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心の治癒と魂の覚醒

        

自然法爾


 エゴを消滅させる「方法」がないとすれば、いったいどうすればいいのでしょうか?
 それについてはすでに述べたように、自分のエゴに気づいてさえいればいいのです。「エゴを消滅させよう」という目的も欲求もなく、ただひたすら自分のエゴに気づいていることです。するとエゴは、自然に萎縮し消滅していきます(ただし肉体を持って生きている限り、エゴを完全に消滅させることはたぶん不可能です)。
 しかし、これを続けていると、気分が落ち込んできます。なぜなら、自分の考え、思い、行動の、ありとあらゆることが、つきつめればエゴであると思い知らされるからです。

 なぜ気分が落ち込むかというと、「エゴがある人は偉くない」という思いがあるからです。表現を変えれば「エゴをなくして偉い人になって認められたい」という欲求があるからです。まさにその思いそのものがエゴなのですが、前にも書いたように、「認められたい」というのがエゴの核心であり、心臓部です。そのエゴの心臓を突き刺して息の根を止めなければ、エゴは消滅しません。
 ですから、しょせん、自分はエゴのかたまりであり、ちっとも偉くなんかないのだ、凡夫なんだと思い知らされて、とことんまで落ち込めばいいのです。そもそも「エゴをなくそう」とか「覚醒しよう、悟りを開こう」という思いそのものがエゴだからです。
 自分がちっとも偉くない、だから認められないと思うことは、エゴにとってもっとも苦痛なことです。絶望的な気持ちになります。しかし、エゴを死に追いやろうとしているわけですから、苦痛が伴うのは当然です。

 私の解釈では、浄土真宗の親鸞は、こうした自分のエゴに気づいていることを、「罪悪生死(ざいあくしょうじ)の凡夫」と表現しました。自分はどうしようもないエゴのかたまりであり、偉くもなんともない、救われがたい凡人なのだということの、徹底的な自覚です。
 このことを徹底的に自覚したら、「悟りを開こう」という願い(エゴ)はなくなるはずです。凡夫が悟りなど開けるはずがないからです。「悟りを開こう」などと思うこと自体が、高慢であり自惚れであるとも言えます。

 では、そうなったとき、人はどう生きるようになるでしょうか。
 悟りを開こうとか、仏(覚者)になろうという野望は捨てて、ただ淡々と生きるようになるでしょう。親鸞はそうした生き方を「自然法爾(じねんほうに)」と表現しました。自然法爾とは、ひとことでいうと「あるがままに生きる」ということです。エゴの凡夫なのだから、エゴの凡夫として生きる、ということです。
 ところが、この自然法爾の生き方こそが悟りへの道、というより、悟りそのものなのです。皮肉なことに、凡夫として生きることが非凡なのです。
 親鸞の教えでは、これは「悪人正機説」と呼ばれています(「善人が救われるというのなら悪人こそが救われる)。つまり、「自分は悪人だと自覚することで救われる」ということで、このブログの流れで言えば「自分はエゴのかたまりだと自覚することで救われる(覚醒する)」となるでしょうか。

 前回、紹介した臨済は、次のように言っています。
 「本来、仏もなく法もなく、修行すべきものも悟るべきものもないのだ。それなのに、ひたすらわき道の方へ行って、いったい何を求めようとするのだ。
 諸君、他ならぬ君自身が、現にいま見たり聞いたりしている働きが、そのまま仏なのだ。それを信じきれぬために、外に向かって求めまわる。勘違いしてはならぬ。外に法はなく、内にもない。しかし、このように言うわしの言葉に飛びつくよりは、まず何よりも、静かに安らいで、のほほんとしていることが一番だ。すでに起こった念慮は継続させぬこと、まだ起こらぬ念慮は起こさせぬことだ。そうできるなら、十年も行脚修行するよりずっとましである。」
 親鸞は「自然法爾」という言葉で、臨済は「のほほんと生きる」という言葉で、悟りの境地、悟りの生き方を表現しています。老子の言葉を借りれば「無為」です。

 ところが、エゴは、あるがままに生きることができません。のほほんと生きることができません。無為でいることができません。とにかくなにかになりたがります。認められるために非凡になろうとします。認められるために偉くなろうとします。覚者になりたがります。グルになりたがり、教祖になりたがります。弟子や信者を集めたがります。自分を「聖者」だと宣伝したがります。
 覚醒への道は逆説的であり、前に進もうとすると後ろへ下がり、後ろへ下がろうとすると前に進むという性質を持っています。ですから、「ならないことでなる」のです。仏になることはできません。なぜなら、私たちの本質はすでに仏だからです。ただ仏として生きるだけです。本来、仏とは「なるもの」ではないのに、仏になろうとすることは、道を誤っていることになります。

