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心の治癒と魂の覚醒

        

どのような人が真の仏教を理解できるのか


 真の仏教を理解することは、容易ではありません。その教説を頭で理解することは、それほど難しくはないのですが、それでは仏教を真に理解したことにはならないからです。
 釈迦が悟りを開いたとき、自らの教えを世の人に広めるかどうか迷ったとされています。そのときの釈迦の境地について書かれた経文のエッセンスを紹介してみます。(阿含経 南伝 律蔵 大品 1,6、1-9)
 「私が証(さと)りえたこの法(真理)は、はなはだ深くして、見がたく、悟りがたい。寂静・微妙にして思惟の領域を超え、すぐれたる智者のみのよく覚知しうるところである。しかるに、この世間の人々は、ただ欲望を楽しみ、欲望を喜び、欲望に躍るばかりである。そのような人には、この理法はとうてい見がたい。……もし私がこの法を説いても、人々が理解しなかったならば、私はただ疲労困憊するばかりであろう」
 すると、それを知った神霊的存在が、「これでは世間は滅びてしまう。世の中には法を理解する目をもった人も、少ないがいる。彼らも法を聞かなければ堕ちてしまうだろう。だから、法を説いてください」と頼み、釈迦も了解して法を説いたというのです。

 釈迦の言う「思惟の領域を超え、すぐれたる智者のみのよく覚知しうる」というのは、単に頭だけの理屈で考えただけではわからず、それを超えた智恵がなければ理解できないということです。もし理屈で理解できるなら、仏教学者はみんな解脱しているはずですが、そうは思えません。単なる頭ではなく、もっと深い意識レベルでの理解を言っているわけです。
 そして、「欲望を楽しみ、欲望を喜び、欲望に躍るばかりの人々には、この理法はとうてい理解できない」と言っています。
 しかし、私たちはまさに欲望を楽しみ、喜び、躍りながら生きているのではないでしょうか。ですから、仏教を理解することは非常に難しいのです。世の中の99パーセント、いえ、それ以上の人は、仏教を何も理解していないでしょう。理解していないのに「自分は仏教徒だ」と名乗っている人ばかりなのです。

 前に申し上げましたように、仏教の教えは「四諦」です。そのうちの最初の「苦諦」を、腹の底から理解できないと、仏教は理解できません。興味さえ湧かないでしょうし、仏道を歩みたいとも思わないでしょう。
 苦諦というのは、「この世の中(人生)は苦しみである」という真理です。
 ここでまず、多くの人は疑問に思います。「確かに人生には苦しいこともあるけれど、楽しいこともあるし、みんなそうやって何とか人生を送っているではないか。人生を苦しいと決めつけるのは極端だし、ずいぶん悲観的ではないのか」と。
 確かに、ほとんどの人は、喜怒哀楽を経験しながら、仏道の修行などしなくても、なんだかんだ言いながら一生を終えていきます。それでいいのではないかという考えも湧いてきます。
 しかし釈迦は、そうした苦諦の真理が理解できない人を「愚か者」と呼んでおり、いかに人生というものが苦しいものであるか、繰り返し繰り返し説いています。
 私個人としては、人の生き方はそれぞれなのですから、他人がとやかくいう筋合いではないと思っているのですが、釈迦は容赦がありません。苦諦という「真理」を見よと、何回も説いているのです。

 ここで問われるのは、苦しみは主観的な感覚であり、人によって強く感じたり弱く感じたりするということです。家族など身内が亡くなっても、それほど悲しまない人もいます。かと思うと、猫やウサギといったペットが死んだだけで、食事も喉を通らないほど苦しむ人もいます。
 苦しみをあまり感じない人にとっては、この世は苦しみではないでしょう。
 ただし、「今のところ」という条件がつきます。
 というのは、仏教で説かれる輪廻転生が本当であるとすると、何回も何回も生まれ変わり、さまざまな経験をいやというほど積んでいくわけです。すると、いい加減に人生というものにうんざりするであろうからです。つまり、地上のあらゆる快楽をとことん味わい尽くし、あらゆる苦しみをとことん味わい尽くすと、苦しみはもちろんですが、快楽さえも、「もう勘弁してくれ」となるのです。おいしい料理を次から次へと食べさせられたら、しまいにはうんざりするのと同じようなものです。しかも、快楽にはきりがなく、どんどんと膨張して、ついにはその快楽が苦しみの原因になるということを、肌身に沁みて感じ取ることになります。そして、快楽と苦しみの往復という不安定な状況から抜け出したくなってくるのです。

