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心の治癒と魂の覚醒

        

日本に仏教は存在していない!?


新たにカテゴリーを設けて、真の仏教とは何かについて論じていきたいと思います。
 ただ、いきなり身も蓋もないことを言ってしまいますが、真の仏教とは何かなど、誰にもわからないのです。
 というのは、仏教が成立したのは今から2500年も前のことです。釈迦は自分の教えを文献として残しませんでした。いま伝わっている文献(経典)は、釈迦の死後、弟子たちが集まって記憶を頼りに書き留めたものです。
 また、釈迦が言うには「自分が得た悟りの境地は非常に奥が深く精妙である。これを理解できる者はいないかもしれない」という意味の言葉を残しています。そのような深い教えを、弟子たちが本当に理解して書き止めたかどうか、非常に疑問です。
 釈迦の弟子で悟りを開いたとされる人は何人かいました。その筆頭がシャーリープッタです。しかし経典が作成されたときには彼は死んでいませんでした。他にも悟った弟子がいたかもしれませんが、たぶん、ほとんどの弟子は悟っていなかったと思います。悟っていない弟子が、悟った釈迦の真意を正確に汲み取って経典にできるでしょうか? ここも非常に疑問です。

 とにかく、そうして完成したのが、法句経(ほっくきょう、ダンマパダ)や経集(きょうしゅう、スッタニパータ)です。その後、さらに体系的にまとめられたのが阿含経(あごんきょう、アーガマ)です。
 しかし、これらの文献においても、あきらかに創作と思われるような記述も入っているといわれています。この文献がその後、2500年の間に、釈迦の真意とは違うように書き換えられてしまった可能性もあるわけです。
 情報化社会と言われる今日でさえ、ニュース報道などが誤って伝えられることがあります。まして、インターネットやテレビや電話はおろか、印刷技術さえもなかった当時、そのうえ、釈迦が直接書いたものではなく、弟子が間接的に書いたもの、さらにまた、その悟りの内容が非常に奥深く微妙なものであり理解するのが難しいということ、こういうことを考えれば、何が本当の仏教であるかなど、わからないのです。
 仏教学者は、文献をもとに「これが仏教である」と主張しますが、以上のように、文献そのものが本当に釈迦の教えを反映されているかわからないのですから、仏教学者の言うこともあてにならないのです。

 したがって、私が「これが真の仏教だ」と主張しても、それは私が勝手にそう言っているだけであって、真の仏教かどうかはわかりません。仮に真の仏教だとしても、それを証明する手段はありません。
 なので、これから私の言うことは、独断と偏見とひとりよがりの、まったくあてにならない主張であると思ってください。
 私はただ、そういう主張を通して、皆さんに仏教の本質、言い換えれば「悟りの本質」について考えるきっかけを持っていただければいいと、そういう目的で書いているのです。

 ただ、いくら文献があてにならないといっても、まったくデタラメなことを書いているわけではないでしょう。少なくとも「近い」ことは書いてあるはずです。たとえば「四諦」だとか「縁起論」だとか「八正道」といったことは、その深さまでとらえられてはいなくても、そのようなことが説かれていたことは間違いないでしょう。なので、そういう基本的な教えを土台に、「真の仏教とはいかなるものなのか」ということを探っていきたいと思っています。

 さて、そもそも、何をもって「仏教」と定義できるのでしょうか?
 仏教の定義を「釈迦の説いた教え」であるとするのであれば、いわゆる大乗仏教と呼ばれるものは、仏教ではありません。なぜなら、大乗仏教は、釈迦の教えの肝心な部分が欠落しているからです。
 それは「八正道」です。
 八正道とは、正見、正思、正語、正業、正命、正精進、正念、正定という、八つの修行のことです。この八正道はさらに細かく分類され、全部で37の修行法があるとされています(実際には重複しているので37ではない)。これは「三十七菩提分法(ぼだいぶんぽう)」と呼ばれていますが、こうした分類はおそらく後の学者がまとめたもので、あまり意味がありません。八正道だけで十分です。
 さて、釈迦が一番言いたかったのは、この八正道です。
 釈迦の教えをひとことで表現したのが、「四諦」です。いわば本のもくじのようなものです。「諦」とは「あきらめる」という意味ではなく「あきらかにする」という意味で、ひらたくいえば「真理」のことです。
 四諦とは、苦諦・集諦・滅諦・道諦という四つの真理のことです。
 苦諦=人生は苦しみであるとの認識
 集諦=苦しみが起こる原因
 滅諦=苦しみを消滅させる理論
 道諦=苦しみを消滅させる実践法、すなわち八正道
 これら四つの真理は独立しているのではなく、苦諦→集諦→滅諦→道諦というプロセスとなっています。つまり、「人生は苦しみなのだということをまず知りなさい。そうしたら、なぜ苦しみが生じるのか、その仕組みを知りなさい。そうしたら、苦しみを無くす理論を知りなさい。そうしたら最後に、苦しみをなくすために修行しなさい」ということです。
 要するに、苦諦・集諦・滅諦の三つは、最後の道諦、すなわち八正道へと導くためのものなのです。最終目的は八正道を修行することなのです。その修行ができるように、苦諦・集諦・滅諦という三つの真理を学びなさいと言っているのです。

 ところが、大乗仏教には、仏教の心臓部とも言うべき一番肝心な八正道がありません。
 八正道は、出家した修行者のための修行法です。しかし、誰もが出家して修行できるとは限りません。むしろ、そういう人は少ないでしょう。
 そこで、そのことに不満を抱いた人たちが「釈迦は慈悲深いから、すべての人を苦しみから救いたいと思っていたはずだ。だから、限られた人しか修行できない八正道というのは、釈迦の真意ではないはずだ」などと、自分たちの都合よく解釈し、出家しなくても解脱できるのだとしたのです。

