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心の治癒と魂の覚醒

        

経典を鵜呑みにしてはいけない


 釈迦の死後、数百年たって成立したのが大乗仏教であり、それに対して、釈迦のオリジナルな教えは原始仏教(もしくは根本仏教)と言います。その原始仏典の主なものは、阿含経典です。釈迦の死後、すぐに修行僧が集められて編纂されたものであり、釈迦の教説をもっとも忠実に反映しているとされます。
 しかしながら、経典の内容がすべて真実であると鵜呑みにすることは危険です。
 どう考えても、「こんなことを釈迦が言うだろうか?」と思われるものもあるのです。
 そのなかでも、私がもっとも首を傾げたくなるのが、釈迦が80歳となり死が近づいてきたとき、釈迦の弟子であり付き人としてもっとも可愛がられたアーナンダに向かっていった次の言葉です。(中阿含経36 経典の文句はまわりくどいので、意訳しました)。
「アーナンダよ。もし私が願うなら、一劫でもそれ以上でも(一劫とは宇宙が始まって終わるまでの長い時間。要するに永遠)、生き続けることができるのだよ」
 釈迦はこの言葉を三回繰り返しました。つまり、アーナンダから「ではお釈迦様、我らのためにそうしてください」という返事を期待していたようなのです。しかしアーナンダは、ただ黙って聞いているだけでした。後になって釈迦の気持ちがわかって、「我らのために永遠に生き続けてください」と三回繰り返して頼みます。しかし釈迦は「もう遅い。私は死ぬと決めた」といって拒絶しました。
 以上のようなエピソードが経典に書かれているのですが、私はこれには非常に疑問を感じます。釈迦は常々、「すべてのものは朽ち果てる。諸行無常である」と弟子たちに説いていました。その釈迦が「その気なら自分は永遠に生きることができるのだよ」などと言うでしょうか。いくら覚者と言えども無理でしょうし、何よりも「諸行無常だ」と説いた彼自身の教えに反します。
 仮に百歩ゆずって、永遠に生き続けることが可能だとしても、「アーナンダがそれを頼まなかったから永遠に生きるのをやめた」などと言うでしょうか。しかも、後でアーナンダが頼んだときには「もう遅い」と言っているのです。なんだか、すねた子供のようです。釈迦らしくありません。
 私は、これは捏造されたものだと思います。
 仮にそうだとすると、なぜ捏造されたのでしょうか? その理由は、釈迦の死後について書かれた経典から読み取れる気がするのです。

 釈迦の死後、五百人の弟子たちが集まって、今後どうしようかと相談しあったことが経典に書かれています(南伝 律蔵 小品11)
 そして、釈迦の高弟の一人、マハーカッサパが、今後、どのような方針で修行していくか、それを決める修行仲間を選出したのですが、五百人集まった弟子たちのうち、一人をのぞいてすべて選出しました。その一人とは、アーナンダだったのです。アーナンダはまだ修行が成就していないという理由からです。
 しかし、ならば、他の499人は修行が成就していたのでしょうか?
 そうは思えません。経典によれば、釈迦が死んでみんな悲しんだとき、「よかったではないか。これをしろ、これはするなと、うるさく言う人がいなくなったんだから」などと口にする不届き者もいたといいます。選出されなかったのはアーナンダ一人だけだと書いてありますので、その不届き者も選出されたことになります。
 結局、「アーナンダも仲間に入れてあげましょう」という声があがったので、仲間に入れてもらえたのですが、それからがさらにひどいのです。
 他の修行仲間から、よってたかって些細なことで責められるのです。
「あなたは、お釈迦様のレインコートを踏んだ。それは罪である」
「あなたは、お釈迦様の遺体のもとに女性を連れてきたので、女性の涙がお釈迦様の遺体に落ちて濡れてしまった。それは罪である」
「あなたは女性が出家できるように努力したので、女性も出家できるようになってしまった。それは罪である」
 そして、「あなたがお釈迦様に永遠に生きて欲しいと頼まなかったから、お釈迦様は亡くなられてしまったのだ」などと言って、お釈迦様が亡くなったのをアーナンダのせいにして責めているのです。
 こうなるともう、イジメとしか言えません。
 これは私の勝手な想像ですが、アーナンダは釈迦の身近でお世話をして、もっとも可愛がられていました。たぶん、そのことを他の修行僧たちは妬んでいたのではないかと思います。釈迦の生前は我慢していましたが、釈迦が死んだ今、その不満が爆発して、まったくささいなことでアーナンダを責めたのではないかと思うわけです。そして「お釈迦様に永遠に生きて欲しいと頼まなかったから、お釈迦様は亡くなられてしまったのだ」という例のエピソードも、アーナンダのイメージを悪くさせるために捏造されたものではないかと思います。釈迦があのようなことを言うとはとうてい考えられないからです。