 過去に、そうして何回も何回も生まれ変わりを繰り返し、さまざまな経験をイヤというほど積んで地上人生にうんざりして生まれてきた魂が、釈迦の苦諦を理解できるのだと思います。それは理屈ではなく、共感的に理解するといった方がいいでしょう。
 そういう魂を持って生まれた人は、地上の楽しみに接しても、一時的に憂さ晴らしができる程度で、その後には虚しい気持ちに襲われるものです。人々が楽しいと思えるものも、心底楽しいとは思えません。また、苦しみに対しては人一倍鋭く反応します。過去の生でさんざんひどい苦しみを受けてきたために、ちょっとしたことでも、苦しみを強く感じるようになっているのでしょう。また、こういう人は、子供の頃から生きづらさを感じたりします。
 そこで、地上の楽しみも、苦しみもない、地上を離れた、別次元の安定した清らかな幸せというものを希求するようになるのです。
 釈迦は、そういう魂の持ち主であったのでしょう。そして、そんな釈迦の教えに惹かれる人も、そういう魂の持ち主なのだと思います。そういう人が、真剣に仏道を歩もうという気持ちになり、チャンスに恵まれれば、実際に歩んでいくわけです。
 仏教は、そういう魂の持ち主のための宗教なのです。
 差別的な言い方をするようで恐縮なのですが、生まれ変わりの回数が多くない、つまり地上人生の経験が少ない「若い魂」は、四諦の教えは理解できません。しかし、何回も生まれ変わりを繰り返し、数多くの人生を経験して「年配の魂」になると、四諦の教えをすんなりと理解し、仏教に関心を抱くようになり、また実践するようになるのです。
 つまり、どんな人もいつかは、釈迦の教えを理解する日が来るということです。
 けれども、そこに至るまでには、怖ろしいほどの苦しみを経験しなければなりません。来世も現世と同じような人生を歩むとは限りません。たとえば北朝鮮に生まれ、言いたいことも言えず、貧しい生活を余儀なくされ、餓死したり、反抗しようものなら拷問を受けて目玉をえぐられるかもしれません。そんな人生を送りたいと思うでしょうか。「自分は悪いことをしていないからそんなことは起きない」とは言えません。仏教によれば、過去生で犯した悪事が現世で現れるとは限らず、さらに持ち越して来世で現れるかもしれないからです。来世は、どんなひどい悲惨な人生になるか、わからないわけです。
 ですから釈迦は、なるべく早く仏教の真理を理解し、この地上と輪廻の苦しみから解脱した方がいいと言っているのです。そのために、しつこいほど、「この世は苦しみだぞ、この人生は苦しみだぞ、このことをわかってくれよ」と、繰り返し説いているのです。それは、釈迦の慈悲のあらわれなのです。
 このように、「この世は苦しみ」という「真理」は、理屈というよりは感覚的な共感によって理解されるものだと思います。この最初の苦諦を理解できなければ、残りの集諦、滅諦、道諦は理解できません。つまり、仏教を真に理解することはできないでしょう。
 苦諦を理解した人、つまり、仏教を理解できる可能性を秘めた人は、この世俗にあまり魅力を感じません。厭世的な傾向があるかもしれません。金儲けや欲望をつかみとるために血眼になることはないでしょう。頭だけ丸めただけの金儲け坊主などは、仏教をまるで理解していないことは明白です。
 こういう人は、世俗に対する野心といったものが希薄ですから、まず出世したりしません。なので、社会的には無能あつかいされることが多いかもしれません。ある種の「社会不適応者」です。釈迦の生きた当時なども、出家する人などは、世の中に生きづらさを覚え、世の中とうまくやっていけない社会不適応者だったと言えるでしょう。
 真の仏教が理解できる人というのは、そうした社会不適応者の中にいるのだと思います。

