゴの甘えをゆるしてくれる「優しいお母さん」といったイメージでしょうか。祈れば助けてくれるというような神は、いわば「大人のサンタクロース」です。小さな子供はサンタクロースの存在を信じているでしょうが、大人は信じていません。サンタクロースなど、誰かが都合よく考えたファンタジーであると知っています。しかし、その大人は「神」という、やはり都合よく考え出されたファンタジーを信じているのです。サンタクロースを信じている子供を笑えないのです。
 
 臨済は、そうした人々のエゴの妄想を見抜いていたのです。
 臨済はそんな宗教を「対症療法」だと言っています。まさに的確な表現です。対症療法とは、根本治療ではなく、ただ苦痛や症状を抑えるだけの療法です。宗教を信じると、とりあえずは苦痛が和らぎ幸せな感じがしてくるものです。しかし、やがてそれは私たちの自由を奪い、さまざまな問題を露呈させて、ついには苦しみの種になるのです。
 本来の宗教であれば、エゴを破壊させる教えを説くはずです。エゴとは煩悩であり、キリスト教的にいえば「罪」であり、あらゆる苦しみの根源だからです。本当の治療をしなければ人は幸せにはなれません。
 宗教は、ダイエットをしなければいけない人に対して、カロリーの高い甘いお菓子を与えるようなことをしています。エゴは、そんなお菓子をくれる宗教や指導者が大好きです。だから、そのような宗教団体だとか指導者のもとに多くの人々が群がっていきます。そうしてエゴをますます巨大化させ、いわば「エゴのメタボ」に陥らせているのです。
 一方で、宗教は人に恐怖を与えます。エゴは臆病なのでしたがってしまいます。たとえば、伝統的な宗教であれば、「長い歴史のなかでずっと支持されてきた教えを批判するのか? いったい自分を何様だと思っているのだ? 批判などしたら地獄に落ちるぞ」などと言ったり、あるいは「導師」と呼ばれる人に対して「覚者の言うことを批判するほどレベルが高いのか? 覚者はすべてお見通して間違いを言うことはない。導師の言うことを批判すると道を成就することはできないぞ」と言われたりします。そう言われると、エゴは怖くなり、不安になって「きっと自分がおかしいんだ」と、自分を納得させ服従しようとします。
 エゴは欲と恐怖に弱いのです。欲と恐怖でコントロールされてしまいます。宗教や導師と呼ばれる人は、そうして信者や弟子を欲と恐怖で支配しようとするのです。
 しかし、欲と恐怖に縛られたそんな状態で、どうして覚醒などできるでしょうか。

 真の宗教、真の教えであれば、エゴの消滅を説きます。欲でつったり、恐怖心を煽ったりするようなことはしません。
 しかし、エゴにまみれているほとんどの人々にとって、エゴを消滅させる教えなど、誰も聞きたくはないのです。エゴを自分自身だと錯覚している大部分の人にとって、エゴの否定は「自分の否定」を意味するからです(エゴのために本当の自分が否定されているというのが事実なのですが)。
 だから、真の宗教が仮にあったとしても、そうした宗教は人気がないのです。真の教えを説く人は、見向きもされないのです。
 しかし臨済は、「それでいいのだ」と言っています。

 「諸君、君たちは、導師の言葉を鵜呑みにして、本物の道だと思い、”いかにも悟りの知識の尊いところだ。われわれ凡夫の心で、こういう老大家の内実を推測することはするまい”などと言う。愚か者め! 君たちは一生こういう了見ばかりで、せっかくの自分の目を台無しにしている。まるで薄氷の上を渡る驢馬の子そっくりのビクビクもので、”とても悟りの知識の批判はできぬ。口の禍はこわいから”というわけだ。
 諸君、偉大な悟りの知識であってこそ、はじめて仏や祖師をそしり、天下の悟りの知識を批判し、仏典を排斥し、青二才どもを罵倒し、時には逆、時には順、さまざまの手段を用いて、まともな人間を求めるのだ。もし花嫁みたいにおどおどした修行者ならば、寺を追い出されて飯も食わせてもらえず、心細くて気もそぞろだろう。昔の先輩たちは、どこへ行っても人に理解されず、追い払われたものだが、そうなってこそ、その貴さがわかるのだ。もしどこででも人に受け入れられるような人物ならば、何の役に立とうぞ。」
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エゴを消滅する方法 | コメント:3 | トラックバック:0 |
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コメント

 こんにちは、斉藤先生。秀逸な記事ありがとうございます。大人のサンタクロースの例えが見事でした。

 誰もが安心できる足場で囲ってしまっているうちは本当の建物の姿が見えませんね、どこかで宗教の楔を外してしまう勇気をもたないといけないということでしょうか・・・。

 これからは自分のやっていることを否定する人を見かけたらハッとして注目してみます。なんらかの真実を語っているでしょうから・・・。
2018-04-09 Mon 12:20 | URL | ワタナベ [ 編集 ]
斎藤さま

先人の情報を得ることは、自分と世界をリンクさせる上でも有意義だとかんがえていましたので、斎藤さまに過去の偉人の記事をお願いしようと思っていました。
そうしたらこの記事です。
すごいですね。

それに、臨済のことはほとんど知らないでいました。

人は「個」であり「全」であると考えていますが、多くの宗教は、「個」であることを捨てさせて、「全」へと導いているように思います。
この記事の臨済のように、「個」であることの大切さを大きく説いているとは知りませんでした。

世界は細分化(多くの個を生み出す)することで広がっていきます。そして広がった世界は多くの不安定を生み出し、それを解消するために統合されると考えています。
片方に偏れば、繁栄と衰退を繰り返してしまいます。

「個」であり「全」で在るためには、自分の人生を生き、その情報を世界に刻んでいくこと……そう思います。
誰かの複製になるために生まれてきた人など、どこにもいないのではないでしょうか。
2018-04-09 Mon 13:29 | URL | 黒いネコ [ 編集 ]
斉藤啓一です。
ワタナベさん、コメントありがとうございます。「これからは自分のやっていることを否定する人を見かけたらハッとして注目してみます。なんらかの真実を語っているでしょうから・・・。」←こうした姿勢はいいですね。人は他者から学ぶものです。多くの人が「補助輪」をつけて自転車に乗っていることに気づかず「自分は自転車に乗れる」と思い込んでいるのです。

黒いネコさま、コメントありがとうございます。
そうですか。偶然ですね。これからも、機会あるごとに過去の偉人の言葉を引用していこうと思っています。
バランスが大切ですね。「誰かの複製になるために生まれてきた人など、どこにもいないのではないでしょうか。」←そう思います。個がしっかりしていなければ全体もしっかりしたものにはならないと思います。


2018-04-10 Tue 00:11 | URL | [ 編集 ]

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