心の治癒と魂の覚醒

        

修行の本質について 1

 この世の中で、覚醒(解脱)への道ほど、価値のあるスリリングな冒険はないでしょう。しかし同時に、これほど困難な冒険もないかもしれません。
 覚醒への道が困難であるというのには、二つの理由があります。ひとつは、修行そのものの難しさです。長く瞑想したり、呼吸法や体操(アーサナ)をしたり、感情を支配したり、善のカルマを積んだりといった修行を、毎日ひたすら続けていくことは、楽ではありません。
 しかし、現代において覚醒の道をめざすことの難しさは、修行そのものもさることながら、次の点にあると思うのです。
 それは、修行のための時間を確保することの難しさです。
 私たちのほとんどが、修行のために十分な時間を確保することが難しいのです。
 毎日のように残業して、帰宅は夜の10時過ぎになるという人もいるでしょう。それから入浴して食事でもしたら、もうほとんど自由な時間は残されていないでしょう。第一、疲れて修行などする気持ちも起こらないかもしれませんし、頑張って修行したとしても、疲労と睡魔で瞑想などできないのではないでしょうか。
 毎日5時に退社できるなら、修行のための十分な時間が取れるでしょう。しかし、毎日5時に退社できる人など、どれくらいいるでしょうか? しかも、不景気な今日では、残業しなければ(残業代を稼がなければ)生活できないという人も少なくありません。そのため、修行の時間を十分にとるには、かなり生活レベルを落とすか、あるいは仕事など熱心にしなくても経済的な豊かさに恵まれているか、どちらかでしょう。独身なら生活レベルを落とせるかもしれませんが、家族がいたら、なかなかそうはできないでしょう。
 おおむかしも、それなりに修行の条件を整えることは難しかったと思いますが、時間に関しては、現代より恵まれていたように思います。何をするにしてもそうですが、「時間がない」ことほど、致命的なことはありません。
 しかし私たちは、そのような厳しい状況下にあってもなお、覚醒の道をめざしているのです。覚醒の修行以前に、修行できる時間的な条件をまず勝ち取らなければならないという、非常に過酷で厳しい状況を生きているわけです。
 そんな私たちは、偉大なる勇者か、あるいは、とんでもない大馬鹿者か……ということになるかもしれません。おそらく、世間から見れば後者なのだと思いますが、しかしもしも私たちが、すでに古い時代に覚醒して、今は天界で生きているとしたならば、こんな厳しい条件のもとでもなお、覚醒に挑んでいる人たちを地上に見たとしたら、尊敬の念を覚えるのではないでしょうか。

 私は、天界の覚者方は、私たちを、そんなふうに見てくれていると思うのです。
 覚醒を志していれば、天界の覚者、聖者方は、必ず注意を向けてくれるといいます。なぜなら、それが彼らの使命だからです。そして、私たちの熱意やカルマなどの事情によっては、はっきりと導いてくれたりしますが、ふさわしい時期がくるまでは沈黙のままかもしれません。しかしいずれにしろ、真摯に取り組んでいる限り、注意を向けてくれていることは間違いないようです。
 しかも、現代社会という、厳しい状況でもがんばって覚醒の道を歩もうとしているのですから、特別に敬愛の気持ちを向けてくれていると思うのです。
 そう思うと、たとえ覚醒が成就できなかったとしても、仏陀だとかイエスだとか、ババジだとか、その他、たくさんの偉大な聖者方に褒めてもらい、称賛してもらえているというだけで、なんとも幸せな気持ちになってはこないでしょうか。
 このことを、どうか想像や空想だと見なさないでください。実証はできませんが、本当に、そんな聖者たちが、私たちひとりひとりに意識を向けてくださっているはずなのです。目には見えませんが、実際に目の前にいて、やさしく微笑んでくださっていると思って間違いないのです。
 それはなんと光栄で、ありがたく、大きな喜びでしょうか!
 修行者というものは、結果にとらわれず、修行そのものに、そうした喜びを見いだしながら、歩んでいくべきではないかと思うのです。聖者方に見守られながら修行ができる、それだけでありがたく十分だという気持ちが大切だと思うのです。

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コメント

こんにちは、斎藤さん。
天界の聖者方が見守ってくれているとはなんてすばらしい環境でしょうか。実に励まされます。

誰も見ていないところで徳を積んだり、人から嫌な扱いを受けたりするのをカルマの解消と納得したり、それだけではくじけそうになることもあるでしょう。

しかし、天界の聖者方が注目してくれていると考えると情けないこと言ってられませんね。格好いいところ見せたくなってきます。瞑想にも力が入ります。

そして私にとっては同じ志を持った仲間が集うこのブログも励みになっています。今後ともよろしくお願いします。
2010-07-04 Sun 04:57 | URL | ワタナベ [ 編集 ]
斉藤啓一です。コメント、ありがとうございました。
おっしゃるように、覚醒の修行は地上的には孤独ですね。ついくじけそうになってしまうことがあります。しかし、天界の聖者方が注目してくれているという思いは、大変な励みになると思うのです。

釈迦は、悟りに必要なのは「仏・法・僧」だといいました。最後の僧とは、修行仲間のことです。
このブログが、そうした修行仲間の集まりとして、互いに支え合い励まし合える場として活用していただけるなら、管理人としてこれ以上嬉しいことはありません。
これからも、よろしくお願い致します。
2010-07-04 Sun 07:16 | URL | 斉藤啓一 [ 編集 ]
斉藤先生 こんにちは。

聖者たちが見守ってくださっていること、励みになりますね。なかなか直接感じることはありませんが、心底から祈りをささげたり、お願いを宣言すると、私たちが予想もしていない形(場合によっては最悪に思われること)かもしれませんが、必ず導いてくれると信じています。
(もちろん、エゴからのお願いでは意味がありませんが)
だから、すべてのことには意味があり、無駄なことは何ひとつないと言えるのですね。

私の場合、きっと聖者たちは、「またあの子は覚醒から離れてしまうような言動してるわ。。」と思いながらも、見捨てることなく、長い目で見守ってくれていると感謝しています。
これが、自由意志を犯すことなく、そのままを受け入れて、非難せず、必要なときは、そばいにて助けてくれる真の大きな愛ですね。

またこのブログに参加させていただけることは、孤独が癒され、励みになります。

いつも、ありがとうございます。
今後ともよろしくお願いいたします。

2010-07-04 Sun 11:56 | URL | WakayamaKajimoto [ 編集 ]
斉藤啓一です。コメントありがとうございました。
修行の道は孤独であり、天界の聖者方が目に見えて私たちを励ましてくれていることがはっきりとわかったら、どれほど心強いかとも思います。
ただ、もしそんなふうに見えてしまうと、それ自体である種の「強制」的な雰囲気となってしまい、私たちの自主性が失われてしまうという危険があるのかもしれません。
やはり、目には見えない、しかしそれを確信しながら自主的に歩む方が、覚醒にとっては都合がいいのかもしれませんね。
2010-07-05 Mon 14:53 | URL | 斉藤啓一 [ 編集 ]

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