 余談になりますが、私も若い頃、世の中に生きづらさを感じ、厭世的な社会不適応者でした。20歳のとき、仏教の教えに惹かれたのですが、金儲けの坊主は嫌いで、そういうのは本当の仏教徒とは思えなかったので、釈迦の生きていた時代の、あの真の求道心をもった、清らかな修行僧がいないかどうか、いたら弟子入りしたいと願っていました。
 そうしたら、ふとしたきっかけで、そのようなお坊さんの存在を知りました。
 その方は、葬式などはせず、どの宗派にも属さず、貧しい小さな寺に独り住み、托鉢によって生計を立て、原始仏典を読みながら釈迦のオリジナルな教えを実践されている方でした。詳しいことは忘れましたが、当時、関西地方に住んでいらして、けっこうな年配だったと思いますので、もうご存命ではないと思います。
 私はその方に手紙を書きました。するとすぐに返事が来て、「あなたのようなタイプは出家するのがよい。出家して私と一緒に暮らしながら修行しませんか?」と、ありがたいお言葉を頂きました。不思議なことに、その方の本名は、私の名前と一字違いの「斉藤●一」さんであることが、お手紙を頂いてから知りました。その方も「深い縁を感じます」と書かれておられました。
 迷いました。本気で世を捨てて出家しようかなと思いました。
 しかし、私は中途半端な人間でした。
 若かった私は、まだ未知なるこの世界に対する好奇心が旺盛で、今でもそうなのですが、冒険心が強く、なんでも見てやれ経験してやれ、といった熱情が抑えられなかったのです。出家して、欲望を捨てながら狭い世界で刺激のない生き方をすることは、とうていできないと思いました。そこで、かなり迷いましたが、丁重にお断りの返事を差し上げたしだいです。
 結局、私は世俗にも、かといって世俗を離れた出家生活にも、どちらにも安住の地を見出せない、中途半端な人生を送りながら、今日まで来てしまったわけです。今でもどっちつかずの中途半端な立ち位置です。
 なので、その意味では私も、真の仏教が何であるかなど、偉そうに語る資格はないのです。
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コメント

先生、今回も非常に勉強になりました。

人生振り返ってみると、確かに苦しみばかり多く、未熟な魂故にそれに翻弄されることしばしばでした。

しかし、この世は苦しみであるとする釈迦が晩年、「この世はなんと美しい」と言われたことを知り、その背景は別にして、この言葉に自分なりに心に響くものがあったのです。これこそが、この世に生まれ生きる意味ではないのかと。

この世のすべてを受け入れる。しかし、それらはすべて空である。なら、自分がこれまで抱えてきた様々な苦悩は一体何なのか。それは未熟さ故に囚われる自分の弱さだと思えるようになったのです。

人を許せないこと、憎んだり、恨んだり、悲しんだり……、この言葉を受け入れた時、様々な苦悩が和らぎ、清涼な平穏が心に満ちてくるのを感じました。

これがお釈迦様と捉えず、私が人間釈迦に触れたいと思った瞬間と理由でした。

この時から、崇めるものではなく、同じ人間として釈迦が何を思い、考え、そしてどういう境地に至ったのかに関心を持つようになったのです。そして、それを学んでみたいと。

そんな中で、先生のこのシリーズが目に飛び込んできたのです。私も先生と同じように、そのような僧侶に出会いたいと望んできましたが、まだまだ私の成長が足りないようです。

たった一つの釈迦の言葉で、私の生きる姿勢が変わりました。私の中で釈迦の教えに触れることは生き方を学ぶことであり、同時に魂の成長の師でもあるのです。

ありがとうございました。

2018-06-17 Sun 08:11 | URL | とおる [ 編集 ]
斉藤啓一です。とおる様、いつも真摯な求道心あふれるすばらしいコメントをいただき、ありがとうございます。
今日、釈迦はあまりにも神格化・絶対化されておりますが、もし現代に釈迦が生きていたら、また違った教えを説くかもしれません。
たとえば、今度私がセミナーをさせていただくカバラは、仏教とめざすところは同じですが、手段が違います。仏教では欲望を否定しますが、カバラでは欲望を「昇華」ないし「聖化」させるという考え方をします。たとえば悪は「最低レベルの善」だと解釈し、地上人生を否定せず逆に肯定するのです。釈迦は地上人生(世俗)を否定しましたが、カバラでは肯定します。しかし、めざすところは双方とも解脱であり、同じなのです。私はこういう考え方もありではないかと思っています。
ですから、真の仏教=真実であり現代人にも適合する とは必ずしも言えず、現代人なりにアレンジする必要があると考えています。
しかしとりあえず今はテーマが仏教なので、引き続き釈迦の説いた真意は何か、という点で話を続けてまいります。
2018-06-17 Sun 09:23 | URL | [ 編集 ]
斎藤 さま