 では、結局、どうしたらいいのでしょうか?
 この「どうしたらいいのか?」と尋ねているのはエゴです。自分がエゴのかたまりであり、救われない身であると徹底的に絶望したなら、「どうしたらいいか?」とは問わないはずです。エゴはとにかく問いたがります。「どうしたら? どうしたら? どうしたら?」と。そうして自分以外の、人から認められるなにものかになろうとするのです。
 「どうしたらいいか?」と問う気持ちがやみ、なにものかになろうとする気持ちがなくなり、ただただ凡夫として生きること、それができている人が、悟りを開いた人であり、覚者です。

 しかし、エゴはそんな生き方に魅力を感じません。面白くなく、つまらないのです。それよりも、エゴを拡大させてくれるような、ワクワク・ドキドキする教えを求めて、そのようなことを説いている宗教やスピリチュアルを求め続けます。そうして「エゴ・スパイラル」に巻き込まれ、その軌道から抜け出せなくなるのです。
 だから、本当の意味で「凡人」になってしまうのです。見かけは派手に非凡に見えたりするかもしれませんが、精神的にはまったくの凡人なのです。いかにエゴを膨張させたとしても、エゴそのものが凡庸だからです。
 凡庸に生きようとしている人こそが、真の意味で非凡です。そういう人は自然法爾という生き方を通して、(あくまでも結果的に)何か非凡なことをするでしょう。それが世間に認められるかはどうかはわかりません。もしも、その非凡さを見抜ける人がいたとしたら、その人もまた非凡な人です。
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エゴを消滅する方法 | コメント:9 | トラックバック:0 |
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コメント

今回も、素晴らしいお話をありがとうございます。答えが、ただただ凡夫として生きるということにあったとは考えもしませんでした。しかし、ただただ凡人の私にとっては、これ以上勇気づけられるお話はありませんでした。話はかわりますが、先生のブログの文章も少しづつ読み返させていただいており、しばしば新しい発見があります。また、先生の占いの本に今ははまっております。(将来、占い師にもなりたいのです)こうした楽しい時間も先生のおかげと感謝しております。
2018-04-14 Sat 18:37 | URL | ももたろう [ 編集 ]
斉藤啓一です。ももたろうさん、こちらこそ嬉しいコメントありがとうございました。占い師、ぜひがんばってください。
2018-04-15 Sun 00:42 | URL | [ 編集 ]
斉藤先生、こんばんは。
「超人覚醒法」を見返して驚きました。
初版発行が、1988年4月15日です。
ちょうど30年前のきょうです。
30年、おめでとうございます。
私が持っている本は、1991年4月1日発行の第9刷です。
初めて読んだときは、すごい内容とは思いましたが、その真意はわかりません。

以前にも申しましたが、本を読んでから13年後にハッと気づきます。
私は「経験」に縛られている。
だから、バカなのだ。
そうです。博士は勉強するほどバカになる、と言ったのです。

経験に縛られることの弊害は、何かについて
できない理由を並べてしまうことです。

ですから、超人覚醒法のあとがきにあるように
この瞬間に覚醒がやってくるかもしれません。

本を書いてくださった、斉藤先生、ありがとうございます。
2018-04-15 Sun 20:16 | URL | 両さん [ 編集 ]
斉藤啓一です。両さん、嬉しいコメントありがとうございます。自分でもその日付は気づきませんでした。30年たったのですね。長いような、早いような…。基本的には私の考え方は変わっていないということに、あらためて自覚しました。
今後とも、よろしくお願いいたします。
2018-04-16 Mon 09:52 | URL | [ 編集 ]
 こんにちは、斉藤先生

 凡夫でいいのですね、安心しました。修行法を探し求めた日々に別れを告げた今のほうが、自分というものにリアルに接することができるとは・・・。

 水のごとくただ流れ続けたいです。ぶつかるのではなくするすると・・・。
2018-04-16 Mon 12:27 | URL | ワタナベ [ 編集 ]
斉藤啓一です。ワタナベさん、コメントありがとうございました。「水のごとく」というのは、適切な表現ですね。流水ですね。これは悟りを開いた人、つまりエゴを捨てた人を表現する言葉としてとても近いものがあると思います。
2018-04-16 Mon 18:12 | URL | [ 編集 ]
こんにちは。
今回も先生のお言葉に救われた気がします。

