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心の治癒と魂の覚醒

        

葬式と仏教


 特に仏教の信仰をしている人でなければ、一般の人にとって仏教というと、ほとんどの人が「葬式」を思い浮かべるのではないかと思います。「仏教というのは死者を弔う宗教だ」くらいに思っている人が大半ではないでしょうか。
 実際、仏教の僧侶をみかけるのは、ほとんど葬式のときくらいなものです。
 しかし、真の仏教(釈迦が説いた教え)は、葬式とは何の関係もありません。むしろ、葬式などするべきではないと釈迦は考えていたはずです。たとえ百歩ゆずって、仏教徒が葬式をしてもいいと考えていたとしても、それが修行より優先されたり、ましてや、大金を取るといったことは、釈迦は決してゆるさなかったでしょう。
 釈迦がゆるさなかったことを、日本の僧侶のほとんどがしているのです。
 真の仏教とは何かを論じるために、いわゆる「葬式仏教」に見られるあやまった見解を正したいと思います。
 私は、彼らが自らを仏教徒であるといわず「葬式屋」と名乗っているなら、何も文句は言いません。商売なのですから、何も問題はありません。そのかわり、収益を「お布施」などと言って税制上の優遇を受けることなく、ちゃんと納税してもらわなければなりませんが。
 もしそれを「お布施」と言いたいのなら、(私から言わせると)詐欺まがいの葬式などせず、清らかな修行者となるべきだと思います。

 釈迦の教え、つまり、真の仏教の立場から言えば、葬式はあきらかに「詐欺」です。
 なぜなら、葬式というのは、死んだ人が成仏して死後によいところ(極楽・天国)に行って幸せに暮らせるよう、僧侶がお経を唱えたり祈りを捧げたりする儀式だと思いますが、釈迦は、そんなことをしても無駄だと、はっきり言っているからです。
 ある村長が、釈迦のもとに来て、次のように質問したエピソードが伝えられています(阿含経 南伝 相応部経典 42,6)。長いので短くまとめて紹介します。
「バラモン教の僧侶は、人が死んだ後、その名を呼んで天界に入らせることができると言いますが、そんなことが可能なのでしょうか?」
 それに対して、釈迦は次のように答えています。
「ここに人があり、その人は、人の命を取る者であり、与えられざるを盗る者であり、よこしまの快楽にふける者であり、うそをいう者であり、両舌をもてあそぶ者であり、あるいは、乱暴な言葉を語り、誠実ならぬ言葉を語り、強欲にして、いじわるであり、間違った考えをもった人間であったとしよう。そこに大勢の人々が集まってきて、<この人が、死んだ後には、どうかよいところ、天界に生まれますように>といって、この人のために祈り、この人を礼賛し、合掌して、そのまわりを周回したとする。そんなことをしても、死後、天界に生まれることはない。悪しきところに生まれるであろう」
 ここには「葬式」という言葉は使われていませんが、葬式のことを言っていることはあきらかです。葬式をして、「死後、よいところに生まれますように、成仏しますように」と祈っても無駄だと、はっきりと言っているのです。
 ちなみに、この経には続きがあり、「よい行いをした人であれば、たとえ死後、<この人が悪いところに生まれますように>と祈ったとしても、この人は天界に生まれるだろう」と言っています。要するに、その人の生前の生き様によって、よいところに行くか悪いところに行くか決まると言っているのであり、「よいところに生まれますように、成仏しますように」と祈ればそうなるなどという、虫のいいことはないと言っているのです。
 このように、葬式は死者をよいところに導くものではないと、釈迦ははっきりと言っているのです。
 仏教徒であれば、釈迦の教えに従うべきでしょう。それなのに、「葬式をあげれば成仏していいところに行けますよ」などと、釈迦の教えに反するウソを言って葬儀を行うことは、詐欺と言わないで何と言ったらいいのでしょうか。

