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心の治癒と魂の覚醒

        

仏道とは欲望を捨て心を清浄にする道

 仏教とは「四諦」のことで、その最初の「苦諦」を理解できなければ、仏教は理解できないということを、前回申し上げました。しかし、ほとんどの人は世の中を苦しみだと思っていないので、苦諦は理解できず、(真の)仏教などには関心がないのです。拝めば仏様がどうにかしてくれるといった(ニセの)仏教に人気が集まっているのはそのためです。

 釈迦は、世の中(地上人生)は「苦しみ」だと断言しています。
 なぜそう断言できるのでしょうか?
 まず、私たちが苦しみを感じるときというのは、どういうときでしょうか?
 それは、ひとことで言えば「自分の思い通りにならないとき」と言えると思います。思い通りにならないとき、人は苦しみを感じるのです。
 では、世の中(人生)は、自分の思い通りになるでしょうか?
 なりません。なることもありますが、永続することはありません。ですから、どのみち苦しむことになるのです。
 以上を三段論法でまとめると、次のようになります。
1.苦しみとは自分の思い通りにならないことである。
2.世の中(人生)は自分の思い通りにはならない。
3.ゆえに、世の中(人生)は苦しみである。

 では、人はなぜ、自分の思い通りにしたいと思うのでしょうか?
 それは、欲望があるからです。
 欲望が満たされれば快楽を覚え、満たされなければ苦しみを覚えるのです。快楽を味わうと、それが忘れられず、さらに追い求めることになります。
 そして、欲望が満たされれば、しばらくはいいのですが、やがて満足できなくなり、苦しくなって、もっと大きな欲望を満たそうとします。そうして、際限なく欲望は膨張していきます。しかし、世の中はどこまでもその欲望を満たしてはくれません。そのために、苦しむことになるわけです。

 しかし中には、足ることを知って欲張らず、幸せを感じられる人もいます。そういう人は、自覚がなくても仏教の教えを実践している人です。つまり、幸せな人というのは、欲望を野放しにしない人、さらに言えば、欲望が少ない人、究極的には、欲望がない人なのです。欲望がなければ苦しみは存在しません。
 苦しみの原因は、欲望なのです。
 欲望があれば、それだけ苦しみもあるということです。欲望がなければ苦しみもありません。欲望だけ満たして苦しみだけ消滅させることは、原理的に不可能です。苦しみを消滅させたければ、快楽も放棄する、つまり、欲望も捨てなければなりません。もし欲望を満たして喜びたいのなら、苦しみも覚悟しなければなりません。そのいずれかしか選べないのです。
 仏教では、絶対的な幸せの境地(涅槃)を求めますから、欲望を完全に消滅させることを目的にしているのです。

 ところが、私たちは、欲望を捨てることができません。
 欲望を満たすことができないと、人生がつまらなく、味気なく、虚しいものになってしまう気がするわけです。
 しかしこれは、麻薬の依存症と基本的には同じです。
 麻薬の依存症になっている人は、麻薬がないと、人生がつまらなく、味気なく、虚しいと感るのではないかと思いますが、麻薬の依存症ではない私たちからすれば、麻薬なんかなくても、人生がつまらなくもないし、味気ないとか、虚しいということはありません。
 それどころか、麻薬依存症の人を気の毒に思うでしょう。なぜなら、麻薬依存症の人は、麻薬がなければ苦しみを感じ、麻薬を求めて大金をつぎ込んだり、そのカネを得るために悪事をしなければならなくなるからです。また、麻薬の効果がきれれば非常に苦しい禁断症状に見舞われます。ほんの刹那的な快楽を味わう引き換えに、大きな代償、すなわち、自由を奪われて多大な苦しみを味わうことになるのです。
 同じように、私たちも、世の中や人生のさまざまなものに対する「依存症」に陥っているのです。愛の依存症、お金の依存症、名声の依存症、その他、ありとあらゆる依存症です。そのようなものに欲望を燃やして手に入れようともがいているわけです。それで一時的には多少の快楽が味わえたとしても、それ以上に、自由を奪われて苦しみをなめるという代償を払っているわけです。
 そういうものから解脱するための道が、仏教なのです。
 では、世俗の事柄に対する「依存症」から解放されたとき、人生がつまらなくなり、味気なくなり、虚しくなるのでしょうか?
 そんなことはありません。それどころか、すがすがしい自由と安らぎ、何ものによっても損なわれることのない絶対的な幸せを手に入れることができると、仏教では説いています。仏教ではそれを「涅槃(ニルヴァーナ)」と呼んでいるわけです。涅槃とは「あの世」のことではありません。あえていうなら、「安らかな境地」のことです(実際には「安らかな」という言葉でもない、もっと別次元の境地です)。

