欲望をどのように捨てるか2018-06-30 Sat 21:58
仏教の目的は欲望をなくすことです。なぜなら、欲望があるがゆえに苦しみがあるからです。欲望があるがゆえに苦しみがあるという道理は、前回、説明したとおりです。 さて、では、なぜ欲望があるかというと、それは「無明(むみょう)」が原因だというのです。無明とは智恵がない状態のことをいいます。 つまり、知恵がないから欲望があるのだと言っているのです。 無明(智恵がない)→欲望→苦しみ、という連鎖です。 これについて、もう少し説明しなければなりません。 たとえば、おいしそうなキノコが生えていたとします。しかし、それは毒キノコです。もし「これは毒キノコだ」と考えることができる智恵があれば、おいしそうだからといって、毒キノコを食べたりしないでしょう。智恵がなければ食べて苦しみます。 同じように、この世の欲望は苦しみをもたらすのに、その欲望を野放しにするのは、「欲望は苦しみをもたらす」という智恵がないからです。智恵があれば、苦しみに変わる欲望を求めたりしません。 この智恵は、四諦のなかで苦諦のことであり、それは八正道の「正見」の修行によって達成されます。 私はこの智恵のことを「分析智」と読んでいます。 分析智があれば、欲望を追い求めたりしなくなるでしょう。 ただし、欲望は「抑制」はされますが、消滅はしません。毒キノコは食べないでしょうが、「食べたい」という欲望は残ってしまいます。 そこで、仏教では、さらに高度な智恵の獲得をめざしています。私はそれを「直観智」と呼んでいます。直観智が開かれると、欲望は消滅します。 たとえば、欲望があり、それがかなえられないと、「怒り」という苦しみの感情が湧きあがります。分析智があれば、怒りは苦しみであるから怒ってはいけないと抑制されます。しかし、怒りそのものは消えません。いわば、我慢しているような状態です。それでもとにかく我慢(抑制)は必要なのです。我慢しなければ、怒りはますます増大してしまうからです。 しかし、直観智が開かれると、怒りは消滅します。 以上を、次のようなたとえで説明してみます。 電車で足を踏まれたとします。踏んだ相手は謝りもしません。あなたは怒りを覚えるでしょう。しかし、あなたは分析智によって、「怒ったら喧嘩になり、いろいろとまずいことになるだろう」と考えて、怒りを抑制します。でも、怒りの感情は残ったままです。 ところが、ふとその人を見たら、その人は目の不自由な人で、さらに足も不自由で、間違って足を踏んだことがわかり、しかも、足を踏んだことに気づいていない様子であることがわかったとします。すると、どうでしょうか。あなたの怒りは消滅するのではないでしょうか。 たとえるなら、これが直観智です。 厳密には、このたとえばあまり正確ではないのですが、とりあえず今の段階では、分析智と直観智の違いが、なんとなく理解していただけたと思います。 この直観智を得ることが仏教の最終目的です。それを達成する修行が、八正道の最後の「正定」です。ただし、いきなり直観智を開くことはできないので、そのためには、まず分析智を開いていき、しだいに直観智を開くようにしていくのです。それが残りの八正道の修行プロセスです。 表現を変えれば、欲望の「抑制」から入っていき、最後に「消滅」させる道、これが仏教なのです。 ところで、ここで大きな問題があります。 なぜ直観智によって、欲望がなくなるのでしょうか? さきの怒りのたとえでは、なぜ足を踏んだ人が障害者だとわかったら、怒りが消滅したのでしょうか? そもそも、なぜ足を踏まれたら怒りが生じるのでしょうか? 少しくらい足を踏まれても、別に何の不都合もありません。なのに、怒りを感じるのは、「自分は軽んじられた」という思いが生じるからです。つまり、自分のプライドというか、そうしたものを否定されたからです。「自分が否定された」と言ってもいいでしょう。 ところが、相手が障害者だとわかると、わざと足を踏んだのではないことがわかり、自分が軽んじられたわけではない、自分は否定されたわけではないことがわかって、怒りがなくなったのです。 以上のたとえでは、「自分は否定されたわけではない」という認識が、直観智であるという説明をしました。しかし、これは少し正確ではありません。 仏教の直観智とは、「自分が否定されたわけではない」ということを認識することではないからです。では、何を認識するのかというと、「怒りというものを感じている自分というものは存在しないのだ」ということを認識することなのです。 欲望を感じるのは、欲望を感じる主体があるからです。その主体を仏教では「我(が)」といいます。わかりやすく言えば「エゴ(偽りの自己)」です。 そして、仏教では、我(自分という意識)は存在していないというのです。 私たちは「私が、私を、私に」とか、「これは私のもの」といったように「私」という意識を持っていますが、そんなものは存在しない、単なる錯覚であると、仏教では説いているのです。「私」は存在しないと言っているのです。 欲望の主体、つまり、欲望する私が、そもそも存在しないのだと認識すれば、欲望は消滅します。