 しかも、「戒名」などという、さらに悪質なインチキを大金で売りつけています。
 戒名というのは、「あの世へと旅立つ際、仏様の導きが得られるよう、仏様の弟子になった印として授かる名前」のことです。つまり、戒名がつけられないと仏様の弟子になれず、仏様の導きが得られずによいところに行けないということなのでしょう。
 そんなことを言われると、家族は心配になって戒名をつけざるを得ません。悪質な坊主は、家族のそんな弱みにつけこんで、高額な戒名を勧めてカネを儲けているのです。
 ネットで調べたところ、戒名の値段は平均すると三十万円から五十万円です。しかも馬鹿らしいことに、「ランクの高い戒名」というのがあるのです。その戒名は普通の戒名の倍くらいの値段です。つまり、高いのになると百万円もするのです。
 普通の人が百万円を稼ぐには、何ヶ月もかけて大変な思いをして、やっと手に出来る金額です。それを坊主は、それこそ適当にさらさらと書いて終わりです。三十分もかからないでしょう。「坊主まるもうけ」とは、よく言ったものです。
 家族は、ただでさえ愛する人を失った悲しみにうちひしがれ、その他にもいろいろとお金がかかるというのに、そんな哀れな人から、大金をむしりとっているのです。ヤクザみたいなものです。ヤクザは自分たちが悪い人間だとたぶん自覚していると思いますが、坊主はこんなあくどいことをして、自分たちは立派だと思っているかもしれません。だとしたら、ヤクザ以上にたちが悪いです。地獄に行くとしたら、このような坊主たちがまっさきに行くのではないかと思います。

 釈迦は、戒名をつければ死後に仏弟子になれるなどとまったく言っていません。ましてや、いい戒名をつければそれだけあの世でいい思いができるなどということは、これっぽっちも言っていません。すでに述べたように、そもそも葬式そのものに意味がないのですから、戒名などというのは、まったくのインチキなのです。
 そうして坊主たちは私腹を肥やしています。立派な屋敷に住み、高級外車を乗り回していたりします。
 もし、戒名もつけず葬式もあげない人に対して、「あなたの死んだ愛する人は死後、よくないところに行って苦しみますよ、それでもいいんですか」などと、たとえ露骨には口にしないとしても、そのような無言の圧力をかけているとしたら、これはもう脅しであって、詐欺のなかでもかなり悪質だといわざるを得ません。悪質商法とさえ言ってもいいでしょう。
 これが、仏教徒のやることでしょうか。
 いえ、人間のやることでしょうか。
 釈迦は、世俗のあらゆる欲望を滅するために清貧の生活を送れと、しつこいくらい説いています。「傲慢になるな、謙虚であれ」と説いています。
 ところが、坊主のなかには、贅沢三昧の生活をし、ぶくぶく太ったうえに、威張っている者がいます。人のお布施で生活しているくせに、偉そうにしているのです。これも仏教徒の態度ではありません。
 「いや、自分はちゃんと葬式をしてやっているのだから、報酬をもらうのは当然だ」などと言うのであれば、それは商売ですから、仏教徒と名乗るべきではありません。ただの「葬式屋」です。
 ただし、すべての僧侶がこうだとは言いません。なかには立派なお坊さんもいらっしゃいます。だから、以上の批判は、修行もせず金儲けばかりに腐心している坊主に向けて放った言葉だと思ってください。
 残念ながら、そういう坊主の方が多いのですが。

 また、私は、葬式そのものは必ずしも否定はしません。それで残された人の悲しみが癒える、いわゆる「グリーフケア」になるのだとしたら、それはそれで意義はあると思います。
 しかし、みんな葬式をしているのだから葬式をしなければいけないとか、葬式をしないと死者が浮かばれないといったことを言ったり、あるいは、そういう風潮を作り出すことは間違っていると思います。
 葬式は、したい人はすればいいし、したくない人はしなければいいのです。それだけのことです。いずれにしろ、真の仏教とはまったく関係のないことですから。
 ちなみに、私が死んだときは、戒名なし位牌なし葬式なしお墓なし、ただ火葬だけして、骨は適当に処分してくれと家族に伝えています。死んだ後のことなどより、今この瞬間に正しい生き方をするよう精一杯生きることの方が大切です。そういう生き方をしていれば、死後のことなんて何も心配することはないわけです。
 あらためて申し上げますが、「葬式仏教」は仏教ではありません。葬式だけをしている僧侶は仏教徒ではありません。
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コメント

まさに『溜飲が下がる』思いで拝読いたしました。

一昨年の身内の死をきっかけに、私は今の葬式仏教に甚だ疑問を抱くようになりました。まったくただの金取りの菩提寺でした。そこから私はお釈迦様、人間釈迦を追うようになったのです。お釈迦様の教えをできる限り学んでいきたいと思っています。