 苦諦とは、「人生は思い通りにはならない、だから苦しみである」という真理を、腹の底から徹底的に理解することです。これが、八正道の最初の修行法である「正見」です。
 そうして、「人生は思い通りにならない」という真理を、徹底的に深く理解して納得したら、どうなるでしょうか。
 その人は、人生に何も期待しなくなるでしょう。なぜなら、思い通りにはならないという真理を、はっきりと知っているからです。
 人生に何も期待しないとは、人生の何ものにも欲望を抱かないことを意味します。
 そして、欲望を抱かなければ、苦しみが生じることはありません。怒りや妬みの感情(煩悩)が生じることもありません。なぜなら、怒りや妬みは、欲望(期待)が叶えられなかったときに生じるものだからです。また、狂ったように欲望を追い求めて破廉恥な行為(迷妄)に溺れることもありません。人は、怒りや妬みや迷妄のために夜も眠れません。こうした感情は、苦しみそのものです。
 ですから、欲望がなければ、怒りや妬みや迷妄で心をかき乱されることはなくなり、安らかな境地で生きられるようになります。
 また、仏教では、欲望がなければ、この地上に肉体を持って生まれ変わることがないと説いています。肉体がある限り、どうしても「老病死」の苦しみは避けられません。しかし、生まれ変わらなければ、そうした苦しみから解放されるのです。
 このように、世俗に関するあらゆることに、何も期待しないで生きる、何も欲望を起こさないで生きる、これが、仏教徒なのです。
 そして、こうした欲望を浄化し清らかになることが、仏道の修行です。
 そう考えれば、世俗的な願いを叶えることを期待してお寺で仏像に祈りを捧げる行為などが、いかに真の仏教とかけ離れ、正反対であるかが、よくわかると思います。欲望を消して心を清浄になることが仏道なのに、欲望を煽って逆に汚れを増やしているのです。
 真言宗のお寺では、護摩といって、願い事を書いた木片を火にくべて祈願することをしていますが、釈迦はそれを仏道とは相容れない行為であるとしています。(「雑阿含経」)
「バラモンよ、木片を焼いて清浄になることができると思ってはならない。なぜなら、これは外面的な事柄だからである。外のものによって完全な清浄を得たいと願っても、それによって清浄とはならないと賢者たちは説く。バラモンよ、われは木片を焼くのを放棄して、内部の火をともす。永遠の火によってつねに心が静まっている。われは尊敬さるべき行者であって、清浄行をおこなう者である。よく制御された自己は人間の光である」

 とはいえ、欲望を捨てることは、容易なことではありません。「我慢」はできるかもしれませんが、我慢では、欲望を捨てたことにはなりません。
 では、どうすれば欲望を捨てることができるのでしょうか?
 次回はその点について説明したいと思います。いよいよ仏教の本質に迫っていくことになります。同時に、もっとも理解が難しい局面に入ることも意味します。
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コメント

 斉藤先生、こんにちは。

 欲望を抑えるのではなく、消していく秘法があるということですか?それは知りたいですね・・・と、これも欲望ですか。
2018-06-23 Sat 15:44 | URL | ワタナベ [ 編集 ]
斉藤啓一です。ワタナベさん、コメントありがとうございました。「秘法」といったものではありませんが、見方によっては秘法なのかもしれません。また「これも欲望ですか」というのは、鋭いご意見ですね。究極的にはそれも欲望であり、それも捨てなければならないでしょう。しかし、それは一番最後に捨てるものです。
2018-06-23 Sat 21:41 | URL | [ 編集 ]
先生の新たな記事を拝読するたび、扉がまた一枚開かれていく思いです。心より感謝いたします。

釈迦が晩年この世の美しさを述べた時、私もここに「涅槃」を感じたのです。そして、涅槃はどこか知らないところにあるのではない、この世にこそある。もっと言えば、自分の中にこそある。生きてこその涅槃を知ることが、釈迦が求めた生き方ではないのかと。

先生が仰る、釈迦はあまりに神格化、絶対化されていることについては、本当にそうだと思います。釈迦の教えの本質から外れていることにすら気づかない。外れた己の姿に疑念すら抱けない。これが衆生のみならず、仏教に携わっている者ですらそうなのですから、私たちがうんざりするのも道理でしょう。

釈迦は欲望、世俗を否定した。先生が仰ったカバラの教えを見るだけでも、やはり、釈迦の教えも一つのものと捉えるべきなのが、よくわかりました。これだけでも心の中が随分と軽くなった気持ちがします。それだけ私の中で、釈迦の存在と現代の仏教の在り方が混在し、整理がつかなくなっていたのだと。それだけ仏教というものを神格化、絶対化していたのでしょう。

しかし、この世に生まれてきたからには、人間、様々な欲望に塗れ、苦しむことを経験しなければ、そこを抜け出したいという思いを抱かないのでしょうね。苦しみを経験したから、解脱を知りえる。

さまざまな苦しみも、今となっては胸が熱くなり、そこには平らかな安らぎがあるばかりです。どんなこともそれを超えた時、何ものにも代えがたい安らぎがある。生きてこその涅槃を私は知りたいと思っています。

先生のブログに出会ったことは、私の心の中にあった迷いにはこの上ない良薬となりました。ありがとうございました。
2018-06-24 Sun 08:17 | URL | とおる [ 編集 ]
斉藤啓一です。とおる様、いつも熱心にご愛読くださり、私の方こそお礼申し上げます。
とおる様が指摘されている「釈迦はこの世界は美しいと言った」というエピソード、私もこの部分はとても印象深く感じており、深い意味があると思っております。それを解き明かす人物が、古代ギリシア(新プラトン学派)のプロティノスだと私は考えます。彼はいわば「ギリシアの仏陀」で、釈迦の教えと本質的には同じことを言っていると私は思っているのですが、ただ面白いのは、彼は「美」というものを解脱への重要な要素にしたことです。
今後、もし機会があれば、プロティノスに関してもここでご紹介していけたらいいと思っています。
一方、カバラの現実肯定的な修行法は、現世をまっこうから否定する仏教よりも現代人に向いている気がします。仏教は現世を汚れとして「拒絶」しますが、カバラでは、その汚れを「浄化」せよと説くのです。浄化していく努力が解脱修行だとします。たとえば、カバラ(正確に言うとカバラから派生したハシディズム)では悪はありません。悪は「最低レベルの善」とします。汚れはありません。汚れは「最低レベルの美」としているのです。この考え方が好きで、私はカバラに魅せられているのです。
2018-06-24 Sun 09:24 | URL | [ 編集 ]

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