これが直観智であり、仏教が最終的にめざしている境地、すなわち、悟りであり、ニルヴァーナです。 禅の道元は「仏道とは自己を習うことなり。自己を習うとは、自己を忘れることなり」と説いていますが、まさにその通りなのです。厳密に言えば、「自己を忘れる」というより、自己など存在していないことを知るということになるでしょうか。 自己など、どこにも存在しない。仏教ではこのことを「諸法無我」と呼んでいます。 つまり、実は苦しみの最終的な根本にあるのは、欲望ではなく「我」なのです。「私という意識」なのです。これがあるから、欲望が生まれ、苦しみが生まれるのです。 ですから、仏教の最終的な目的は、我の消滅です。正確に言えば、我など存在しないという認識を得ることです。無明とは、「我など存在しないことがわからない状態」ということになります。 ところが、ここで再び大きな問題が生じます。 いま「我など存在しないという認識を得ること」が仏教の最終目的だと言いましたが、しかし、「我など存在しないという認識」をする主体そのものは、いったい誰なのか?、ということになってしまうのです。認識するという行為は誰が行っているのか?ということです。それもまた我ではないのか? という疑問が生じるのです。 「私は、私など存在しないことがわかりました」と言ったら、おかしなことになるでしょう。「そう思っている<私>は誰なんだよ?」と、ツッコミを入れたくなるでしょう。これと同じ理屈です。「私」が存在しないなら、「私が存在しないことがわかる」ということはありえません。 ところが、こういう疑問は自然に起こるのだと思うのですが、釈迦は次のように言っているのです。 「(誰が執著するのですか?という問いに対して)このように問うのは正しくない。わたしは<(誰かが)執著する>とは言わない。……”いかなる縁にもとづいて執著があるのですか?”とわたしに問うべきである」(雑阿含経) 理屈からすれば、執著(欲望)する主体があるはずなのですが、釈迦はそういう主体を「否定した」、というより、「考えない」という立場をとっているのです。 いったいなぜなのでしょうか? これは、仏教のもっとも深い核心部分です。ここがわかったら、真の仏教がわかったことになると思います。次回は、この点について説明したいと思います(もし説明できれば、ですが)。 スポンサーサイト
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コメント
今回の記事も得心の行く内容で、何度も頷かずにはいられませんでした。
私も今になって漸く「すべては無(空)である」と思えるようになり、以前よりも落ち着いた日々を過ごせるようになりました。 要らぬ感情にとらわれそうになった時、すべては無であることを思い起こし、そうすることで自分を抑え平静でいられるようになりました。すべては愚かな「我」が引き起こしていることだと。 そして、身近な人の死から、遺品を整理しながら考えることが多々あり、私は本当の自分とは何なのか疑問を持つようになりました。我をすべて取り除いた自分とは一体どういう者なのか、です。私たちの本性はそこにあるのでしょうか。 次回の更新も非常に楽しみにしております。 プロティノスにカバラも興味深く感じております。これからもよろしくお願いいたします。 2018-07-02 Mon 08:12 | URL | とおる [ 編集 ]
こんにちは、斉藤先生。今回は難しいですねー
>”いかなる縁にもとづいて執著があるのですか?”とわたしに問うべきである」 私に問うことは「私(我)」が存在することになるし、何にも執着しない私がいることになるでしょう。 深すぎですねえ、ギブアップです。大人しく次回の記事を待ちます。 2018-07-02 Mon 12:24 | URL | ワタナベ [ 編集 ]
斉藤啓一です。とおる様、そしてワタナベさん、コメントありがとうございました。
「我をすべて取り除いた自分とは一体どういう者なのか」→本当に難しい問題ですね。ただ、釈迦はこういう哲学的な議論というものを嫌いました。理屈など深く知らなくても、修行をすれば解脱できるのだとしたのです。そこが救いではありますね。なにも学者のように頭がよくなければ悟りを開けないということではならないわけです。 もっとも、修行することの方が、ある意味では難しいとも言えるのですが・・・ これからも、よろしくお願い致します。 2018-07-02 Mon 15:23 | URL | [ 編集 ]
こんにちは、斉藤先生。今回は難しいですねー
>”いかなる縁にもとづいて執著があるのですか?”とわたしに問うべきである」 私に問うことは「私(我)」が存在することになるし、何にも執着しない私がいることになるでしょう。 深すぎですねえ、ギブアップです。大人しく次回の記事を待ちます。 2018-07-03 Tue 12:24 | URL | ワタナベ [ 編集 ]
すいません、同じコメントをおくってしまいました
2018-07-03 Tue 12:25 | URL | ワタナベ [ 編集 ]
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