 では、修行によらずに、どのように苦しみから救われるとしたのでしょうか。
 そうして考えられたのが「仏」です。
 もともと仏とは、覚者(悟った人)という意味なのですが、それを、いわゆる守護霊のような霊的な救世主のようなものとして、そういうものが存在するとし、仏にすがれば助けてくれるとしたのです。そして、「これこそが釈迦の教えである」と言って、たくさんの経典が製作されました。
 そうして、今日、○○仏だとか○○菩薩といったものがたくさん製造され、仏像などが作られてそれを拝んだりしているのですが、釈迦はそのような存在は説いていません。もしいま釈迦が生きていたら、「そんなものは迷妄である」と一蹴するのではないかと思います。
 仏を拝み、仏にすがれば救われるというのなら、最初からそのように説くはずです。八正道などというめんどくさいことを説いたりしないでしょう。
 考えが甘いのです。
 釈迦という人は、冷徹なまでの合理主義者でした。ある意味では慈悲深かったのでしょうが、真理をまげてまで安易な気休めを口にすることなどしませんでした。ですから、考えが甘い人から見たら、釈迦は慈悲深いどころか、ものすごく冷たい人に見えるはずです。
 たとえば、大学生になろうとしたら、勉強しなければなれません。これは厳然たる事実です。しかし、誰もが勉強できるとは限りません。頭の悪い子もいるでしょう。だからといって「かわいそうに。勉強しなくても大学生になれるよ」などと言えるでしょうか? 「学校の先生は慈悲深いから、学校の先生を拝めば大学生にしてくれるよ」などと、そんなことが言えるでしょうか?
 そういうことを言っているのが、大乗仏教なのです。つまり、今日のほとんどすべての「仏教」ということです。
「仏になりたければ(苦しみから救われたければ)修行しなさい。修行できないならあきらめなさい」
 残酷なようですが、これが釈迦の教えです。つまり、真の仏教の教えです。
 仏教とは釈迦の教えであると定義したならば、仏教をありがたがる人はほとんどいないと思います。今日のように釈迦が敬愛され、ありがたがられているのは、釈迦と彼の教えの本質を知らないからです。大乗仏教によって都合よく捏造された虚像のためです。

 今日、仏教の本質である八正道の実践を説き、実践している仏教教団はあるでしょうか?
 私の知る限り、ありません。
 仏教といえば、苦しいときに救ってくださいと仏様にお願いすることだとか、葬式ということばかりです。しかし釈迦は「自己のみを拠り所とせよ」と説き、「仏教徒は葬式なんかするな」と言いました。なのになぜ仏教徒を名乗る人が仏にすがることを勧めたり、葬式をしているのか理解できませんが、とにかく、仏教といえばこんなことばかりです。
 繰り返しますが、仏教の本質は八正道の実践です。
 八正道を実践していない仏教は、仏教ではありません。八正道を実践していない仏教徒は仏教徒ではありません。
 その意味では、日本に仏教など存在していないし、したこともないのです。

 ただし、八正道だけがよくて、大乗仏教がまったくダメかというと、そう単純でもないのです。あくまでも「仏教とは釈迦の説いた教えである」と定義した場合には、大乗仏教は仏教ではないと言っているだけです。大乗仏教に価値がないと言っているわけではありません。
 詳しいことはおって説明していきたいと思います。 
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コメント

 斉藤先生、こんにちは。仏教の解説ありがとうございます。

 大学の例えが面白かったです。仏教の世界に裏口入学とかあると幻滅ですよね。

 仏陀はお経を詠んだのでしょうか?仏陀が詠まないお経を弟子たちが詠むようになったとしたら明らかに誤って伝わっていますよね。
2018-05-02 Wed 15:56 | URL | ワタナベ [ 編集 ]
斉藤啓一です。ワタナベさん、いつもご愛読、そしてコメントありがとうございます。
「読経」については、ブログに書こうと思っておりました。近いうちに書きますので、どうぞそちらをご覧になってください。
引き続き、よろしくお願いいたします。
2018-05-02 Wed 20:55 | URL | [ 編集 ]
はじめまして。最近購読を始めました。

今回の記事はよくぞ言ってくれたという気持ちです。

私は身内の死をきっかけに、今の葬式仏教には心底うんざりしてまして、日本にある仏教は史上最大の詐欺とまで思っています。と同時に、人間釈迦、お釈迦様の教えそのものに純粋に興味を抱くようになりました。原始仏教のサイトを拝見したりして、自分なりに学んでいるところです。

ですので、今回のシリーズは非常に興味をそそられるところで、更新を楽しみにしております。ただ、本当のところを知りたい。仰る通り、ならばお経に一切の意味はないのかといえば、私は今の仏教に辟易しながらも先人の一つの知恵として学ぶことには意義があるのではと思うようにしています。

今後を楽しみにしております。ありがとうございました。
2018-05-03 Thu 10:06 | URL | とおる [ 編集 ]
斉藤啓一です。とおる様、ブログをご愛読いただきありがとうございます。お経にまったく意味がないということはないと思います。おっしゃるように、そこには先人の智恵も多く含まれており、学ぶべきことも多いと思います。今後、そうした面についてもお話させていただきたいと思います。よろしくお願い申し上げます。
2018-05-03 Thu 21:11 | URL | [ 編集 ]

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