かつて私を酷く追い込んだ人は、エゴを追い求めて今のところ成功しているようです。
しかもその人はスピリチュアル方面の仕事で「成功」したのです。
その仕事を始めたころのその人物(仮にAとします)は、複数の人がはっきり感じるほど「尊大」でした。
その後は知りませんがどうやら仕事面では好調を維持しているようです。
それなりに瞑想したり、たとえ言葉だけでも人の幸せを願う言葉を発するからでしょうか?
(性格面ではどんな変化があったのかはわかりません、、、、どうでもいい人です)


曲がりなりにもAと縁のあった人は、私だけでなく多くの人が、一時的に心理状態が悪くなり大変な苦痛を味わいます。
いわゆるエネルギーバンパイアです。
そんなことには我関せずと、Aは何かといい思いをしているようです。
つい最近、Aの近況を写真入りで知ってしまい、腹が立つと同時にもネガティブ思考になってきてしまいました。

私の心のダメージの方は、(Aとは直接関係のないインナーチャイルドも含めて)
苦しかったけどなんとか抜け出したようですが、今の私は凡庸も何も、自宅介護というAが内心見下しているであろうような生活をしています。
こういう地味でストレスフルで汚いこと(毎日の汚物処理など)をするような生活を、Aは内心見下しているでしょう。表面は何かと上手いことを言っていい人を装いながら。
(こういう地味な生活を、スピリチュアルの人は一律、上から目線で「自分自身を生きていない!」と言います)
元々Aは華美な人にしかいい顔をしない人で、それなりに縁はあったものの私はずいぶん軽んじられましたので、それを思い出すとまだ少し痛みがぶり返します。

さらに、私の心の痛みも厭世的な思いも、神様的には「よい事」であったり「全ては自分の行いの結果」となるんだろうなぁと思うと、これまたちょっと腹が立ちます。
(……でも薄々これで良かったんだと感じてる自分もいます。心の問題に無関心よりは知っていた方が絶対いいと思うから。痛すぎてあまり感謝は出来ませんが。笑)


今お世話になっている介護職の方々を見ると、彼ら彼女らは皆活き活きしています。(自然療法風に言うと体温も高そうで、近くにいると熱感が伝わってくるのです)
実際は分りませんがおそらくスピリチュアルに傾倒することも無いであろうと思います。地味とか凡庸とかもあまり意識もしてなさそうです。(まあ悟りなどの高尚な話にも無関心でしょうが)
人を敬いながらただ日々を精いっぱい生きているように見えます。(介護ではなく敬護だ、とのことです…素晴らしい理念だと思います…)
こういう方々はAのような人物とは接点は生れないか生れても何ら影響はなく、またAの方もこういった方々にはおそらくあまり注目しないのでしょう。
良く出来ているというか然りというか、、、、、、、、
何事もつくづく(心の)傷のなせる業なんだなあ、とやはり思ってしまいますね、、、、。


過去の嫌なことを思い出して少し落ち込んでいたので、また長文コメントを書いてしましました。
時々変わったヤツが出没するということでお許しください。<(_ _)>

淡々と…自分自身を満たしながら淡々と…生きていけたらなと思います。


2018-04-23 Mon 19:10 | URL | 希 [ 編集 ]
斉藤啓一です。希さん、コメントありがとうございました。私にはAという人物が、真の意味で「スピリチュアルで成功した」とは思えません。逆に「スピリチュアルで失敗した」と思います。少なくないのですね、このような人物が、スピリチュアルの世界には。
「人を敬いながらただ日々を精いっぱい生きているように見えます。」←これぞ真のスピリチュアルではないでしょうか。たとえスピリチュアル的なことなどまるで関心がなかったとしても。
自宅介護している人を見下すとしたら、そういう人間は最低な輩です。そういう人間こそ「汚物」です。
希さん、自宅介護は本当に大変だと思いますが、どうぞお体を大切になさりながら、なんとか今の苦境を乗り越えていかれてください。
2018-04-23 Mon 20:31 | URL | [ 編集 ]
先生、力強いお言葉をありがとうございます!

Aの(この先の)失敗をこの目で確かめたいという悪い気持ちが湧いてきてしまいました…(笑)

コメントに書いたような介護の方々とか、そういうタイプの方々を菩薩様というのだろうなあ、、と思いました。確かにニコニコしてらっしゃいます。
そういうところに焦点を合わせて、私も日々精いっぱい生きます。
先生も皆さんもよき日々を!!
2018-04-24 Tue 10:25 | URL | 希 [ 編集 ]

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