 いかがでしょうか。あくまでも経典に書かれてある内容が事実で、私の推測が正しければ、という前提ですが、釈迦の死後に集まって、経典を作成した弟子などというのは、嫉妬という、もっとも俗っぽい煩悩からも解脱していない、しょうもないボンクラばかりだったことになります。これでは、信頼できる経典になるはずがありません。
 アーナンダは当時、解脱していなかったかもしれません。しかし、経典のあちこちから垣間見られる彼の純真さ、優しさ、誠実さから、他の499人の弟子たちよりもずっと霊格が高かったと、私は考えています。そんなアーナンダ一人だけ仲間はずれにするというのは、どう考えてもおかしい。悪意があるとしか思えないのです。これではまるで、今の私たちの職場や学校ではびこっている、陰湿なイジメと何も変わらないではありませんか。まがりなりにも聖をめざしている人たちのすることではありません。俗もいいところです。恥ずかしいとは思わないのでしょうか。

 これが、釈迦という偉大な霊的指導者のもとで直接教えを受けた弟子たちのレベルなのですから、心底がっかりしてしまいます。釈迦の教えの基本中の基本さえ体得していません。
 ですから、原始仏典でさえも、釈迦の教えの実相が伝えられているとは限らないのです。むやみにありがたがり、信じ込んではいけないのです。もちろん、すばらしいことも書かれています。正しいと思われることも、学ぶべきこともたくさん書かれています。しかし、すべてが正しいのだと理想化してはいけないのです。冷静な目を持って読む必要があります。釈迦の弟子といえども、ボンクラが少なくないのです。
 むしろ、大乗仏教からの方が、優秀な人材が多く輩出しているような気さえします。なので、私は必ずしも大乗仏教は否定していないのです。ただし、全面的に肯定もしていません。大乗仏教は大乗仏教なりの問題点もあるのです。
 次回、その点について述べてみたいと思います。
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コメント

>すべてが正しいのだと理想化してはいけないのです。冷静な目を持って読む必要があります。

肝に銘じておきたいと思います。

私は日々の先祖供養のためにお仏壇に向かう程度の詳細を知らない者ですが、そんな中でも仏法僧に帰依するということがどうしても合点がいかずに過ごしております。

お釈迦様は自分と法を拠り所とせよと言われた。今の葬式仏教の中での僧侶の在り方などを見るたびに、どうしてこんな人を敬うなどなどできようかと思ってしまいます。自分たちの地位を高いところに置こうとする意図をどうしても感じてしまいます。

大乗仏教は果たしてどうなのか。私も興味があります。日本は大乗仏教にふさわしい地であると聞いています。

楽しみにしています。ありがとうございました。
2018-05-15 Tue 07:55 | URL | とおる [ 編集 ]
 こんにちは、斉藤先生。記事お疲れさまです。
 アーナンダがあまりにも可哀想すぎますね。人は集団になるとどうしてこうも愚かなことを繰り返すのでしょうか。自分はなんのために修行をしているのか忘れてしまうようですね。
 反面教師にして頑張ろうと思います。
2018-05-15 Tue 12:40 | URL | ワタナベ [ 編集 ]
斉藤啓一です。
とおる様、コメントありがとうございました。今日「仏法僧に帰依する」ということは、間違って使われています。「葬式仏教」は、本来の仏教とはまったく反対のことをしています。この点については次回、お話させていただきたいと思います。

ワタナベさん、コメントありがとうございました。本当に、人間は集団になるとなぜ愚かしくなってしまうのでしょうね。こうしたことについても、今後、お話させていただこうと思っています。よろしくお願い申し上げます。
2018-05-16 Wed 20:01 | URL | [ 編集 ]

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