私が求めている僧は、まさに先生がおっしゃる本当の意味での仏教僧です。それならば私も教えを請い敬いもし、まさに帰依することでしょう。

私も今では先生と同じように、ただ火葬して散骨でもしてくれればと思うようになりました。と同時に、檀家制度以前というか、今のように仏壇、菩提寺、お墓となる前、そもそも日本は死者をどのようにして祀ってきたのかにも興味を持つようになりました。

本当に胸のすく思いでした。ありがとうございました。
2018-05-29 Tue 08:02 | URL | とおる [ 編集 ]
斉藤啓一です。とおる様、コメントありがとうございました。今の僧侶の腐敗ぶりは目に余るものがあります。かなり辛辣な言葉を使いましたが、今回は遠慮なく憤りをぶつけることにしました。
引き続き、釈迦のオリジナルな教え(つまり真の仏教)はいかなるものであったか、書いてみたいと思います。よろしくお願い致します。
2018-05-29 Tue 15:37 | URL | [ 編集 ]
 こんにちは、斉藤先生。
 切れ味鋭い記事ありがとうございました。私も葬式仏教は嫌いです。日本の仏教は見失いすぎてますよね、葬式はせずに火葬して散骨するのがベストですね。
 ところで神道の葬式ってどんなでしょうか、あるんですかね?結婚式があるようなので・・・。
2018-05-30 Wed 20:05 | URL | ワタナベ [ 編集 ]
斉藤啓一です。ワタナベさん、いつもコメントありがとうございます。おっしゃるように、日本の仏教は本来の道から逸脱し過ぎています。釈迦が生きていたら激怒するのではないかと思います。
 ところで、神道の葬式については、私もわかりませんね。聞いたことがありません。ただ、仏教と違って葬式稼業に専念していないと思いますので、その点は素敵だと思います。
2018-05-31 Thu 14:21 | URL | [ 編集 ]
いつも読ませていただいております。今回は、お葬式という身近な話題で大変興味深く読みました。私は老人施設の長という立場から年に何回もお葬式に参列しています。お釈迦さまが、こういった『葬式』を認め、また、信徒であるお坊さんがこれを行い、そして、それをよしとする亡くなった人、家族がいる以上、『かまわないのではないか』、と思っていましたが、斉藤先生の、お釈迦さまは、お葬式を否定されていた、という、この話をうかがって大変驚きました。
お釈迦さまだけなのでしょうか。ほかの有名な仏教徒もみんなお葬式否定派なのでしょうか。いつもながら先生のお話は興味が尽きません。
2018-06-01 Fri 18:54 | URL | ももたろう [ 編集 ]
斉藤啓一です。ももたろう様、いつもご愛読いただき、ありがとうございます。
釈迦は葬式を否定しましたが、大乗仏教の有名な僧は、必ずしも否定はしなかったようです。しかしそれでも、質素を旨としていたはずです。
ブログにも書きましたように、葬式は必ずしも否定はしませんが、葬式をすることが負担になるようではよろしくないと思います。するにしても、もっとお金がかからず簡素にするべきだと思っています。
2018-06-01 Fri 21:12 | URL | [ 編集 ]
こんにちは。

斎藤先生の記事の更新をいつも楽しみにしています。

子供の頃から生き辛さを感じていて、
精神世界に救いを求めて、
でも、精神世界にも、疑問を感じるようになって来ています。

先生のお話は納得の行くことばかりです。

今の日本の仏教は、先生のおっしゃる通りです。
自分も、墓じまいをしたいです。
世間体や、恐れや不安(お葬式や法事をしないと障りがあるのではないか)がある為、なかなか踏み切れない自分がいます。

病気などになり、法事を忘れていたとか、カ墓石が傾いていたなど聞く事もありますが、たまたまでしょうか?
2018-06-05 Tue 13:56 | URL | なうなう [ 編集 ]
斉藤啓一です。なうなう様、コメントありがとうございました。「子供の頃から生き辛さを感じていて、」とありますが、私と同じですね(笑)。
もし葬式や法事をしないと悪いことが起こるというのであれば、日本のような葬式や法事のない外国の人々は、みんな悪いことが起こっていることになります。だから、そのようなことはありません。
ただ、もし不安であれば、せいぜいたまにお墓に行ってきれいに掃除をしてあげるだけで十分です。
墓じまいの場合、最後の死者から3年以上たっているのであれば、墓じまいをしても大丈夫だと思います(3年以上たっていなくても大丈夫ですが気持ちの問題として)。
以上、ご参考までに。
2018-06-05 Tue 20:36 | URL | [ 編集 ]

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