今回の記事はとても深く考えさせられました。
表面上の意味ではなく、もっと深いところでの真理です。

私的なことですが、死んだ方が楽だろうと感じていた時期があります。
家族のためにすべてをなげうって努力しましたが、力及ばず、己の無力さと、終わりのない苦しみの中で、今逃げ出しても誰も責めることはしないだろうと感じながらも、這いつくばって前に進んでいました。
元々体力や精神面に強い自信はありましたが、限界はとうに超えていました。

ずっと後の健康診断で、胃や腸に無数の潰瘍の痕があり、中には穴が開いてたのではと思わせるようなものまであって、当時のストレスが異常であったことを見せつけられました。
担当した医師は、それが自然治癒してることになぜか苦笑いしていました。
もちろん、異常がでていたのは消化器官だけではないのですが。

その絶望の中にいた時、ある一人の人が私を見て、「初めて見た。なんて柔らかいやさしい光なんだ……」とつぶやきました。
知り合いでも何でもない人です。

その時の私は、何を言われているのか全く分かりませんでした。
霊媒体質のおかしなひとなのかも……くらいでした。
ただ、その絶望から回復するにつれ、これまでは感じ得なかったものを段々と感じるようになり、見えなかったものを見るようになっていきました。
単に、体の機能が壊れてしまったのかもしれません。

絶望の中にいた時に、私欲は全くなくなっていました。
自分がどう行動すれば、周りに良い結果を残せるのか、それだけを必死に考えていました。

苦しむことは、精神的にも肉体的にも、大きなダメージを残します。
しかし、苦しみの中で生まれてくるものがあることも事実だと思います。

釈迦は何故、世界は苦しみだと言ったのか。
苦しみを通してでしか知ることのできない、自分のある部分を重要視していたのだと思います。

苦しみは外から与えられるものではなくて、内面からあふれ出てくるもの。
きっかけは、自分の外にある場合もあると思います。
それに、苦しい立場に置かれることは、決して罰を与えられてるわけでも、自分が不出来だからということでもないと思います。

世界は自分の写し鏡で在り、苦しみはそれを覗くための双眼鏡のような役割をもっているのだと思います。

だから、釈迦はその苦しみとしっかり向き合って欲しいと願ったのではないでしょうか。
苦しみから逃げ出そうとしているうちは何もみえてこないけれど、それをきちんと向き合うことで、別のものが見えてくるように思います。

すみません、長いコメントになってしまいました。
2018-06-18 Mon 09:29 | URL | 黒いネコ [ 編集 ]
 こんにちは、斉藤先生。
 私もどちらかというと周りの人がこだわる快楽には無頓着で孤立感を感じて育ちました。今思えば「こうしておけば、うまくいった」と思える処世術は身に付きましたが、それではまるで演技です。演技は長続きしません。苦しくなる一方でしょう。釈迦はその種の苦しみのことも言っていたのでしょうか?
 まやかしの世間を渡る苦しみも、又苦しみといえるでしょうか?
2018-06-18 Mon 12:40 | URL | ワタナベ [ 編集 ]
斉藤啓一です。
黒い猫さま、貴重なご体験を紹介してくださり、ありがとうございました。「苦しみに意味を見出す」ということは、私個人としては同感です。ただ、釈迦はどうもそこまで考えてはいなかったように私には思えます。なぜ釈迦はこの世は苦しみだと断言したのか、その理由は次回に紹介しますね。

ワタナベさん、コメントありがとうございました。
「まやかしの世間をわたる苦しみも、苦しみかどうか」ですが、釈迦はおそらく、そのように言っていると思います。そもそも「まやかしの世間」という場所そのものが苦の温床ではないでしょうか。
この点についても、次回、ご説明できればと思います。
2018-06-18 Mon 15:46 | URL | [ 編集 ]

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