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心の治癒と魂の覚醒

        

「仏法僧」の本当の意味  

 
 前回は、「葬式仏教は仏教ではない」ということをお話いたしました。
 葬式以外で、一般の人が仏教といって思い浮かべるのは、お寺にお参りして、仏様にさまざまな祈願をすることではないかと思います。「商売が繁盛しますように、受験に合格しますように、病気が治りますように、結婚できますように、いやな人と縁が切れますように」などと、さまざまなお願いを、仏様が叶えてくれるように祈るわけです。
 これもまた、仏教(釈迦の説いた教え)とは関係ありません。
 というより、仏教とは正反対のことをしています。
 仏教では、仏というのは覚者(悟った人)のことであり、○○仏だとか○○菩薩と呼ばれる神霊的な存在のことではありません。そういう、いわゆる「仏様」に祈れば、現世的な福を叶えてくれるなどとは、まったく説かれていません。
 では、神霊的な存在ではなく、肉体を持った生きた仏、つまり覚者に対して、何かお願いをすれば、それを叶えてくれるのでしょうか? たとえば、釈迦に対して「悟りが開けますように」と祈れば、釈迦は叶えてくれたのでしょうか?
 しばしば、覚者だとか聖者のそばにいて帰依すれば、何か福徳が得られたり、悟りが開かれるエネルギーのようなものをもらえるのだと信じている人がいますが、釈迦はそういったことを否定しています。
 「私は指導者として教えているが、涅槃に到達する者もあれば、しない者もある。それを、私がどうすることができよう。私はただ、道を教えるのみである」(阿含経 南伝 中部経典 107)と言っているのです。
 仏とは、ただ教えを説くだけであり、救われるかどうかは本人(の努力)しだいだというわけです。お願いをすれば叶えてくれる存在ではないのです。
 しかも、そのお願いというのが、現世的な幸せであれば、なおさらのことです。
 なぜなら、釈迦は、現世的な幸せを求めるなと説いているからです。「切に世の中を忌み嫌う者となれ」と言っています。原始仏典を読めば、そういう言葉を繰り返し繰り返し見るでしょう。現世的な幸せを徹底的に否定しているのです。その理由はいずれ詳しく述べます。
 だから、仏様に現世的なお願いをする信者、また、それを勧めている坊主は、仏教とはまったく正反対のことをしているのです。仏教とは正反対のことをしていて、「自分は仏教徒だ」と言っているわけです。まったくおかしなことなのですが、誰もそのおかしなことに気づいていないのです。

 ところで、仏教徒や仏教信者は、「仏法僧」に帰依するものとされています。
 「帰依」とは、「(仏や神など)すぐれたものを頼みとして、その力にすがること」です。
 確かに釈迦は、仏法僧に帰依しなさいと語っています。
 そうして今日、僧侶たちも「仏法僧」に帰依しなさいと説いているわけですが、この「仏法僧」の内容が、釈迦が説いたものとまったく違っているのです。
 今日では、「仏に帰依する」とは、神霊的な仏様に帰依すること、「法に帰依する」とは、真理に帰依すること、「僧に帰依する」とは、僧侶に帰依することであるとしているようですが、これはまったく違います。
 まず、すでに述べたように、釈迦は神霊的な仏様に帰依しなさいとは言っていません。釈迦の言う仏とは覚者であり、具体的には自分のことを指していました。そして、自分の死後は他の指導者に帰依してはいけないと言っています。ですから、釈迦が死んだ時点で「仏法僧」のうちの「仏」は除外されるのです。

 次に、「法に帰依する」とは、真理に帰依するということですが(法とは真理という意味)、これは釈迦の教えと一致しています。しかし、問題は何をもって「法」というかです。今日、それはあいまいになっているようですが、釈迦は明確に法とは何かを語っています。それは前に紹介した「四諦」です(諦とは真理という意味)。すなわち、
・苦諦=この世は苦しみであるという真理
・集諦=苦しみが生じる原因の真理
・滅諦=苦しみが消滅するしくみの真理
・道諦=苦しみを消滅するための方法の真理、およびその実践
 ところが、この四つのうちもっとも重要な心臓部である「道諦」、すなわち、八正道の実践をしていないとしたら、「法に帰依する」ことにはなりません。おそらく、今の仏教徒や信者のほとんどは八正道の実践などしていないでしょう。ですから、「仏法僧」のうち、「法に帰依する」ことはできないのです。ですから、これも除外されてしまうのです。

 最後の「僧に帰依する」というのは、僧侶に帰依するという意味ではありません。そのへんの坊主に帰依するという意味ではないのです。
 釈迦の説いた「僧に帰依する」という意味は、修行仲間の「集団」に帰依するという意味です。というのは、善き修行仲間と一緒に修行することで、修行の完成が期待できるからです。次のような経文があります。(阿含経 南伝 相応部経典 45-2)
 あるとき、弟子のアーナンダが釈迦に尋ねました。
 「お釈迦様、(修行仲間と)よき友情を持ち、善き交わりを持つことは、修行のなかばにも等しいと思うのですが、いかがでありましょうか?」
 すると、釈迦は次のような回答をしています。
 「アーナンダよ、それは違うよ。よき友情を持ち、善き交わりを持つことは、修行のなかばではなくして、そのすべてである。なぜなら、そのような交わりを持てば、八正道を実践し、その修行を最後まで重ねるであろうことが期待できるからである」
 つまり、「僧に帰依する」という意味は、「善き修行仲間と一緒に修行しなさい」ということなのです。ですから、修行をしていない者は、「僧に帰依する」ことはできないのです。
 そこで、「仏法僧」のうち、「僧に帰依する」も除外されます。
 これで、全滅です。
 今日、「仏法僧に帰依する」という仏教徒の言い分は、本来の釈迦の教えから見た場合、まったくデタラメなことをしているわけです(大乗仏教なりの言い分はあるでしょうが)。

 釈迦は生前、「仏法僧」に帰依しなさい、すなわち、自分と四諦と修行僧の集まりに帰依しなさいと説きましたが、死ぬ直前は、次のように言っています。
 「(私の亡き後は)、自己を拠り所とし、他人を拠り所とすることなく、法を拠り所とせよ」(阿含経 南伝 相応部経典 47,9)
 また、バラモン教徒から、釈迦という拠り所がなくなったあなたがた修行僧たちは、今後どうするのですか? と問われたとき、アーナンダがこう答えています。
 「私たちには拠り所があります。すなわち、法という拠り所があるのです」(阿含経 南伝 中部経典 108)
 これは、何を意味しているのでしょうか?
 釈迦が存在していない今、真の仏教徒は、ただ「法」を拠り所とし、「法」に帰依しなさいということです。他人、つまり、グルだとか指導者といった存在を拠り所としたり帰依したりせず、ましてや神霊的な仏様に帰依したりせず、自分を拠り所とし、法を拠り所として、修行に励みなさいということになるのです。
 要するに、釈迦の教えをもとに、ひとり仏道を歩む者、これが、現代における真の仏教徒の姿ということになるのです。葬式をしたり、寺にお参りに行ったり、仏様に祈ったりすることが、仏教徒なのではありません。そんなことは、仏教とは何の関係もないばかりか、むしろ仏教の教えに反する場合もあるわけです。

 では、真の仏教(釈迦の説いた教え)とは、いかなるものだったのでしょうか?
 それを次回から、少しずつ説明していきたいと思います。
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コメント

 斉藤先生、こんにちは。たしかに釈迦の教えを守れている仏教徒はいないことになりましたね、うひゃ~。
 このブログを全ての仏教徒達に読ませたいですねえ。
 
 >切に世の中を忌み嫌う者となれ
重い言葉だと思います。その点私は世の中を嫌いにはなれません。子供の頃から生きにくい世の中でしたが、そのことはもう許してしまいました。ええもうスッキリと。ただそれは日和見主義ではありません。影響を周りにもたらす存在であり続けることは重要です。

 斉藤先生の影響はきっと世の中に浸透していくことでしょう。遅かれ早かれ。
2018-06-06 Wed 20:17 | URL | ワタナベ [ 編集 ]
斉藤啓一です。ワタナベさん、コメントありがとうございました。
「その点私は世の中を嫌いにはなれません。子供の頃から生きにくい世の中でしたが、そのことはもう許してしまいました」

これはこれで、すごい境地だと思いますよ。詳しいことはまたブログで説明させていただきます。今後とも、よろしくお願いいたします。
2018-06-06 Wed 21:52 | URL | [ 編集 ]
今回も大変勉強になりました。
今の葬式仏教に辟易し、かつただの金取僧侶に嫌悪感すら抱きつつ、それがどこか罰当たりな気もして、もやもやしていました。僧に帰依するとはそういう意味だったのですね。

原始仏教関連のサイトを見るようになって、私は私の仏教、仏の教えを貫こうと思うようになりました。それがまさに先生も仰っている釈迦が何を教え、何をその道を行く者に求めたかを知ることからでした。

自分と法とを灯明とする。自信をもって自分なりの生きる修業(大袈裟ですが)ができます。

ところで、私にはひとつ大きな疑問があります。釈迦はこの世は苦しみであるとしました。そこが教えの原点だと思うのですが、実はこれこそがこの世をとらえる大きな間違いではないのかと現代を生きる者として思うことがあります。

釈迦の生まれた時代背景を見れば確かにそうだろうとは思いますが、そもそもこの発想自体がどうなのか。この発想自体に捉われて、人はみな苦しみの中で生きて、それを克服していくのが当たり前、それが正しい生き方なのだというように絶対視されていないだろうかといった疑問を持ってしまいます。

この世は苦しみだということが生きていく上でのすべての起点になってしまうのは、無視意識にもそう刷り込まれてしまうのはどうなのだろうかと。

先生のこのシリーズの記事更新を楽しみにお待ちしています。今回もすっきりさせていただきました。ありがとうございました。
2018-06-07 Thu 08:47 | URL | とおる [ 編集 ]
斉藤啓一です。とおる様、コメントありがとうございました。とおる様の疑問につきましては、実は次回に書こうと思っていたところでした。私としてはあくまでも釈迦の説いたことを書かせていただく予定ですが、とおる様の疑問につきましては、検討に値するものであると思います。
2018-06-07 Thu 21:42 | URL | [ 編集 ]

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